龐涓!故事、桂陵馬陵の戦い、孫臏囲魏救趙、史記兵法、鬼谷子も解説

龐涓は、伝説的な兵法家の孫子の子孫孫臏が有能だったため、罪をでっち上げて、不幸を与えたのです。

縦横家で著名な蘇秦と張儀の師の鬼谷子は、龐涓と孫臏にも教えていた、と言われています。孫臏は鬼谷子の技で、龐涓に圧勝したのでしょうか。

そして龐涓は、孫臏の兵法能力に勝つのは難しいと考え、罪を創作したのです。結局孫臏は復活し、龐涓は敗れているため、孫臏は本物だったのでしょう。

また孫臏は、龐涓を桂陵の戦いだけでなく馬陵の戦いでも、打ち負かしました。二度も勝てる相手であれば、罪を捏造させないように出来ていても、良かったのではないでしょうか。

龐涓を詳しく解説していきます!

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孫臏と龐涓は縦横家の張儀と蘇秦と同様に鬼谷子の門下と伝わっています

龐涓は、孫子の末裔の孫臏と共に、鬼谷子の元で学んだとされているのです。

また、巧みな弁舌で知られる蘇秦と張儀も、鬼谷子に師事しました。

そして蘇秦が先に栄達していたので、張儀は助けてもらおうと思い、蘇秦の元を訪れると、なぜか非常に侮辱されたのです。

ですので張儀は、蘇秦に報復するために大国秦に行くことを決定し、見事採用されました。

ちなみに、張儀が、秦に上手く登用されるための資金援助をしていたのが、蘇秦だったのです。

龐涓は、鬼谷子(きこくし)の元で、孫子の子孫の孫臏と一緒に勉学を行い、鬼谷子は有名な縦横家の蘇秦(そしん)と張儀(ちょうぎ)にも教えた、と言われています。

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優れた兵法の才能を持った孫臏に嫉妬し恐れていた龐涓は罪を捏造しました

龐涓は、孫子の末裔の孫臏が、あまりにも才能に満ちあふれていたので、罪を作り出し陥れたのです。

孫臏は足を切られるだけでなく、顔に刺青まで入れられ、見るも無残な姿に変えられました。

そして、陳勝呉広の乱と楚漢戦争で活躍した英布も、黥面賊と呼ばれ刑罰を受けていながら、九江王に就任した武将だったのです。

後に孫臏も、桂陵の戦いと馬陵の戦いで、龐涓に大勝利するため、本当に才能がある人は刑罰でも惑わせないのでしょう。

ただの冤罪で済ませ、孫臏に最後を与えなかったところが、龐涓の甘さを示しているかもしれません。

龐涓は、魏の恵王の将軍の立場を利用し、孫臏(そんぴん)に冤罪を被らせ、二度と才能を発揮出来ない状況に、追い込もうとしました。

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田忌から高評価され龐涓の元から脱出した孫臏は競馬でも勝ったのです

龐涓は、斉の将軍の田忌から認められたので、龐涓の魔の手から逃げることに成功しました。

そして孫臏は、上等の馬を中等の馬と、下等の馬を上等の馬と、中等の馬を下等の馬と競わせることで、田忌将軍にニ勝一敗させたのです。

田忌は、孫臏が競馬でも有能さを示したので、斉の威王におすすめしたところ、威王も孫臏を気に入り、師に認定しました。

また威王は、自らの権威を皆が恐れていることを察し、斉王を諫められた者に褒美を与えるという制度を行い、更に斉を大国化させたのです。

龐涓の窮地から救ってくれた田忌(でんき)将軍のために、孫臏は競馬での一敗二勝を贈ったので、斉の威王に推薦され師にもなりました。

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桂陵の戦いで孫臏は囲魏救趙の兵法を行い龐涓に大勝しました

