昌平君は、秦の始皇帝嬴政の側近でしたが、楚の王族でもあったので、祖国に殉じたのです。
秦の大将軍の李信と蒙恬に大勝利した項燕は、起死回生のために、昌平君を楚王としました。昌平君は秦国の中枢にいましたが、楚の王族でもあったのです。
そして昌平君は、負芻が捕虜となったので、楚王に即位しました。負芻が確保される前に、昌平君が明確に楚に味方していれば、楚に再起の可能性があったかもしれません。
また王翦が、楚戦での軍隊の兵数の件で始皇帝から非難された際に、昌平君は嬴政を批判しました。昌平君は、この時から、楚王になるつもりだったのでしょうか。
昌平君を詳しく解説していきます!
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目次
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蒙恬と李信を城父の戦いで大敗させた項燕に昌平君は楚王として擁立されました
昌平君は、西楚の覇王項羽の祖父の項燕から、楚王に迎えられ、李信や蒙恬とも戦うことになったのです。
項燕が蒙恬と李信に勝利出来たのは、昌平君が秦への反乱を支援したから、とも言われています。
そもそも昌平君は、長年秦のために尽くしていたため、楚が滅亡しそうになっても鞍替えするとは、皆が予期出来なかったのではないでしょうか。
そして李信は、燕と斉を滅ぼす際に大活躍しているので、楚での大敗北だけで、李信の能力を判断すべきではないでしょう。
昌平君が、始皇帝嬴政の側近であるにも関わらず、急に項燕(こうえん)に協力したため、李信(りしん)と蒙恬(もうてん)は対処しきれず、城父の戦いで大敗北を喫しました。
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韓が秦に反乱を起こしたので韓王安も最後を与えられ昌平君は民衆を労わったのです
昌平君が、韓の王族の反乱鎮圧後に、楚の王族として秦に貢献することで、人々の不満を和らげようとしました。
そして韓王安は、生前は兄弟の韓非子が、始皇帝から高評価されていもいたのです。
ですので、韓非子のおかげで韓が再興しそうになりましたが、荀子の元で同じく弟子だった李斯から妨害されました。
また、韓王安と韓が滅ぼされたことは、韓に先祖代々仕えてきた前漢の三傑張良にも衝撃を与えるもので、張良は始皇帝の暗殺も計画したのです。
昌平君は、始皇帝の側近であるだけでなく楚の王族でもあったため、韓非子(かんぴし)の兄弟の韓王安も死亡し動揺していた人民を、心理的に鎮圧する役割を果たしました。
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王翦に項燕が敗れ負芻が捕えられたので昌平君は楚王に就任したのです
昌平君は、楚王の負芻が王翦に確保されてしまったため、楚のために王になることにしました。
そして負芻は、哀王と李園と李環に最後をもたらして、楚王に即位していたのです。
李園は、妹李環が美女であったことを頼みとして、考烈王に取り入り出世していました。
また李園は、元々は戦国四君の春申君に仕えていたため、李環も初めは春申君に献上されていたのです。
ちなみに、戦国四君には春申君以外にも、孟嘗君と平原君と信陵君がおり、いずれも大国秦から一目置かれていました。
昌平君は、負芻(ふすう)まで囚われた楚を助けるために、蒙恬と李信に大勝利したこともある項燕に協力し、王に即位したのです。
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昌文君と甥関係だった昌平君は戦国四君の春申君が命懸けで助けた楚の考烈王の息子だったのです
昌平君は、考烈王の子供で、昌文君は考烈王の兄弟だったので、昌平君と昌文君は叔父関係と言えます。
そして、考烈王が秦から脱出し楚王となる際に、死力を尽くしたのが、戦国四君の春申君だったのです。
春申君は、范雎と昭襄王が考烈王をなかなか帰国させてくれないため、秦王に無断で楚に帰らせました。
昭襄王はかなり怒ったのですが、宰相范雎は、春申君も帰らせ恩を売った方が、後々に楚を利用出来ると主張したのです。
