呂雉は、呂不韋の子孫とされており、三国志の呂凱も呂不韋の末裔と言われています。
始皇帝は、秦を誰かが乗っ取ることを予見していました。呂雉は、劉邦から不思議な気が出ていることに気付いていたため、始皇帝の予測は的中していたのです。
そして呂雉皇后は、劉邦の妻の地位を取ろうとした戚夫人を憎んでいました。劉邦存命中、呂雉は待ち、戚夫人に地獄を見せたのです。
また、劉邦の功臣である韓信や彭越を粛清した呂雉にも、最後が近付きました。呂雉は子孫想いの皇后なので、一族を重要な地位に就けて亡くなったと伝わっています。
ちなみに、呂雉皇后の読み方は、りょちこうごうです。
呂雉と三國志を詳しく解説していきます!
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目次
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妻の呂雉には秦の始皇帝が警戒した皇帝の気が劉邦から見えていました
呂雉が、劉邦がどこにいても簡単に探し出せたのは、始皇帝が畏怖した天子の気配が感じ取れたからです。
結局何百年も続く、帝国を建国したのは劉邦だったため、始皇帝の危惧は当たっていました。
そして、始皇帝の後の二世皇帝胡亥の秦国を滅亡させ、一時的に中国全土を統治したのが、西楚の覇王項羽です。
劉邦は、項羽の部下のような立ち位置で、軍師の范増から辺境に配置されていたにも関わらず、最終的に前漢皇帝に就任しました。
ちなみに、項羽は秦に楚の将軍としての深い恨みを抱き、滅ぼすことに成功したため、秦滅亡と共に役割を終えたのかもしれません。
呂雉は、夫劉邦(りゅうほう)から秦の始皇帝の後継者のような雰囲気を見出しており、劉邦が隠れていてもすぐに発見出来たのです。
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後に前漢の初代皇帝高祖となる劉邦の人相を高評価した呂雉の父親の呂公
呂雉の父は、劉邦が大ぼら吹きと知りながらも、人相が素晴らしかったため、娘を嫁がせたのです。
また前漢の三傑の蕭何も、劉邦が大言壮語する人物と認識していながらも、厚遇していました。
そして呂雉と息子恵帝も、人相が凄いと噂になっていたのです。
やはり、後に皇帝や皇后となる人々は、若い頃からその片鱗が見られるものなのでしょう。
ちなみに、秦の范雎の次の宰相が蔡沢だったのですが、蔡沢は若い頃人相が高評価ではありませんでした。
歴史上の偉人にも、いろいろなケースがあるということでしょう。
呂雉は、父の呂公が劉邦の人相で将来性を見抜いたため、前漢の初代皇帝高祖の妻となれたのです。
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劉邦と後継者の立場を奪おうとした美人な戚夫人を人豚とすることで呂雉皇后は復讐しました
呂雉は、劉邦の妻として楚漢戦争以前から夫を支えてきたのですが、戚夫人は息子の劉如意を、劉邦の次の皇帝にしようとしたのです。
劉如意が存在していては、劉盈の妨げになると判断した呂雉は、どうにかして劉如意に最期を与えようとしました。
しかし劉盈は、仁愛から劉如意を母の呂雉の魔の手から、守り続けたのです。
そして、戚夫人の子供の劉如意には、劉盈の後継者の地位を維持させた周昌が付いていたのですが、結局劉如意は呂雉に始末されました。
呂雉皇后は、美人な戚夫人が劉邦を誘惑し、息子劉盈(りゅうえい)を排除しようとしようとしたため、劉邦が最後を迎えた後に人豚の刑を行ったのです。
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秦の始皇帝の本当の父親とも伝わっている呂不韋は呂雉皇后の先祖とも言われています
呂雉は、始皇帝からも畏怖された呂不韋の子孫とも、述べられているのです。
また呂不韋は、始皇帝の父の荘襄王の趙姫を妊娠させた状態で、荘襄王に献じたとされています。
ですので、呂雉と始皇帝も、血縁関係と記載出来るのではないでしょうか。
