いつの時代も救いを求める人がいるように、三国志の乱世にも張角というメシアが現れたのです。
張角は、大賢良師として太平道を利用して、勢力を拡大しました。混乱している世の中では、摩訶不思議なエナジーが評価されるのでしょう。
張角が指導した黄巾の乱は、黄天を目指していたのです。黄色の頭巾は、皆の団結力にもなっていました。
また張角は、天地人な将軍を味方としたのです。天地人は万物を現しているため、非常に大きなことを考えていたことが分かります。
そして、張角と劉備と曹操のつながりも記載していきます。張角は太平道、劉備は漢帝室復興、曹操は天下統一を目指していたので、自ずから結果も異なるのです。
三國志の張角を詳しく解説していきます!
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目次
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太平道の大賢良師張角
三国志の張角は、不思議な力で人々を助け導く太平道を広め、大賢良師という新しい称号を創り出しました。
一種の宗教結社であり、後漢末期の混乱した世界で、人心を得たのです。
そして、後漢朝廷を倒すために、張角は政府の中枢に仲間を潜伏させました。
ですが、政府側に発見されてしまい、準備不足のまま決起せざるを得なかったのです。
この時にバレずに政府も乗っ取れたら、張角が皇帝に近い立場になっていたかもしれません。
また、張燕の黒山賊という何十万人規模の反乱もあったのですが、張角と連携していたわけではないのです。
張角が、他の大勢力ときっちり提携していれば、張角の野望が叶ったのではないでしょうか。
張角は、太平道で人心を掌握し、大賢良師を名乗り、新しい世の中を夢見ました。
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蒼天すでに死す黄天まさに立つべしな黄巾の乱
三国志の張角は、天公将軍を名乗り、黄色い天を掲げる黄巾の乱を引き起こしました。
黄巾の乱の名前の通り、張角の軍勢は、黄色い布を頭に巻いていたのです。
ちなみに、元王朝の末期に紅布の乱が発生しましたが、その際は紅色の布が利用されています。
紅布の乱に参加して頭角を現した朱元璋(しゅげんしょう)が、後に明王朝を創設したのです。
太平道張角は、新しい王朝を創り出せませんでしたが、頑張ったら朱元璋のようになれたのでしょうか。
次に何かの反乱が起きる際は、青や緑の頭巾かもしれません。何かの事件の際は、人々の頭に注目してみてください。
張角は、黄巾の乱の指導者であり、天公将軍として後漢政府に反旗を翻しました。
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太平道の天公将軍張角と地公将軍張宝と人公将軍張梁
三国志の張角は、天公将軍を標榜し、張宝は地公将軍を名乗り、張梁は人公将軍を号していました。
張宝と張梁は、張角の弟たちです。
そして性善説の孟子は、天地人を天の時は地の利に及ばない、地の利は人の和に及ばないと述べています。
孟子は人の性質は善と述べ、理想主義的で浮世離れした話が多いのです。
張角も太平道という理想をスローガンにしていたため、孟子に似ていると言えるでしょう。
また、天地人はこの世界を構成するすべてという意味もあるのです。
太平道の張角たちは、天地人を将軍として活用しましたが、壮大な野望を有していたのでしょう。
三国志の太平道の張角と張宝と張梁兄弟たちは、天と地と人を利用した将軍名を標榜していました。
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張角太平道黄巾の乱の世界史における意義
三国志の張角が、太平道で内乱を起こすことで、何百年も続いた漢帝国も終わりを迎えていきました。
かつて中国初の統一王朝である秦国が、陳勝呉広の乱で解体に向かったのと似ているでしょう。
そして張角は、荘子の仙人な南華老仙から不思議な書物を授けられ、黄巾の乱を引き起こしたのです。
