有名な秦の始皇帝と人気の三国志の時代は、どっちが先か気になっている人も、多いのではないでしょうか。
始皇帝は三国志の前の時代に生きた人物で、何百年も戦っていた国々を統制しました。何百年も争っていたので、力で統一するしかなかったのでしょう。
そして春秋戦国時代には、戦国七雄がおり、始皇帝の更に昔の話なのです。戦国七雄の秦に誕生したのが、始皇帝であり他の国々にも中国統一のチャンスはありました。
またなぜ、春秋戦国時代という呼び名が行われているかも、説明していきます。聖人孔子は論語で有名ですが、時代の名前まで創るほどの偉人だったのです。
始皇帝と三國志を詳しく解説していきます!
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目次
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始皇帝は紀元前約260年から210年くらいまで生きた人で三国志の約400年以上前の人物です
三国志は、西暦200年くらいの時代の話なので、始皇帝の時代のかなり後と言えます。
三国志の時代の朝廷は漢であり、漢の初代皇帝高祖劉邦は、始皇帝時代の方法を変更して成立しました。
始皇帝は国を法治することで、他国より強国であることを目指しましたが、劉邦は仁義を重視していたとされています。
そもそも始皇帝は、何百年も戦乱が続く国々を強力にまとめあげる必要性から、法による厳酷な支配が重要だったのです。
しかし劉邦は、始皇帝時代に一応の統一という前提があったので、仁義による労わりの政治が支持されたと述べられます。
始皇帝は、紀元前230年あたりの人物で、三国志より遡ること400年ほど前の偉人です。
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三国志の曹操は乱世を治めるために始皇帝のような法治を重視しました
三国志の超世の傑曹操は、春秋戦国時代の商鞅と申不害の法律を参考にして、後漢を統治していたのです。
商鞅は、始皇帝の更に前の時代に、秦国を法治国家に変更した人物と伝わっています。
始皇帝の秦が、他の六国を圧倒出来たのは、商鞅の法治が成功したからでしょう。
そして申不害は、名目と実態を法治で一致させる手法で、弱国韓を他国から侵略させないようにしたのです。
ちなみに、商鞅は自らが制定した法律で、宿を利用出来ず謀反人とされ、残酷な刑に遭いました。
法律とは武器のようなもので、きっちり所有していなければ、自らに害が訪れるのでしょう。
始皇帝が、春秋戦国時代の混乱を法治で統一したように、曹操は、三国志の乱世を法律で統制しようとしました。
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戦国七雄は三国志の前の時代の始皇帝よりも更に前に存在したとされています
戦国七雄の秦が、他の六国を滅亡させて成立したのが、秦の始皇帝であり、始皇帝の後に乱れた中国を再統一した漢が、何百年か続いた後の世界で、再度混乱が生じていたのが三国志です。
そして戦国七雄とは、秦と魏と趙と燕と韓と斉と楚を指しています。
そもそも戦国七雄は、周王の家臣に過ぎなかったのですが、周王の権威が衰退してきたことで、台頭してきた国々なのです。
また戦国七雄以前には、晋という強国がありましたが、晋が分裂し趙と魏と韓が成立しました。
元々一つの国だったわけですから、魏と趙と韓がそれぞれを一番再統一し易い国柄、だったのかもしれません。
三国志の何百年か前の時代に始皇帝がおり、更に前の時代に戦国七雄があったと伝わっています。
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三国志の前の始皇帝以前の戦国七雄は国ごとに異なる特徴がありました
戦国七雄の秦は法治、燕は伝統、斉は商業、楚は貴族分権、趙は騎馬軍、魏は一族重視、韓は小国な特徴を有していました。
最終的に戦国七雄を制したのは、秦なので、法治が一番望ましい統治のやり方かもしれません。
そして楚では、孫子と並び評される呉子の呉起が、貴族分権を打破するために、厳酷な法治を行ったことがあるのです。
