三国志の飛将軍と言えば呂布ですが、元祖は李広なのです。
李広は、乱世の時代であれば、もっと活躍出来たと嘆かれていました。楚漢戦争で覇王項羽と李広が激突した場合、項羽もただでは済まないでしょう。
そして、大将軍衛青の気配りで、李広は結果的に最後を迎えたのです。将軍な李広には、匈奴戦で死に場所を与えるべきだったのかもしれません。
また、始皇帝の大将軍李信が、李広の先祖だったことも説明してきました。李広が将軍として有能だったのは、李信の血の影響なのでしょうか。
他にも、李広と同じ異名な呂布が、董卓から優遇されていたことも述べていきます。悪政な董卓ではなく、初めから曹操に付いていれば、呂布の未来は明るかったでしょう。
李広を詳しく解説していきます!
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目次
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前漢の文帝から初代皇帝高祖劉邦の時代の方がふさわしいと言われた李広
李広は、楚漢戦争と陳勝呉広の乱が発生していた時代の方が向いている、と評価されたのです。
飛将軍と称された呂布も、三国志ではなく平和な時代に生まれていれば、戦乱向きと述べられていたのではないでしょうか。
そして李広は、匈奴征討で戦果を獲得しましたが、高祖劉邦は冒頓単于に敗北しました。
本当に劉邦の時代に李広がいたら、冒頓単于との白登山の戦いで勝てたかもしれません。
ちなみに、衛青と霍去病が匈奴に何度も勝ったため、前漢は匈奴に強く出られるようになっていったのです。
李広は、文景の治と高評価されていた文帝から、高祖劉邦(りゅうほう)の部下となるべきとまで主張されるほど、武勇に優れた飛将軍でした。
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呉楚七国の乱で李広は周亜夫と共に鎮圧に貢献したのです
李広は、鼂錯が諸侯王の力を減らし、前漢皇帝の権力を増加させようとした結果起きた、呉楚七国の乱を平定しました。
鼂錯は、法治に基づいた中央集権体制を目指しており、高祖劉邦以来の諸侯王の権限を失わせようとしたのです。
しかし諸侯王も黙っておらず、呉楚七国の乱が生じたので、鼂錯は乱を鎮めるために最後を与えられました。
そして、三国志の樊城の戦いで曹仁の苦境を救った徐晃は、曹操から周亜夫クラスの武将と高評価だったのです。
ちなみに曹操には、劉邦の参謀張良な荀彧もいました。
李広は周亜夫(しゅうあふ)と一緒に、鼂錯(ちょうそ)の失策から発生した呉楚七国の乱を鎮圧し、飛将軍の片鱗を見せたのです。
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衛青の匈奴討伐の際に李広は高齢だったため本隊から移動させられたのです
李広は、匈奴からも畏怖される飛将軍でしたが、高齢を考慮され、別動隊に配置されました。
大将軍衛青と武帝の思いやりな布陣だったのですが、李広は不満を感じており、更に道に迷い遅刻したのです。
そして李広は、責任を取って自害しましたが、息子が衛青に報復しました。
衛青には甥の霍去病がおり、更に李広の子供に仇討ちしたのです。
結局やみくもに仕返ししたとしても、別の報復を呼び込んでしまうものなのでしょう。
李広は、飛将軍として匈奴でも名高かったのですが、歳を重ね過ぎていたため衛青(えいせい)は本軍に置かず、李広の無念な最後と霍去病(かくきょへい)の敵討ちを招いてしまいました。
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李広の息子に最後をあげた霍去病は爵位の驃騎将軍を創り出したのです
叔父の衛青に仕返しした李広の子供を成敗した、霍去病は匈奴戦で大戦果を得たので、驃騎将軍になりました。
ですが、霍去病は20代というかなりの若さで、病死したのです。
そして、三国志の曹操の息子の曹彰は、霍去病や衛青を参考にしていた武将でした。
曹彰は、霍去病衛青と同じように異民族攻略で戦果を獲得し、父の曹操から称賛され兄弟の曹丕からは畏怖されたのです。
