伝説的な皇帝で、劉備の先祖とされている劉邦がいます。
三国志の時代にも、劉邦に憧れる人は多かったでしょう。
そして、劉邦の魅力的な性格も解説していきます。人を惹き付けたい人は、学んでおくべきでしょう。
劉邦が天下を獲得出来たのは、この3人がいたからこそなのです。
また、劉邦と劉備についても論じています。建国者同士、非常に凄い人たちです。
他にも、始皇帝と項羽と劉邦のつながりも語っています。
始皇帝は力ずくで他の国を併合して統一な中国を作り出した人物なのです。
項羽は、乱れ始めた秦国を滅ぼしました。項羽は大将軍にして、いわゆる覇王です。
いにしえの漢帝国建国者劉邦について、お知らせしていきます!
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目次
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漢帝室初代皇帝高祖劉邦について!
劉邦は、貴族の身分ではなく庶民から、一気に漢帝国皇帝に就任したのです。
- 厳酷な法制度で六か国を統一した始皇帝と秦に打ち勝った劉邦の違い
- 覇王項羽と農民出身の劉邦について
日本で言うと農民から天下人に大出世した豊臣秀吉に近いでしょう。
下から這い上がっていきたい人は、豊臣秀吉だけでなく、劉邦の生き方も学ぶべきと言えます。
そして、劉邦は仲間も庶民が多いため、漢建国までに中国で非常に大きい変動が生じたことが分かるのです。
劉邦の時代は、そもそも秦国が統治していました。
ですが、過酷な法制度と内部の権力闘争で乱れたため、劉邦らが決起し打倒したのです。
その後に上手く人心掌握した劉邦が、頭一つ抜きん出ていきました。
漢帝国初代皇帝の劉邦は、庶民から乱世の流れで飛躍したのです。
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厳酷な法制度で六か国を統一した始皇帝と秦に打ち勝った劉邦の違い
始皇帝の行列を見た劉邦は、あのようになりたいという風に発言したのです。
後に漢帝国皇帝となる劉邦は、ここに起源があるのでしょうか。
始皇帝は、元々秦国に存在していた法制度を上手く活用して、他の6か国を滅亡させました。
劉邦は、そのへんの庶民からいわゆる叩き上げで出世し、過酷な法律を廃止して人民を労わったのです。
そして、始皇帝の前の時代は、たくさんの国があり、法律を整備して他国に打ち勝っていかなければなりませんでした。
ですが、統一した後も厳しい法制度で取り締まってしまったことで、民心が離れていったのです。
反対に劉邦は自らがきっちりしていない面を有しているからなのか、厳しい法を無くして仁により国家運営を行ったのです。
劉邦はかつて、始皇帝のようになりたいという風に述べました。
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覇王項羽と農民出身の劉邦について
秦国の後に天下を掌握したのが項羽で、劉邦は項羽の配下でした。
項羽が天下を治めていた際に、秦国との戦での功績ではなく項羽と仲が良いかで、褒美が提供されていたのです。
実力者が冷遇されるという事態が生じてしまい、劉邦らと共に項羽に反旗を翻していきました。
前漢の三傑の一人の韓信も、項羽配下にいたのですが、評価されないので劉邦に付いたところ、大将軍に抜擢され、大勝利を収め続けました。
名参謀の陳平も項羽の部下だった時期がありましたが、結局は劉邦配下に落ち着き、項羽陣営をかき乱したのです。
項羽は人を得ても評価出来ず、使いこなすこともできませんでした。
項羽は一時的には天下を得ましたが、人心を得ることに長けている劉邦に、最終的には敗北しました。
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劉邦の魅力的な人物像とは!どんな性格の人?