陳勝と呉広も、謎の占い師のお告げから鬼神の力を借りて、反乱を行いました。
張角も陳勝も呉広も、自らで望みを叶えずに、最後を迎えてしまったのです。
何かを初めの方に行ったとしても、他の人よりも必ずしも上手くいくとは、限らないのでしょう。
張角は黄巾の乱を指導し、巨大な漢帝国を滅亡へと導き、陳勝と呉広は鬼神の力で、秦帝国に引導を渡しました。
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太平道の張角はいわゆるエリートではありませんでした
三国志の張角は、難関な科挙という試験に合格したエリートではなかったのです。
- 太平道張角と漢帝室再興の劉備
- 張角黄巾の乱のその後は青州兵
ですので、むしろ農民や庶民たちの不満を身近に感じられたのでしょう。
そもそもエリートというものも、権益の代表者のような存在であり、後漢末期は今までの既得権益が崩壊しつつあったのです。
張角は、エリート層に入らなかったことで、太平道という新しい権益を創り出し、エリート層に対抗し得るまでになりました。
また、太平天国の乱を引き起こした洪秀全も、科挙に合格していない人物です。
一つの道(科挙のような)が決まっていると、安定するように見えても、そこから脱落するものが現れ、反乱に発展するのでしょう。
天公将軍張角は、エリートでないことで、黄巾の乱を起こし得たと言えます。
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太平道張角と漢帝室再興の劉備
三国志の張角は、漢帝国打倒を目指していましたが、劉備は後漢を守ろうとしました。
張角は太平道を中心とした新しい秩序を望んでいましたが、劉備は漢帝国建国の劉邦の子孫であるため、後漢を支えたかったのです。
結局は、張角の黄巾の乱で、後漢が崩壊の危機を迎えますが、超世の傑曹操が後漢皇帝を利用して実権を握ることで、しばらく存続しました。
劉備は、曹操があまりにも後漢に影響力を行使し、皇帝をないがしろにしていたため、曹操とも敵対したのです。
ちなみに、定軍山の戦いで、劉備軍は曹操の軍勢に大勝利を収めました。
張角は、太平道で民衆を指導し、後漢を打ち負かそうとしましたが、皇帝の血縁の劉備は、漢帝国を支持したのです。
張角黄巾の乱のその後は青州兵
三国志の曹操は、精強な青州兵を所有していましたが、青州兵はかつて、張角の黄巾の乱に参加していた者たちだったのです。
そもそも曹操は人材収集家として知られており、敵の武将でも優秀な者は、取り立てて活用出来る度量の持ち主でした。
青州の黄巾兵は、悪を行おうと言うよりも、食い扶持に困って暴れたいる者が多かったのです。
曹操も、当時はそこまで勢力が大きくなかったため、青州の黄巾を味方として、軍勢を強化したいと考えていました。
また、張魯の五斗米道は、張角の太平道とかなり似ているのです。
張魯が曹操軍に負けても財を処分せずに国家に奉仕したため、曹操は張魯を実は善人と考えており、しかるべき地位を与えました。
太平道張角の黄巾の乱の青州部隊は、曹操から見所アリとして登用され、青州兵として活躍したのです。
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まとめ:三国志の張角(ちょうかく)は大賢良師で天公将軍で太平道
三國志の張角のミステリアスなパワーを解説しました。張角を知ると、あなたにも何かが降りてくるかもしれません。
大賢良師張角にも、自らの最後は見えなかったのでしょうか。ただ、三国志を到来させたことを功績と見る事も出来るでしょう。
張角の黄巾の乱に似ている陳勝呉広の乱も紹介しました。大きい勢力が崩壊する時は、真逆の場所から乱れが生ずるのでしょうか。
また、劉備と黄巾の乱も書きました。劉備の仁義だけでは、黄巾の者たちを導けなかったのでしょうか。
そして、乱世の奸雄曹操孟徳と張角の黄巾の乱の関係性も論じました。曹操はどのような場面でも、良い所を見つけ利用しようとする偉人なのです。
摩訶不思議な事柄やミステリーが好きな人におすすめなのが、三国志の張角です。