関羽最後!雲長首、言葉、像、強さ身長、娘妻、張飛死因、曹操も解説

三国志で神のような存在と言えば、関羽雲長ではないでしょうか。

その関羽も最後を迎えたのですが、関羽の首で注目すべき駆け引きが行われたのです。駆け引きになるほどの首は、すごい値打ちでしょう。

関羽像が各地で建立されました。どこでどのように名所となっているのでしょうか。

そして、関羽の強さの秘訣についても述べています。関羽のような武人に興味がある人も、嬉しい内容でしょう。

また、関羽と張飛も書いています。関羽と張飛は、どのような間柄だったのでしょうか。

実は、関羽と曹操も深い関係があり、関羽は曹操に仕えていた時期もあるのです。

三国志の関羽は本当に神のような人物なのか、論じていきます!

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武神関羽の最後を解説します

関羽は、魏に攻め込み勇将于禁を撃破しましたが、深入りし過ぎて、味方であるはずの呉から攻められ打ち取られました。

そもそも蜀漢と呉の間には、領土紛争があったのです。

関羽のいた荊州地域は、劉備が益州あたりを獲得するまでの呉からの借りもののような状態でした。

そして、呉陣営は、司令官の呂蒙が仮病だけでなくへりくだった発言をすることで、蜀漢の関羽を油断させたのです。

そもそも関羽は呉を侮っていたので、真に受けてしまい、呉の軍隊が付け込む隙を作ってしまいました。

蜀漢陣営から呉に鞍替えする者もいたので、一気に荊州を奪われたのです。

三国志の関羽雲長は、魏の実力者の于禁に勝利しましたが、呉を侮り呉の計略にはまったため、最後を迎えました。

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関羽の復讐をする前に悪い癖が出た張飛の死因

関羽が呉に打ち負かされたことに激怒した劉備が、呉に攻め込む準備をしている中、張飛は出陣の準備に手間取り、部下にきつく当たったため、反撃され亡くなりました。

劉備は、普段から張飛が部下に過酷な対応をしていたので、気を付けるように戒めていたのです。

そして、張飛を打ち取った者たちは、呉に逃げ込んだため、劉備は、呉への復讐心をますます燃やしたのです。

もしも、張飛が生きている状態で呉に攻め込んだ場合、呉を打ち負かしてそのまま魏も、という歴史もあり得たかもしれません。

ちなみに、張飛は誰にでもキツイ対応だったわけではなく、知識があるような格上の相手には丁寧だったと伝わっています。

三国志の張飛益徳は、部下に激しい対応をし過ぎたため、関羽の仇討前に、部下に斬られてしまいました。

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関羽の首を曹操に渡す呉の孫権の驚くべき責任転嫁

呉の孫権は、関羽の首を魏に送り付けることで、曹操に関羽を打ち取った責任をなすりつけようとしました。

  • 超巨大な関羽像と関羽自体の身長
  • 関羽の娘は関銀屏と妻

そもそも関羽は、呉の配下の呂蒙の独断で、打ち取られたものなのです。

ですので、呂蒙は関羽を打ち負かした後、しばらくして、なぜか亡くなっています。

孫権としても、劉備から恨まれるようなことをして呉と蜀漢の関係に、ヒビを入れたくなかったのでしょう。

呂蒙のように大望を果たしたとしても、その後を考えていなければ、自分の身すら全う出来ない場合もあるということです。

ちなみに、曹操は関羽を荊王として関羽の無念を慰め、かつての功績も称賛しました。

三国志の呉の君主の孫権は、関羽を打ち取った責任をまるで曹操からの指図のように装うことで、劉備からの恨みを逸らそうとしたのです。

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超巨大な関羽像と関羽自体の身長

中華人民共和国の荊州氏に55メートルくらいの関羽像が存在していただけでなく、関羽自身の身長は2mくらいと言われているのです。

ですが、関羽像は、巨大すぎて違法と認定されてしまい解体されたのです。

また、関羽像は台湾にも存在しており、何カ所にも設置されています。

他にもインターネットでは、小規模な関羽像販売が行われているのです。中国系のお土産が欲しくなったら、利用してみてください。

そして、三国志の関羽の身長はかなり高く、2mほどという説が存在しているのです。

また、関羽は髭もかなりたっぷりあり、長さも相当なものでした。諸葛亮も関羽の事を髭殿と呼んでいたようです。

かなり巨大な関羽像が作られるほど大人気な関羽は、身長2mくらいの高身長だったとされています。

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関羽の娘は関銀屏と妻

関羽の娘の関銀屏(かんぎんへい)は、かなり美人で、才能もあふれていたとされています。

しかし、関羽が呉に打ち取られてしまい、関銀屏も父の敵討ちに囚われていったのです。

かつての美しく着飾っていた服を脱ぎ捨て武芸に励む関銀屏は、蜀漢軍に参加していきます。

そして、蜀漢領域下の人々に農業や武芸を教えたのです。

実は、関羽の妻がどのような人かは、ハッキリはしていません。

ただ、かつて関羽が呂布の配下の武将の妻を欲しがったといううわさが残っています。

かなりの美人だったようで、結局曹操がゲットしてしまいました。

関羽が曹操の元から去ったのは、そのへんのわだかまりもあるのかもしれません。

三国志の関羽雲長の娘の関銀屏は、若い頃は女性らしさが目立ちますが、関羽が亡くなった後は、武や才知が際立つ女性だったのです。

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関羽最後の言葉はハッキリとは残っていません

三国志の関羽の最後の言葉は、記録では明確でないのです。

関羽はおしゃべりな武人ではないので、何も言わずに斬られた可能性もあるでしょう。

何か言うとしたら、劉備や張飛への言葉が考えられますし、劉備の元に関羽のお別れの幻覚が現れたという話も存在しています。

やはり、劉備と関羽は、強い結びつきがあったのでしょう。

そして、関羽を打ち取った呂蒙が後を追うように亡くなっているのですが、関羽の祟りといううわさも伝わっています。

関羽は生きている間も、恐れられ敬われる武神と呼ぶべき人物でしたが、死後も影響力を発揮していたのでしょう。

三國志の関羽雲長の最期の言葉は、あまり知られていませんが、亡くなった後も様々なパワーを示しているのです。

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関羽の強さの秘密は圧倒的な自信?

