三国志しばき!司馬徽水鏡、両者を得れば、三顧の礼、よいぞも解説

三国志の臥龍諸葛亮と鳳雛龐統を見出したのは、司馬徽と言えるでしょう。

司馬徽は、龐統が鳳雛諸葛亮が臥龍と呼ばれていたように、水鏡と呼ばれていました。司馬徽が水鏡と言われていたのは、どういう理由からなのでしょうか。

そして司馬徽は、常によいぞよいぞが口癖な人物だったのです。水鏡司馬徽はどのような意図で、よいぞと発言していたのでしょうか。

また、司馬徽がおすすめした、龐統と諸葛亮の両者を得た場合、どうなったかも説明していきます。劉備は諸葛亮と龐統を獲得しましたが、強大な曹操とどうなったのでしょうか。

他にも、司馬徽を見誤った荊州劉表も書いていきます。劉表が司馬徽を登用出来ていたら、鳳雛と臥龍は劉表がゲットだったのでしょうか。

三國志の司馬徽を詳しく解説していきます!

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仁義な劉備に鳳雛龐統と臥龍諸葛亮をおすすめした司馬徽

三国志の司馬徽は、仁義と漢帝室再興を志していた劉備に、大賢者の諸葛亮と龐統を教えました。

劉備が後に蜀漢の皇帝に就任出来るのも、司馬徽がいたからではないでしょうか。

そして司馬徽は、水鏡と呼ばれていました。

司馬徽は、相手の本質を水や鏡のように綺麗に写せるという意味、なのでしょうか。

また司馬徽は、劉備の軍師を務めたこともある、徐庶とも交流がありました。

徐庶は曹操軍に勝利しましたが、才能を見せてしまったために、母親を人質にされ、曹操に鞍替えしなければならなくなったのです。

水鏡な司馬徽は、大志ある劉備玄徳(りゅうびげんとく)に、龐統と諸葛亮がいることを知らせました。

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水鏡司馬徽は何が起きてもよいぞよいぞと主張していたのです

三国志の司馬徽は、知り合いが子供を亡くした際もよいぞと言い、妻がその件を批判してもよいぞと言いました。

司馬徽は自然の流れを重視し、細かいことを気にしない性格だったのかもしれません。

仁義を正解とする者は、他の事柄を不正解とすると述べられますし、道教の老子も大道廃れて仁義ありと主張しています。

司馬徽は、大道に身を置く優れた人物だったのではないでしょうか。

そして、司馬徽の何にでもよいぞよいぞと発言する対応は、故事成語となっています。

流されるだけで問題に自分から立ち向かわない、という揶揄の代名詞になってしまってもいるのです。

水鏡司馬徽は、どのようなシチュエーションでも動じずに、よいぞと発言する、大道を有した人でしょう。

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水鏡司馬徽が推奨した臥龍諸葛亮と鳳雛龐統の両者を得ればどうなるのでしょうか

三国志の司馬徽は、劉備が自分を助けてくれる軍師を探していた際に、龐統と諸葛亮をおすすめし、劉備は両者を獲得しました。

  • 司馬徽が太鼓判な伏龍諸葛亮を招くために三顧の礼を行った劉備
  • 水鏡司馬徽が評価した鳳雛龐統を外観で侮っていた劉備

諸葛亮と龐統は、どちらかを獲得しただけでも天下を得られる、とまで高評価な逸材なのです。

そして劉備は、臥龍と鳳雛の両者を味方としたため、三國志の世界を統一し後漢を再興したのでしょうか。

結果は、荊州と益州あたりを所有出来ただけでした。

それに鳳雛龐統は、劉備の名馬的盧馬に乗ったために、身代わりとなり、落鳳坡で最後となったのです。

水鏡司馬徽の献策から劉備は、鳳雛龐統士元(ほうとうしげん)と臥龍諸葛亮の両者を得ましたが、結局天下を得られませんでした。

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司馬徽が太鼓判な伏龍諸葛亮を招くために三顧の礼を行った劉備

