三国志で漢王朝の有終の美を飾った皇帝と言えば、献帝劉協でしょう。
献帝劉協は、若い頃から賢者な人物として評価されていました。その賢者な劉協でも、後漢王朝再興は難しかったのでしょう。
そして劉協は、悪で専横な董卓とも関わる必要がありました。董卓は悪な人物なので、劉協をどんどん攻撃したのでしょうか。
また献帝劉協は、天才軍師司馬懿とも権力闘争を行いました。皇帝の立場を維持するためには、天才たちと戦うしかないのでしょうか。
他にも、献帝劉協の末裔とされている日本の渡来人も、説明していきます。日本で有名なあの人も、実は献帝劉協の子孫ということもあるのでしょうか。
三國志の漢王朝最後の皇帝を詳しく解説していきます!
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目次
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漢王朝の最後の皇帝劉協は賢い人物でした
三国志の漢王朝最後の皇帝劉協は、皆が期待したくなるほどの賢者だったのです。
- 涼州の雄董卓にも怯えずに対応した陳留王劉協
- 陳留王劉協の兄少帝を毒殺した董卓と李儒
ですが、ただ賢いだけで皇帝になれるほど甘くはなく、権力者の都合の良い人物が、皇位を得ていました。
そして、父の霊帝が亡くなったため、劉協は嘆き悲しんでいたのです。
劉協は感受性に富む性格で、まさに徳を有した人物と言えるでしょう。
また劉協の父霊帝は、国の経済を潤すために、官職を販売していました。
本来能力や人格で選ばれるべきところをお金で代替えしたため、天下は大いに乱れたのです。
安易な解決策は、むしろ前より状況を悪化させることもあるのでしょう。
劉協は、賢人として知られており、有徳な性格でもありました。
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涼州の雄董卓にも怯えずに対応した陳留王劉協
三国志漢王朝最後の皇帝劉協は、大将軍何進が、専横な宦官たちを追い出すために呼び出した董卓から、評価されました。
董卓は、当時皇帝だった少帝よりも陳留王劉協の方が、賢者であることを見抜いたのです。
そして、陳留王劉協の血縁に、董卓の血筋と近しい人物がいたことも、劉協がその後皇帝となる要因とされています。
また、危ない宦官たちを董卓は一掃したわけですが、正義のために行ってはいませんでした。
劉協たちは、宦官という悪を倒すために、より大きい悪を呼び寄せてしまったのです。
何かを行う際に、他人の力を利用する面が大き過ぎると、乗っ取られることもあるのでしょう。
劉協は、後に専横な悪に変貌する董卓から、能力の高さと血縁で高評価を受けました。
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陳留王劉協の兄少帝を毒殺した董卓と李儒
三国志漢王朝最後の皇帝劉協は、兄の劉弁を董卓と李儒の策謀で亡くしました。
董卓は後漢朝廷で権勢を極めることで、各地で反乱を招いていたのです。
献帝劉協の兄劉弁が、反乱軍に味方することがあれば、董卓自身の支配の正統性が脅かされる可能性があります。
ですので、董卓は腹心の部下李儒に命じて、劉協の兄劉弁に最期をあげたと言われているのです。
ちなみに、後から献帝劉協は、李儒を処罰しようとしましたが、董卓の残党李傕に邪魔されました。
正義を行うためには、それ相応の力がなければならないのでしょう。
献帝劉協は、兄劉弁が董卓と李儒の犠牲となったため、仇討ちを試みたのですが、失敗したのです。
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曹操は漢王朝を助けるフリをして劉協を確保し天下に号令をかけました
三国志漢王朝最後の皇帝劉協は、董卓の後に曹操が強大となったため、許都で曹操に付いたのです。
曹操は董卓の失敗を見ていたので、一見忠臣を装い巧みに献帝劉協の力を利用しました。
そして四世三公の名門袁紹がおり、かつて宦官を追い払ったり反董卓連合軍を組織したりしていたのです。