呂雉皇后が、戚夫人を人豚にするほどの残虐性があったのは、厳酷な始皇帝の血縁だからかもしれません。
ちなみに呂不韋は、あまりにも権力を有していたので、本当の息子とも伝わっている始皇帝から最後を与えられたのです。
始皇帝の実の父親とも噂されていた、呂不韋(りょふい)の子孫が呂雉皇后という説もあるので、始皇帝と呂雉は縁戚とも主張出来るでしょう。
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国士無双で前漢の三傑の韓信に最後を送ることで謀反を封じた呂雉皇后
呂雉は、韓信が劉邦からの待遇に不満を感じ、謀反を画策していると知ったので、最期に追い込みました。
前漢の三傑には蕭何もおり、韓信が大出世するきっかけを与えた人物だったため、韓信の油断を引き出すことに成功したのです。
ただ、韓信は軍事的な才能に優れた偉人だったので、劉邦がもっと厚遇していれば、匈奴や他の異民族を征服する際に、役立った可能性もあるでしょう。
また蕭何は、粛清されないために、わざと罪を作って大罪を免れる策を展開しました。
呂雉は、国士無双韓信(かんしん)が劉邦から軽んじられていると思い、謀反を行おうとしていることを察知したため、前漢の三傑の蕭何(しょうか)に最後を与えさせたのです。
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前漢の三傑の張良は呂雉皇后の息子の劉盈を劉邦の後継者とするために4人の賢者を招くことをおすすめしたのです
ある日、劉邦と劉盈が会見していた際に、立派な4人の賢人が控えていたので、劉邦は呂雉の息子を跡継ぎに決定しました。
そして張良は、劉邦が陳勝呉広の乱に乗じて決起した際に、黄石公からもらった太公望の本の策を提供したのです。
張良の策を高く評価していた劉邦は、西楚の覇王項羽に勝った楚漢戦争後に、張良を留侯としました。
また張良は、後世からも名参謀と見なされていたので、三国志の曹操は名軍師荀彧を我が子房と称していたのです。
前漢の初代皇帝高祖劉邦からも厚遇された張良子房(ちょうりょうしぼう)は、呂雉の子供の劉盈の後継を決定的にするために、4人の賢者を呼ぶべきと主張しました。
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彭越や韓信を滅亡させた呂雉皇后は脇の病気が死因となり最後が来ました
呂雉は、自分の一族を重要な役職に配置することで、末永く子孫が繁栄していくことを願っていたのです。
しかし呂雉の死後、呂雉が劉邦の息子たちを弾圧していた問題が噴出し、呂氏一族は鎮圧されていきました。
そして、呂雉の後継者だった呂産を制圧したのが、陳平だったのです。
陳平は楚漢戦争の際も、西楚の覇王項羽の疑心を増大させ、范増や鍾離眜と不仲にさせる策謀で、劉邦に貢献しました。
呂雉皇后は、国士無双韓信と彭越(ほうえつ)を最期に追い込んでも油断しておらず、呂産(りょさん)と一族に要職を与え死去しましたが、陳平(ちんぺい)の策謀には抗えず、呂氏一族は滅亡させられたのです。
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まとめ:呂雉(りょち)皇后のエピソードと三国志と美人な戚夫人の人豚最後と劉邦呂不韋
呂雉が劉邦にとって、どのような妻だったかを解説してきました。劉邦は大出世したわけですから、呂雉は夫選びに成功したと言えるでしょう。
そして劉邦と呂雉の人相が、優れていたことも説明してきました。その人の内面や将来は、いつの間にか人相に、反映されているものなのでしょう。
また、始皇帝と深い繋がりがあった、呂不韋の子孫が呂雉、と言われていることも記載してきました。秦帝国を継ぐのにふさわしいのは、血縁からしても、西楚の覇王項羽ではなく劉邦だったのでしょう。
呂雉は、戚夫人の所業を恨み、人豚な報復を行った人物でしたが、よく劉邦の妻を務め前漢の存続と子孫繁栄にも貢献した、皇后でもあったのです。