一時的に楚は強国化し、他国を圧倒したのですが、呉起を重用していた王が長生きしなかったことで、再び貴族分権になってしまいました。
ちなみに、呉起も法治を重視した商鞅の末路のように、周りの人々から恨まれ、悲惨な最後を迎えたのです。
三国志と始皇帝のかなり前の時代の戦国七雄では、異なる特徴の国が覇を競い、法治を重視した始皇帝の秦が勝利しました。
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春秋戦国時代は始皇帝と三国志の前の時代で様々な偉人が現れました
三国志の前の始皇帝時代より前の春秋戦国時代は、大混乱でしたが、同時に対処するための凄いやり方が、たくさん出現したのです。
戦国七雄の魏と趙と韓は、元々晋という国でしたが、家臣が強大化して成立したので、晋が分裂した後を戦国時代と呼びます。
そして春秋時代は、論語の聖人孔子の書籍の春秋から名付けられました。
春秋時代を知りたい人は、論語ではなく春秋を読むべきでしょう。
また、孔子が活躍したのは戦国七雄のどの国でもなく、魯という国でした。
ちなみに、三国志の曹操を批判していた孔融は、孔子の子孫と言われています。
春秋戦国時代は、三国志以前の始皇帝の時代より更に前で、英雄や軍師がたくさん現れた時期でもありました。
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始皇帝と春秋戦国時代を知るための本が司馬遷の史記です
三国志の作者は陳寿ですが、春秋戦国時代の業績と始皇帝の偉業を把握出来る本が、司馬遷の史記なのです。
司馬遷の史記では、春秋戦国時代の周以前の、殷と夏と五帝時代にも言及しています。
史記を読むと、古代中国の概要をマスターした、と言っても良いでしょう。
そして司馬遷の史記には、表というものがあり、春秋戦国時代と始皇帝時代の重要な出来事が年表化されています。
始皇帝時代と春秋戦国時代をまったく知らない人は、司馬遷の史記の表をまずはチェックすべきでしょう。
春秋戦国時代と始皇帝時代に何が起きたかが分かる本が、司馬遷の史記であり、三国志の時代を把握したい人は陳寿の本を読むべきです。
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始皇帝時代は一人の皇帝でしたが三国志時代には三人の皇帝がいました
秦王嬴政が、春秋戦国時代の戦国七雄を滅ぼし中国を統一した記念に、始皇帝となりましたが、三国志では思惑の異なる三人の偉人が皇帝を名乗ったのです。
まず魏の曹丕が、後漢皇帝献帝劉協から禅譲され文皇帝に即位し、後漢を正統とする蜀漢の劉備が、曹丕に対抗して昭烈皇帝に就任しました。
そして呉の孫権は、魏と蜀漢がどちらも中国を再統一出来ていなかったので、大皇帝として呉の周辺を統治することとしたのです。
そもそも孫権は、魏の文皇帝曹丕に従属し、呉王の地位を与えられる関係性でした。
曹丕が蜀漢の劉備を上手く滅ぼしていれば、魏の曹丕だけが皇帝という状況もあり得たのです。
三国志では、魏の曹丕と蜀漢の劉備と呉の孫権が、三人共皇帝となっていましたが、始皇帝の時代には始皇帝一人が皇帝に即位していました。
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まとめ:始皇帝と三国志と春秋戦国時代はどっちが先でいつの時代?
三國志と始皇帝時代が、いつ存在していたかを解説してきました。始皇帝は始まりの皇帝なので、三国志より前の時代であると直感で分かった人も多いのではないでしょうか。
そして三国志で曹操が、始皇帝のように法律を重要視していたことも、説明してきました。始皇帝が三國志の時代に生まれていたら、始皇帝が三国統一だったのでしょうか。
また、春秋戦国の七雄が、始皇帝の秦とは異なる国柄だったことも述べてきました。すべての国が、法治であれば上手くいくわけではないのかもしれません。
他にも、始皇帝と三国志の皇帝の人数の違いも、記載してきました。時代毎に、皇帝の意味も変遷しているのではないでしょうか。
始皇帝と三国志と春秋戦国時代は、中国史でも有名なので、知っておいて損はないでしょう。