三国志の司馬懿は、蜀漢の北伐の際に孔明の罠を恐れ、諸葛亮の空城の計に騙されたのです。
江戸幕府初代将軍の徳川家康も、三方ヶ原の戦いの際に、空城の計で難を逃れました。もしも家康が、信玄に最後を加えられていたら、江戸時代の長い平和も、成立していなかったのではないでしょうか。
そして魏の文聘も、呉の初代皇帝孫権が大挙して来たので、空城の計を展開したのです。赤壁の戦いで曹操に大勝しても、魏には文聘らの名将がおり、孫権の思い通りにはなかなかならないのでしょう。
また、五虎大将軍の趙雲も、黄忠を救うために空城の計を行いました。趙雲のような勇将には、誰もが、何かしらの備えがあると思ってしまうのでしょう。
ちなみに、空城の計の読み方は、くうじょうのけいです。
空城の計を詳しく解説していきます!
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目次
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三方ヶ原の戦いで武田信玄に大敗した徳川家康は三国志の諸葛亮孔明のように浜松城で空城の計を成功させたのです
日本史の徳川家康は、三方ヶ原の戦いで武田信玄に大負けしましたが、浜松城で空城の計を行い生き残りました。
そもそも徳川家康は、武田信玄からも一目置かれるほどの武将だったため、三方ヶ原の戦いで徳川軍が敗戦していても、浜松城を簡単には奪取出来ない、と信玄は考えていたのです。
ですので、敗れたはずの徳川家康が城門を開け放ち、松明の大火を見た武田信玄は、上洛にためにも、無理に攻めることを控えました。
ちなみに武田信玄は、健康状態が悪化し、上洛出来ずに最後を迎えたと伝わっています。
三国志の孔明の罠としても有名な空城の計は、三方ヶ原の戦いで武田信玄(たけだしんげん)に大敗北した徳川家康(とくがわいえやす)も活用した、兵法三十六計です。
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三国志の諸葛亮孔明が使用した空城の計は兵法三十六計の敗戦の計であり他には走為上もあります
北伐で大打撃を被った諸葛亮を助けた空城の計以外にも、兵法三十六計の敗戦の計には、走為上も存在しているのです。
走為上は、三十六計逃げるに如かずと言われるほど、強力な兵法とされています。
そして、楚漢戦争で最終的に西楚の覇王項羽に勝った劉邦と、赤壁の戦いで曹操に大勝利した劉備も、走為上を利用することで、後の勝利を獲得したのです。
上手く逃げ続けることで、力を蓄えて一気に放出することが、本当の勝者の道なのかもしれません。
兵法三十六計の敗戦の計には、空城の計の他にも走為上(そういじょう)があり、三国志の赤壁の戦いの勝利者劉備玄徳(りゅうびげんとく)と垓下の戦いの勝者劉邦(りゅうほう)が活用した、と伝わっています。
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北伐の街亭の戦いで馬謖が張郃に敗北し司馬懿が追撃して来たため諸葛亮孔明は空城の計で遣り過ごしました
諸葛亮は、街亭の戦いで馬謖に勝利して勢いに乗る司馬懿軍に、平然と空城の計を繰り出し欺いたのです。
司馬懿と張郃は、街亭の戦いであまりにも呆気なく馬謖が敗れたため、諸葛亮がなぜか城で待ち構えていることを、非常に訝しみました。
結局司馬懿たちは、諸葛亮に計略があると考え、撤退し蜀漢を滅亡させるチャンスを逃したのです。
ちなみに、司馬懿は後に何度も諸葛亮と戦いますが、決定的な勝利を得られませんでした。
三国志の諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)は、空城の計で司馬懿仲達(しばいちゅうたつ)に余裕を見せることで、街亭の戦いの馬謖幼常(ばしょくようじょう)の大敗北の追撃を防いだのです。
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空城の計で三国志の諸葛亮孔明は司馬懿を退散させただけでなく自らの木像でも翻弄したのです
諸葛亮は五丈原の戦いで、最後が近付いたため、自分の木像を用意しておき、空城の計を使用した時と同様に司馬懿を撤退させました。
また、五丈原の戦いで諸葛亮が、司馬懿を上手く退かせたので、死せる孔明生ける仲達を走らすの故事成語も、誕生したのです。