龐涓は、趙を攻めることで、陥落寸前に追い込みましたが、孫臏は囲魏救趙の秘策で応戦したのです。

そもそも田忌将軍は、趙に急行し、龐涓と戦おうと考えていました。

しかし孫臏は、龐涓将軍が精鋭を出撃させているので、魏の都の守りが手薄になっているはずなので、大梁に攻め込むべきと主張したのです。

そして、魏の都大梁が攻撃された龐涓は、焦って行軍したため、斉軍への対策が疎かになり、孫臏に撃破されました。

戦に勝利する者は、いかに敵を動かすかに、重点を置いているのかもしれません。

龐涓は、趙で戦果を獲得していましたが、孫臏が囲魏救趙(いぎきゅうちょう)の兵法で、魏の大梁を攻めたため、結局桂陵の戦いで大敗したのです。

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魏の恵王は龐涓を将軍にしていたせいで孫臏の恨みを買い秦を法治国家に変貌させた商鞅も逃してしまいました

龐涓は、孫臏を甘く見て刑罰で脅せば、世に出られないと判断して失敗し、魏の恵王は商鞅の才能を見抜けず、国土を奪われたのです。

そもそも、孝公の元で法治主義を敢行し、秦を大国化させた商鞅は、元々は魏の恵王の勢力下にいました。

しかし魏の恵王は、商鞅が秦を強大化させられるほどの才能を秘めていることに、気付かなかったのです。

そして、商鞅の法治で大国になった秦が、魏の国土を獲得していく際に、恵王は身をもって不明を悟りました。

龐涓は、卑劣な刑罰で孫臏に害を与えたことで、桂陵の戦いと馬陵の戦いの大敗を招き、魏の恵王は商鞅(しょうおう)を侮り、国土縮小を呼び込んでしまったのです。

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馬陵の戦いで孫臏は竈の減少を斉の弱さと龐涓に誤解させ最後を与えました

龐涓は、元から斉軍を侮っていたので、孫臏軍の竈が減っていくのを、策略だと見抜けなかったのです。

また、馬陵の戦いの当初は、龐涓が韓を攻撃していたため、再び斉軍は囲魏救趙を行おうとしました。

ですが、龐涓は上手く対処しており、韓攻略軍も孫臏軍攻撃に戻って来たのです。

そして、孫臏は斉軍を退却させながら、竈の数を減らし、龐涓を油断させ無理に素早く動かさせ、この樹の下に死す、と書かれた文字も照らさせ、大量の弓で打ち取りました。

龐涓は、馬陵の戦いでも孫臏が囲魏救趙を繰り出したので、今回は防いだのですが、竈を減少させ斉を見下している心理を利用する策は見通せず、孫臏が指定した死に場所で最期を迎えたのです。

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桂陵の戦いだけでなく馬陵の戦いでも孫臏に大敗北し龐涓にまで最後が来たため魏はかなり衰退しました

龐涓は、孫臏に上手く操られ、二度の戦で大敗していますが、魏を支えていた優秀な将軍でもあったのです。

ですので、龐涓がいなくなった魏は、一気に弱体化してしまい、斉の保護を受ける立場になってしまいました。

そして、当時の魏王は恵王だったのですが、性善説の孟子からも、好戦的な態度を非難されていたのです。

また魏は、中国の中央に位置しており、隣国と戦う状況に陥り易いため、孟子の忠告を聞いていれば、龐涓も孫臏から最期をもたらされなかったかもしれません。

龐涓は、馬陵の戦いと桂陵の戦いで孫臏に大敗し、最期を送られましたが、魏の恵王が性善説の孟子(もうし)の諫言を聞き入れていれば、長生き出来た可能性もあるのです。

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まとめ:龐涓(ほうけん)の馬陵の戦いと孫臏の囲魏救趙な桂陵の戦いと鬼谷子故事と史記の兵法

龐涓は、孫臏に罪をでっち上げていながら、二回の戦で大敗北を喫したことを解説してきました。孫臏が本当の兵法家で、龐涓が大した人物で無かったからこその結末、なのでしょうか。

そして孫臏が、龐涓から亡命した際に、斉の田忌将軍に競馬で貢献したことも、説明してきました。競馬で勝利することと兵法に長けていることは、共通する能力なのかもしれません。

また、龐涓が孫臏に大敗北したことで、龐涓にも最後が訪れ、魏が弱体化したことも述べてきました。

魏の恵王が、戦で勝つことよりも回避することを重視していれば、魏も衰退せず龐涓も生き残れたのではないでしょうか。

龐涓は、罪を無理に作り孫臏を陥れていながら、二度も大敗した武将なので、元の才能の違いの恐ろしさも知れるでしょう。

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