とうとう曹操と袁紹が官渡の戦いで激突しましたが、曹操には献帝劉協がいて正統性が高かったこともあり、曹操が勝利しました。
もしも献帝劉協が、袁紹や孫策に味方出来ていたら、曹操の方が滅亡の可能性はあったでしょう。
曹操が先見の明と権力掌握の作戦力を持っていた、と見るべきかもしれませんが・・・
献帝劉協は、ひとりで諸侯を統制する力が無かったため、超世の傑曹操の元で、後漢皇帝を務めたのです。
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大漢帝国の最後の皇后は献穆曹皇后の曹節です
三国志漢王朝最後の皇帝劉協の皇后は、曹操の娘の曹節でした。
曹操は後漢朝廷を掌握するために、献帝劉協の妻に自らの子供を与えたのです。
かつて日本の藤原摂関家や平氏も、天皇に娘を嫁がせることで権力を得ました。
絶大な権威を獲得してこそ、多くの者たちを戦わずに心服させられるのでしょう。
そして、曹操の息子曹丕の代となり、とうとう献帝劉協は曹丕に禅譲して、後漢朝廷は滅亡したのです。
献帝の妻の曹節は、皇帝の証である玉璽を堅守しましたが、根負けしました。
皇后曹節の抵抗は、献帝劉協の漢皇帝としての最後のプライドが表れたものでしょう。
曹操の娘の曹節(そうせつ)は、後漢皇帝劉協の妻であり、漢王朝最後の皇后と言えます。
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曹操の息子曹丕への漢王朝献帝劉協の禅譲に協力した司馬懿
三国志漢王朝最後の皇帝劉協は、曹丕に力を奪われていき、とうとう司馬懿たちにより禅譲させられました。
曹丕は文帝に即位し、献帝劉協は山陽公となったのです。
そして司馬懿は、当初は曹氏に協力的な姿勢を見せていましたが、後に曹氏一族の多くを処刑しています。
献帝劉協の一族は、曹丕たちにかなり処刑されたわけではないため、漢王朝は想像以上に権威があったのでしょうか。
また、司馬一族は後に朝廷で実権を掌握するために、曹一族とバトルし出しました。
ですので、司馬懿としては、本当のところは、献帝劉協の子孫たちに悪感情はないのではないでしょうか。
曹丕は、新しい王朝を建国するために、司馬懿に命じ、献帝劉協から皇帝の立場を譲らせたのです。
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漢王朝献帝劉協の末裔を称した日本の渡来人たち
三国志後漢の最後の皇帝劉協の子孫が、日本に訪れた渡来人の中にいた、と言われているのです。
太古の日本では、物部氏と蘇我氏が勢力争いをしており、仏教を保護するかどうかが重要でした。
そして、蘇我氏に多く味方したのが、仏教を重んじる渡来人だったのです。
蘇我氏は、渡来人の力と海外の先進技術を利用し、物部氏に勝利しました。
献帝劉協は、三國志の世界では、曹操に蔑ろにされていたわけですが、遠い異国の地で、末裔たちが活躍したのでしょう。
ちなみに、渡来人の秦氏は、秦の始皇帝の末裔と言われています。日本には、中国で有名な人々の力も集まっているのです。
日本に来た渡来人たちの中には、献帝劉協の子孫と名乗る者も含まれていました。
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まとめ:三国志漢王朝最後の皇帝の献帝劉協伯和(りゅうきょうはくわ)
後漢朝廷の最後を彩った献帝劉協を解説してきました。後漢が栄えている時に賢者劉協が現れていたら、再興していたのでしょうか。
献帝劉協の兄を亡き者にした、董卓と李儒も説明してきました。皇帝の一族が直接ダメージを受けるのが、王朝の末期なのでしょうか。
そして、董卓よりも計算高い曹操が、献帝劉協を利用して権力を得たことも記載しました。自分が偉くなりたい場合、偉い人を確保するのは常套手段なのでしょう。
また、献帝劉協から巧みに皇帝の立場を獲得した、曹丕と司馬懿も書きました。他の人に皇帝の立場をあげられるなら、結局皇帝とは何なのでしょうか・・・
献帝劉協を知ると、偉大な王朝がどのようにして終わるかが見え、感極まるでしょう。