劉邦は、若い頃は女好きで、ツケ払いで飲み食いする人物でしたが、人から愛されてもいました。
劉邦の元に、たくさんの偉人や賢人が集まるのも、天賦の才なのでしょうか。
英雄は色を好むという言葉があるように、女好きというだけでは、悪い意味はないでしょう。
そして、劉邦は、自分自身が自由な生き方をしてきたからなのか、儒者を嫌っていて、あからさまに態度に表していたのです。
ですが酈食其が、劉邦の人に対する無礼を批判し、丁寧に接してこそ天下の信頼を獲得出来ると述べたところ、態度を改めました。
劉邦は、良いと思う考えをすぐに取り入れて活かすことの出来る柔軟な性格だったのです。
人から支持されていた劉邦は、色好みで、ざっくばらんな性格でもありました。
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劉邦の部下の筆頭な前漢の三傑たち、蕭何と韓信と張良
劉邦の部下には、極めて有能な人物である政治力の蕭何(しょうか)と大将軍の韓信と参謀軍師の張良がいました。
蕭何は、劉邦が何度も項羽に敗北しても食料をしっかり供給し続け、人民からも慕われていたのです。蕭何がいたからこそ、劉邦は、何度も立ち上がれました。
韓信は、元は項羽配下でしたが評価されなかったので、劉邦に鞍替えし、蕭何の口添えで大将軍に就任し、強敵を奇策で撃破したのです。
張良は、謎の人物から兵法書を授かりその知略で、劉邦を助けました。
ちなみに、張良は若い頃に国を滅ぼされた恨みで、始皇帝を暗殺しようとしたこともあります。
政治の蕭何と軍事の韓信と知力の張良が、劉邦の代表的な部下です。
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劉邦がかなり嫌っていた雍歯(ようし)
雍歯は、劉邦と反りが合わず裏切って抵抗したのですが、結局劉邦配下となり、恩賞ももらいました。
劉邦の天下統一が決定的なものとなると、論功行賞の話になりましたが、なかなか決まらなかったのです。
すると、劉邦の部下たちが密かに話をし出しました。
戦乱の時代ですから、自分の求める恩賞が得られなければ、もう一度争うことも辞さない者もいたのです。
そこで、劉邦は、恨みがかなりあり功績もある雍歯に褒美を与える事で、皆を安心させました。
天下を取るくらいの人物は、私的な感情は飲み込むべきなのでしょうか。
劉邦は、雍歯と犬猿の仲でしたが、他の部下たちの心をつかむために、雍歯にもしっかり褒美を与えたのです。
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漢帝国建国者劉邦と三国志劉備玄徳
高祖劉邦の末裔が三国志の劉備と言われていますが、そこまで近しいわけではなく、子孫と述べられるだろうというレベルなのです。
三国志の時代にも、劉邦の偉大さは伝わっています。劉邦の子孫を名乗ることで、すごさが示せるのです。
ちなみに、劉備も劉邦がいた地域あたりの領土を得ていたため、劉邦を真似やすい状況でした。
劉邦に前漢の三傑がいたように、劉備にも関羽や張飛や諸葛亮がいたのです。
どちらも、カリスマ的な魅力を持っていると述べられるでしょう。
また、劉邦も劉備も、心が大きく度量が広いと言われることが多いです。
まずは大きい器があってこそ、いろいろな賢人や偉人が集まれるのでしょう。
三国志の劉備玄徳は、高祖劉邦の子孫とされています。
漢帝国建国者の劉邦と後漢建国者の劉秀
後漢を建国した光武帝の劉秀も、劉邦の子孫と言われています。
いわゆる前漢が、王莽(おうもう)の新に取って代わられたため、漢の再興を目指して劉秀らが立ち上がったのです。
光武帝劉秀は、人の強欲さを憂いた隴を得て蜀を望むという言葉が、印象的と言えます。
三国志の曹操も、戦に勝利し蜀を攻める流れになった際に、隴を得て蜀を望まないと発言したのです。
曹操のように学があると、自然といにしえの偉人の言葉が出て来るのでしょう。
また、劉秀は、強靭な精神力があると困難も乗り越えられるという意味の志ある者は事ついに成る、とも述べています。
今逆境にいる人は、この劉秀の名言を思い出して活力を得ると良いでしょう。
後漢皇帝劉秀も、高祖劉邦の子孫なのです。
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まとめ:漢帝室皇帝劉邦について!
漢の皇帝高祖劉邦を解説してきました。あなたの想像通りの凄い偉人でしたか?
劉邦の豪放磊落な性格についても説明しました。細かい所にこだわらないことが、偉人の条件なのでしょうか。
劉邦の部下の政治の蕭何と軍事の韓信と知略の張良も記載しました。この3人なら、どの人物を見習いたいですか?
劉邦の子孫に当たる偉人が、劉備玄徳なのです。三国志に興味がある人は、劉邦も知っておくべきでしょう。
中国を初めて統一したとされている始皇帝と劉邦についても書きました。始皇帝と劉邦、どちらが偉人だと思いますか?
覇王項羽と劉邦も論じました。結局は最後に勝った人が、勝利者なのでしょう。
いにしえの皇帝劉邦に少しでも興味がある人は、もう一度じっくり読んでみてください!