三国志の関羽の強さは、劉備への忠誠心と義理堅さから生ずる圧倒的な自信にあるでしょう。

戦の乱れた時代の中で、劉備という主君のために一生涯仕えた姿が、魅力的なのです。

やはり、いろいろなことを行って右往左往していると、心がブレてしまうのではないでしょうか。

確かに関羽も一時的に曹操に仕えはしますが、それも劉備が行方不明になっていた間だけなのです。

関羽は結局は、心の底から従っていたのは、劉備玄徳だけと述べられます。

関羽のような人材を集められたことが、劉備の非常に優れた長所でもあるでしょう。

有能な人材を求めている人は、劉備の生き方を探ってみるのもおすすめです。

関羽雲長の強みは、劉備玄徳への曇りなき忠義と義理人情を根拠とした自信、と言えます。

⇒三国志劉備玄徳の性格!魅力的な人柄、カリスマ性、エピソードの話

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関羽雲長(かんううんちょう)最後の他の話

三国志の関羽雲長の最期で、他に読んでおくべき話もしていきます。

  • 関羽と張飛はどちらも武勇に優れた義兄弟将軍です
  • 人材収集家曹操孟徳と劉備に心から仕える関羽雲長の関係

関羽を語る上で欠かせないのは、義理の弟の張飛益徳でしょう。

果たして張飛とどのような事があり、強固な関係になったのでしょうか。

ちなみに、関羽と張飛の上に義理の兄の劉備が存在しています。

そして、劉備に強い忠誠心があった関羽ですが、なんと、曹操孟徳に仕えていた時期もあるのです。

もしも曹操にその後仕えていたとしたら、劉備は蜀漢帝国を建国出来ない可能性も有しているでしょう。

ただ、曹操に関羽が仕えるとキャラが変更する危険性もあるので、関羽としての活躍は無理だったかもしれません。

関羽雲長の最後に関連して、知っておくべき内容も、お伝えしていきます。

⇒劉備の部下一覧!どんな配下?諸葛亮孔明、関羽、張飛、評価も解説!

関羽と張飛はどちらも武勇に優れた義兄弟将軍です

三国志の関羽と張飛は、桃園で夢を誓い合い深い絆で結ばれた義兄弟でした。

もう一人長兄として劉備玄徳がいて、後に蜀漢の皇帝に就任しています。

そして、劉備と関羽と張飛で誰が一番上の兄かを決めるために、樹登りをしたと言われているのです。

劉備がなかなか登らないので、理由をたずねたところ、根っこの方が頂点だと述べたと伝わっています。

賢い回答により、関羽と張飛が、劉備に指導を仰いだとされているのです。

劉備は人柄に関するエピソードが多いですし、賢さといえば諸葛亮と言えますが、関羽や張飛にとっては賢い兄なのでしょう。

関羽雲長と張飛益徳は、いわゆる桃園の誓いにより、将来の大きい夢の仲間となっていきました。

⇒しょかつりょう!天才諸葛亮孔明とは?名言、劉備、龐統、魏延も解説

人材収集家曹操孟徳と劉備に心から仕える関羽雲長の関係

曹操孟徳は、関羽の生き様や武勇を非常に気に入り、赤兎馬やたくさんの褒美や爵位をあげました。

そもそも、人中の呂布・馬中の赤兎という言葉があります。

人の中では呂布という優れた武将がおり、馬の中には素晴らしい赤兎馬がいるという意味です。

その赤兎馬を呂布以外に操れたのが、関羽でした。

関羽は曹操への恩義に報いるために、曹操と袁紹の一大決戦の官渡の戦いで、袁紹配下の猛将の顔良と文醜を打ち負かしたのです。

結局行方不明だった劉備が見つかったので、関羽は劉備の元に戻っていきました。

曹操の敵の実力者を関羽が打ち取っているため、厚遇は無駄ではなかったのでしょう。

三国志の関羽は、曹操からかなり厚遇されましたが、劉備への忠誠心や義理を忘れなかったのです。

⇒曹操別れ見逃す関羽!称号、贈り物、赤兎馬、孫権、張遼、劉備も解説

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まとめ:三国志武神関羽雲長の最後!

三国志の神のような武人な関羽雲長を解説してきました。あなたにも、関羽の武勇が伝わってきたのではないでしょうか。

呉が関羽を打ち取ったにも関わらず、まるで曹操の指示があったかのような策略があったことも記載しました。

三国志の乱世を乗り切るには、奇策が重要なのでしょう。

関羽の最期以外にも雲長の娘と妻のことも説明しました。関羽の娘らしい仁義に厚い良い女性と言えるでしょう。

関羽がなぜかなり強いのかも書きました。あなたも身に付けて、関羽のようになれそうですか?

そして、関羽の義兄弟張飛の死因なども述べました。張飛は、関羽のような神ではなかったのでしょうか。

また、乱世の奸雄曹操と関羽の関係性も示しました。曹操孟徳はやはり有能な人材を見ると欲しくなるのでしょう。

三國志の関羽は、名前は知られていますが、どういう人か分からない人もいたのではないでしょうか、この機会にしっかり読んで把握しておいてください!

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