そして諸葛亮は、猛将魏延を姜維や楊儀では統制出来ないと考えていたため、馬岱に策を与え、馬岱はここにいるぞと述べ魏延に最期をもたらしました。
三国志の諸葛亮孔明は、五丈原の戦いでもかつての空城の計の際と同じように、自らの木像で司馬懿を操り退却させるだけでなく、反骨の相で危険な魏延文長(ぎえんぶんちょう)をも、馬岱(ばたい)に最後を与えさせたのです。
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三国志の文聘は呉の孫権が石陽を大軍で攻めたため兵法三十六計の空城の計で撃退したのです
呉の孫権が石陽を攻撃した際、文聘はあまり備えが出来ていなかったので、孔明の罠のように空城の計を披露しました。
孫権はなぜか文聘が迎撃しないため、何か作戦を持っていると見なしたのです。
石陽という重要な拠点を任されている文聘を、魏が見捨てるとは、孫権は考えず、文聘の真意を見抜けませんでした。
そして孫権は合肥の戦いでも、大軍で侵攻していながら、張遼から最期を加えられそうになり、命からがら逃げ帰ったのです。
三国志の文聘仲業(ぶんぺいちゅうぎょう)は、呉の孫権仲謀(そんけんちゅうぼう)が石陽に大軍勢で近付いても、防備が完成していなかったので、むしろ空城の計に利用し、孫権に勝利しました。
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定軍山の戦いで夏侯淵に最後を与えた黄忠は魏の兵糧を攻撃し窮地に陥ったため五虎大将軍の趙雲は空城の計で救援しました
劉備軍は、定軍山の戦いで軍師法正と黄忠が、夏侯淵に大勝したため、更に魏を攻め立てたのです。
しかし、黄中が深入りしてしまい、戻って来ないので、趙雲が魏軍に突入しました。
そして趙雲は、魏軍をかき乱し退却しただけでなく、万全の備えがあると魏に思わせる、空城の計も行ったのです。
上手く趙雲が小軍勢にも関わらず、魏に勝ったため、劉備は趙雲の勇敢さを絶賛しました。
ちなみに趙雲は長坂の戦いでも、敵陣に突撃し、劉備の息子の阿斗劉禅を救出した、と伝わっています。
三国志の五虎大将軍の趙雲子龍(ちょううんしりゅう)は、定軍山の戦いの功労者黄忠漢升(こうちゅうかんしょう)が危機に遭ったため、魏軍に侵攻し兵法三十六計の空城の計で退けたのです。
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空城の計で司馬懿を撤退させた諸葛亮孔明は街亭の戦いで大失敗した馬謖を泣いて斬ったのです
諸葛亮は空城の計で、司馬懿の攻撃を防ぎましたが、馬謖の失敗を見逃しませんでした。
そもそも街亭の戦いで諸葛亮は、事前に馬謖に登山ではなく、麓の防御を指示していたのです。
ですので、馬謖の登山は諸葛亮の予想外の行動であり、馬謖の失敗は擁護出来るものではありませんでした。
また馬謖は、街亭の戦いの現場でも、王平の警告を聞かずに登山しており、諸葛亮の見る目の無さも示したのです。
そして馬謖の敗戦は、諸葛亮の北伐の難しさも、露呈させてしまいました。
三国志の諸葛亮孔明は、馬謖の本質を見抜けず街亭の戦いの大失敗を招きましたが、空城の計で巧みに司馬懿を退却させ、更なる大惨事を防いだのです。
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まとめ:空城の計(くうじょうのけい)をわかりやすく解説と三方ヶ原の戦いの浜松城と三国志の諸葛亮孔明の兵法三十六計と史実の敗戦の計失敗意味
兵法三十六計の空城の計を、諸葛亮以外にも誰がどのように使用したかを、わかりやすく解説してきました。空城の計を使いこなせると、名軍師に近付けるでしょう。
そして、空城の計以外の兵法三十六計の敗戦の計として、走為上もあり、劉備や劉邦が活用したことも説明してきました。
戦略的な撤退を上手く行ってこそ、後の再起に繋がるのでしょう。
また、三国志の諸葛亮孔明は、空城の計を展開した時と同じように、司馬懿を自身の木像で退却させたことも述べてきました。
諸葛亮を真似ると、自然と凄い兵法が、繰り出せるようになるのではないでしょうか。
兵法三十六計の空城の計は、名将が危機的状況に陥った際の起死回生の手法なので、覚えておくと九死に一生を得られるでしょう。