三国志で仁義な英雄として知られる劉備にも、後継者である息子がいたのです。
劉備のように有能だったのでしょうか?それとも・・・
劉備の息子の名前は、ご存知ですか?この名前を把握しておくだけで、いにしえ中国史攻略に近づくでしょう。
幼少期の名前も、特徴的なのでお伝えしています。こういうことだったのかと思うでしょう。
実は劉備には、義理の息子もいたのです。劉禅と比較してどのような人物なのでしょうか。
劉備の息子の弟たちも解説しています。どのような活躍をし、歴史に名を刻んだのでしょうか。
そして、劉備の息子を決死の覚悟で救出した英雄もご紹介しています。あなたも好きな偉人かも!
劉備の息子について説明していきます!
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目次
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劉備の息子は無能な人なのでしょうか?
劉備の息子の劉禅は、あまり偉大なエピソードもなくご機嫌取りの家臣ばかりと戯れていたのです。
劉禅の無能さもあって蜀漢帝国は滅亡するのですが、敵国に降伏した際に他の蜀の人々が悲しんでいる中、一人だけ喜んでいたとされています。
劉禅がのうのうと生きていることに、敵方の有力者司馬昭も呆れていたのです。
もしかしたらこのような人であったからこそ、劉禅は生き残れたのかもしれません。
あなたも困難なシチュエーションに迷いこんだら、劉禅を利用してみて下さい。
ちなみに、司馬昭は諸葛亮孔明と知略で勝負した司馬懿の息子でもあるのです。置かれている境遇や能力が異なると、息子でもここまで差が生ずるのでしょうか。
劉備の息子の劉禅は、ただ単に生きていたと言えるでしょう。
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劉備の息子の名前は劉禅
劉備の息子の名前は、劉備と同じ劉と禅で劉禅と言うのです。
劉禅はあまり凄い話がないので、名前の禅の通り静けさがあるとも言えるでしょう。
劉には、つらねるやころすという意味もあります。ころすという意味は不吉と述べられるので、もしかしたらそれで劉禅は・・・
そして、劉氏の栄華もとうとう終わりを迎え八王の乱という戦乱で多くの劉氏が亡くなり、劉氏はその影響なのか金の姓に変化したようです。
ちなみに、劉備の備は完成させるという意味も有しています。劉氏を完成させ終わらせてしまったのが、劉備なのでしょうか・・・
名前を蜀漢が何代も続くような名前に変更すれば、劉備の息子劉禅も有能に!?
劉備の息子は、劉禅というネームです。
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幼少期の名前は阿斗(アト)
劉備の息子の劉禅を母親が、北斗七星にあやかって、阿斗と名付けたとされています。
2代目の皇帝になれた点だけ見ると、北斗七星のご加護があったと言えるでしょう。
ちなみに、現在では劉禅が無能な終わりを迎えたことから、阿斗を愚かな人間という意味で使う事があります。
かつて始皇帝の後の2世皇帝胡亥の時代に、趙高が鹿を馬と言い張ることで自らの権力を試したことから、馬鹿を愚かな行為を意味する語源と見なされることに、似ているかもしれません。
ただ馬鹿は実際は、他の語源から発生しているみたいです。
同じ2代目の皇帝でも、劉禅の方が胡亥よりも何倍もマシかもしれません。
劉備の息子の劉禅は、若い時に星のパワーから阿斗と呼ばれていたのです。
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劉備には義理の息子もいる!?
劉備には劉禅の他にも、武勇に優れた義理の息子の劉封がいます。
ただ、武勇があったればこそ将軍としての責任を負わされ処刑されてしまいました。
そもそも劉備には関羽という有能な義兄弟がいたのですが、劉封は関羽を助けるべき立場にありました。
対して劉封は、領域の混乱を抑えるために軍勢を関羽救出に使えない状況だったのです。
そして、不運なことに関羽を助けるべきもう一人の人物である孟達が、魏に降伏してしまいました。
ちなみに、関羽が亡くなったのは無理に敵国を攻めた部分も大きいので、劉封が助けたから必ず生き残れたかは不明と言えます。
劉封も魏に降伏すればセーフの可能性があったのですが、劉備の元に戻り関羽の責任などで処刑されたのです。
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劉備の他の息子
劉備には、劉禅以外にも劉永と劉理が息子としていました。
- 劉永
- 劉理
劉禅は今の時代でも無能とされることもありますが、劉永と劉理は有能なのでしょうか。
劉禅が無能とされる理由の一つに、黄皓という寵臣の存在があるのです。その黄皓と劉永たちは、どのようなバトルを繰り広げたのか!