ちなみに曹彰も、霍去病が若死にしたように30代くらいで最期が来たため、欠点も見習ってしまったのかもしれません。
飛将軍李広の子供を討った霍去病は、匈奴に連勝したため、驃騎将軍の爵位を得、三国志の曹操の息子曹彰子文(そうしょうしぶん)は、霍去病を尊敬していました。
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始皇帝嬴政が項燕を攻撃した際に李広の祖先の李信は大将軍を務めたのです
李広は、秦の始皇帝の大将軍李信の子孫であり、李信は西楚の覇王項羽の先祖の項燕に大敗北しました。
始皇帝には他の大将軍として王翦もおり、楚の占領には、李信が主張する軍勢の何倍かが必要と述べていたのです。
そして李信は、当初は楚で蒙恬と共に勝利したため、そのままの勢いで項燕にも勝てると見られていました。
ですが、項燕は秦軍が楚に深入りすることを狙っており、李信と蒙恬は急に攻撃を受け、大敗したのです。
また、項燕の子孫の西楚の覇王項羽が秦を滅ぼしたため、結局楚が秦に勝利したとも言えるでしょう。
李広の祖先李信(りしん)も、飛将軍と呼べるほど勇猛でしたが、王翦(おうせん)ほどの深慮が無く蒙恬と共に、項燕(こうえん)に大敗北しました。
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史記の作者司馬遷は李広の孫の李陵を擁護したため武帝から厳罰を与えられたのです
李広の子孫の李陵は、猛将でしたが匈奴の軍門に下ったので、武帝と側近は非難しました。
史記の著者司馬遷は、李陵に罪が無いと信じており、李陵のために熱弁したのですが、逆に武帝の逆鱗に触れたのです。
それに李陵が、匈奴に味方し助けているという知らせも、武帝の元に届きました。
誤報だったのですが、武帝は激怒し李陵の親族に最期を送り、司馬遷も宮刑としたのです。
また司馬遷が、完成度の高い史記を作成出来たのは、刑の絶望があったからかもしれません。
李広の孫の李陵(りりょう)は、匈奴と激戦を繰り広げましたが、結局投降し、史記の司馬遷(しばせん)は李陵を庇ったために、武帝から宮刑にされました。
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三国志の呂布は李広と同様に飛将軍と高評価され董卓から厚遇されていたのです
李広は、武勇に秀でていたため飛将軍と言われ、呂布も猛将だったので飛将軍として評判でした。
そして、董卓が後漢皇帝献帝劉協を利用して栄華を極めたのですが、同時に袁紹や曹操の憎しみも買っていたのです。
飛将軍呂布は虎牢関の戦いで、袁紹陣営の関羽張飛劉備と同時に激闘を演じ、何とか董卓を保護しました。
また、呂布は曹操に敗れ確保された際にも、曹操に処刑を迷わさせるほどの勇将だったのです。
曹操には当時敵が多かったため、上手く呂布を操れていれば、中国全土だけでなく異民族も制圧出来たのではないでしょうか。
李広は匈奴戦で活躍し飛将軍と称賛され、呂布奉先(りょふほうせん)は武勇の高さが李広に似ていたので、同じく飛将軍と称され、董卓仲穎(とうたくちゅうえい)や曹操から畏怖されました。
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まとめ:李広(りこう)飛将軍と三国志呂布と霍去病爵位と史記司馬遷
李広が、どれくらい凄い飛将軍だったかを解説してきました。若い頃の李広なら、衛青と霍去病の三人で、匈奴全域を降伏させられたのではないでしょうか。
そして、呉楚七国の乱でも、李広が武勇を披露したことも説明してきました。反乱側に李広がいた場合、前漢が転覆していた可能性もあるでしょう。
また、李広の息子の復讐に怒った、霍去病の匈奴戦での大戦果も、記載してきました。霍去病が長生きしていたら、前漢はどれくらい領土を拡大出来たのでしょうか。
他にも、史記の作者司馬遷と、李広の末裔の悲劇も述べてきました。敵と戦争をすると、司馬遷のような地獄もあり得るということなのでしょう。
李広は、飛将軍と高評価されながらも、衛青から余計な配慮をもらい、武人としては残念な最後だったのです。