三国志の司馬徽がおすすめした諸葛亮に、三顧の礼を提供することで、劉備は諸葛亮を軍師としました。

三顧の礼は、実力者が何度も賢者を訪れる事を意味する、故事成語にもなっています。

そして、諸葛亮は劉備の期待通り、荊州だけでなく益州を獲得する手助けを行ったのです。

更に劉備は、乱世の奸雄曹操に定軍山の戦いで勝利し、部下の法正と黄忠に夏侯淵を打ち取らせたので、後漢を再興する勢いがありました。

ただ、勢いもここまでで、荊州で暴走した武神関羽が、呉の孫権に討たれてしまったのです。

司馬徽は龐統と諸葛亮を推薦し、劉備は三顧の礼により諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)を獲得しました。

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水鏡司馬徽が評価した鳳雛龐統を外観で侮っていた劉備

三国志の司馬徽は、劉備に龐統をおすすめしましたが、劉備は外見で龐統を低評価しました。

やはり三國志の時代も優れた人物は、立派な風貌をしているケースが多かったのです。

そして劉備は一応、龐統鳳雛を辺境の役人にしました。すると龐統はサボり、まったく仕事をしなかったのです。

劉備は義兄弟の張飛を派遣し、龐統を追求したところ、今までの役所の業務を即座に終了させました。

劉備はやっと龐統が、司馬徽が推薦していた鳳雛だと分かったのです。

ちなみに、劉備が龐統を遠くに追いやったのは、呉のスパイだったという説も存在しています。

劉備は、司馬徽が高評価していた龐統を、見かけで見抜けずに冷遇しましたが、後に鳳雛として厚遇したのです。

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超世の傑曹操は荊州劉表の息子劉琮が軍門に下ったので水鏡司馬徽を重用する予定だったのです

三国志の司馬徽は、鳳雛龐統と臥龍諸葛亮の敵と言える、乱世の奸雄曹操に採用されました。

ですが、天命なのか司馬徽に寿命が訪れ、曹操に仕えずに終わったのです。

もしも曹操に長く仕えた場合、劉備の元から諸葛亮と鳳雛が、司馬徽と曹操に鞍替えする可能性もあったのでしょうか。

そして、荊州劉表の子供劉琮は、曹操配下の于禁に斬られた、と言われています。

曹操は、後漢皇帝の献帝劉協を利用していたため、劉琮と連携されると面倒だ、と思ったのかもしれません。

ちなみに于禁は、劉備の義兄弟関羽に樊城の戦いで水攻めに遭い、大恥な降伏をしました。

水鏡司馬徽は、超世の傑曹操に味方させられそうでしたが、天運により免れたのです。

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荊州の武将の八俊劉表から評価されなかった水鏡司馬徽

三国志の司馬徽は、荊州の劉表からはあまり良い印象を持たれませんでしたが、司馬徽も劉表を評価していませんでした。

司馬徽は水鏡と呼ばれているので、劉表に劉表自身の姿を見せたのでしょう。

そして劉表は、妻の蔡氏に惑わされ、長男の劉琦から弟の劉琮に後継者を変更しました。

劉表の死後に荊州劉氏は、力が分裂してしまったので、司馬徽の対応が正しかったと言えるでしょう。

水鏡司馬徽が生きていた三國志の時代は、乱世で世の中がどんどん変化しました。

司馬徽のように、よいぞな精神であまり執着しないことが、良い結果になりやすかったのではないでしょうか。

司馬徽は、妻の蔡氏(さいし)に混乱させられた荊州の武将劉表から、支持されませんでしたが、結果的にはよいぞだったと述べられます。

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まとめ:三国志の司馬徽徳操(しばきとくそう)は鳳雛龐統と臥龍諸葛亮の両者を得ればよいぞよいぞと述べました

三國志の司馬徽は水鏡として、いろいろな人々の才能を綺麗に見せたことも、解説してきました。あなたも、水鏡司馬徽に鑑定してもらいたいですか?

そして、司馬徽からのアドバイスで、劉備が諸葛亮に、三顧の礼を行ったことも説明してきました。劉備が丁重に、諸葛亮を招いてくれたので、司馬徽も満足だったでしょう。

また、司馬徽から助言されたにも関わらず、劉備が龐統を見通せなかったことも書きました。この時に、龐統を曹操や孫権に奪われてしまったら、どうなっていたのでしょうか。

司馬徽は、諸葛亮と龐統を劉備に推薦しましたが、司馬徽自身が劉備軍で活躍した場合、天下が来たかもしれません。

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