劉備は最終的には蜀漢の皇帝に就任したのですが、息子たちも凄い地位をゲットしたのです。どれくらいの地位かも把握しておいてください。
地位が凄くてもそれ相応の振る舞いを行わないと・・・
劉禅と劉永と劉理のそれぞれの関係も記載しています。立ち位置を知っておくと、三国志を読む際にも役立つでしょう。
劉備の息子の劉永と劉理の方も解説していきます。
劉永
劉永は、劉備の息子で劉禅の弟です。
魯王に封じられたり甘陵王に任命されました。劉備の息子らしい出世でしょう。
蜀漢の2代目皇帝である劉禅の代に黄皓が専横を極めていたのですが、劉永は蜀漢のために黄皓を批判しました。劉禅は黄皓を信任していたことから、逆に劉永が追い込まれてしまうのです。
問題のある人物がいたとしても、外交や謀を上手く操らなければ危険になることもあるのでしょう。
魏に対抗する上での同盟国な呉や蜀漢の大将軍姜維と提携した上で、黄皓を責め立てていた場合、勝機が得られたかもしれません。
劉禅が黄皓をそこまで信用していたのは、かなりご機嫌を取るからだったのでしょうか。
劉永は、正義感ある劉備の息子と言えるのです。
⇒姜維の北伐!第五次、諸葛亮の遺志、蜀の伯約能力、評価、最後も解説
劉理
劉理は、劉備の息子で劉禅と劉永の弟です。
残念ながら若くして亡くなってしまいました。
劉理は、梁王に任命されたり安平王になったりしたようです。戦乱の時代なので、領域や功績が変化するためでしょう。
五虎大将軍の一人と称されることもある馬超の娘を娶ったみたいです。長生きしていたら、馬超のような大将軍になっていたのでしょうか。
そして、馬超は三国志の主人公と言うべき曹操と死闘を繰り広げ、父や一族を失いながらも蜀漢で大将軍を務めていた人物です。
ちなみに、劉理の親族たちも若くして亡くなったので、劉禅が劉理の一族に援助してあげてます。無能とされることが多い劉禅の良い一面と言えるでしょう。
劉理は、劉備の息子で短命だったのです。
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劉備の息子の他の情報
劉備の息子である劉禅と関係が深い武将と言えば趙雲でしょう。
他には劉禅をかなり長い期間補佐することで、蜀国を存続させ魏に対抗した諸葛亮も挙げておくべきだと思います。
諸葛亮が生きている間、劉禅は結構まともな政治を行っているのです。これは諸葛亮の功績か劉禅の才能なのか!?
諸葛亮は賛美されることが多い偉人ですが、劉備から口ばかりが達者と称された馬謖を信任し、街亭の大敗北を招くなど人材に恵まれていない面もあるのです。
諸葛亮と劉禅の関係も・・・
劉禅が諸葛亮が生きている間に修行し、諸葛亮孔明の手法を身に付けていたら、魏に攻め込んで勝利していたでしょうか!?
さて、三国志に欠かせないと言うべき趙雲も、劉備の息子の関係者ということで解説していきます。
⇒馬謖とは?諸葛亮孔明なぜ泣いて斬る?街亭の戦い、登山の誤算も解説
劉禅の救世主な趙雲子龍
劉備の息子の劉禅は、長坂波の戦いで趙雲に命を救われたのです。
もしもこれが無ければ劉禅は・・・
こう書くとあれですが、無能とされることが多い劉禅が長坂波の戦いで戦死していたとすると、もしかしたら蜀漢帝国がもっと存続していた可能性もあるのではないかと思います。
そもそも趙雲は蜀国の敵方の曹操も欲しがるほどの名将なのです。そう考えると、趙雲が劉禅と共に戦死せずに済んだことも劉禅の蜀国運営に貢献したと言えるでしょう。
趙雲は、馬超と共に五虎大将軍とされることもあります。それだけ有能な武将だったのでしょう。
後、長坂波の戦いでは劉備の義兄弟の張飛が敵兵を威嚇した話も有名になっています。
趙雲は、劉備の息子の劉禅を助けたことがあるということです。
⇒劉備の部下一覧!どんな配下?諸葛亮孔明、関羽、張飛、評価も解説!
まとめ:劉備の息子の阿斗(あと)こと劉禅公嗣(りゅうぜんこうし)は無能?
劉備の息子の劉禅が無能なのかについて、しっかり論じてきました。無能と呼ばれたくない人は、劉禅を反面教師にすると良いでしょう。
劉備の息子の名前や幼名の由来も解説してきました。すごい名前の息子でも、最終的に残念な結果をもたらしてしまうこともあるのでしょう。素晴らしい名前も、使いようかもしれません。
他にも、劉備の義理の息子の活躍や最後もご紹介しました。今からは考えられない家族構成かもしれません。
劉備の息子の弟たちの伝承も読めました。劉備の息子たちの立場や困難な境遇から見える事もあるでしょう。
最後に、劉備の息子と深い繋がりな偉人である諸葛亮と趙雲もお知らせしています。知っている人も復習に使えるでしょう。
読み落としている箇所がないか要チェックです!