昌平君は、戦国四君の春申君(しゅんしんくん)が、范雎(はんしょ)と昭襄王から最後をもたらされそうになりながら救った考烈王の息子であり、考烈王の弟の昌文君とは叔父関係でした。
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始皇帝嬴政の師の王翦が楚征服の論戦で李信に敗れた際に昌平君は擁護したため丞相を解任されたのです
昌平君は、王翦が望む楚制圧の軍勢が、李信よりも何倍も多かったので、始皇帝から支持されず更迭された際に、弁護しました。
結局李信は、楚の大将軍項燕に撃破されているため、王翦と昌平君が正しかったと言えるでしょう。
ただ、昌平君は後に項燕に楚王として擁立されているので、昌平君が楚に協力していなければ、李信の負けが無かった可能性もあるのではないでしょうか。
また王翦は、始皇帝から疑心を抱かれていることに気付いていたため、項燕討伐の際も嬴政に褒美を要求し続け、粛清を免れました。
昌平君は、楚と項燕を倒す軍勢の人数の主張で、李信に勝てず解任させられた王翦(おうせん)を援護したので、丞相を辞めさせられましたが、後に王翦は項燕に勝利し楚の制圧に成功したのです。
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呂不韋が始皇帝嬴政の母親趙姫を満足させるために使っていた嫪あいに昌平君と昌文君は最後を送ったのです
昌平君は、叔父の昌文君と共に、始皇帝の母親と密通していた嫪あいを倒しました。
嫪あいは、呂不韋が趙姫に推薦した人物だったので、呂不韋も処分を免れず、流刑の末に絶望し最期を迎えたのです。
そして呂不韋は、戦国四君と張り合いたくさんの食客を集め、とうとう一字千金な呂氏春秋をも作り出しました。
ですので呂不韋の権威は、始皇帝も危惧するほどだったため、嫪あいの事件の際に呂不韋の処罰は、嬴政が権力を奪う目的も含まれていたのです。
昌平君は、嫪あいが嬴政の母趙姫と密通して権勢を得ていたので、昌文君と一緒に討伐し、嫪あいの関係者だった文信侯呂不韋(りょふい)をも追い落としました。
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最後が確定している祖国で楚王となった昌平君はイケメンな性格でかっこいい死亡を魅せた武将でしょう
昌平君は、結局楚の王族として秦で活躍していたため、たとえすぐに滅びるにしても、楚王として死亡したかったのではないでしょうか。
それに、秦で重用してもらっていたので、簡単に楚王に即位してしまうと人望を失う危険性もあったため、負芻が捕われるギリギリまで、昌平君は楚王とならなかったのでしょう。
確かに昌平君は、項燕と共に即座に死亡したのですが、楚を重んじる姿勢を天下に示し、後に項燕の孫の項羽が秦を倒す下地を作ったのではないでしょうか。
昌平君は、秦を軽んじず楚の王族としての誇りも忘れず、最後を迎える寸前の祖国で、大将軍項燕と共に楚の威信を天下に響かせ死亡したのです。
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まとめ:昌平君(しょうへいくん)はかっこいいと昌文君関係と強い楚王死亡とイケメンな最後
昌平君が項燕の支持で楚王となり、最後が必至でありながらも、秦と戦ったことを解説してきました。
昌平君が楚のために死亡していなければ、後に項燕の孫の項羽や楚の人々が、わざわざ秦に盾突くことも無かったかもしれません。
そして、昌文君の甥が昌平君であったことも、説明してきました。始皇帝からすると、楚の王族が二人も秦の中央にいるのは危ないので、昌平君をいずれは始末するつもりだったのではないでしょうか。
また呂不韋が、始皇帝の母親趙姫の件で対処を間違ったため、昌平君が嫪あいを最後に追い込んだことも、述べてきました。
もしも呂不韋がもっと生きていれば、昌平君の楚王就任を防ぐ策を、展開していたのではないでしょうか。
昌平君は、嬴政の側近から楚王に即位したため、秦の始皇帝の天下統一事業で一番の大番狂わせ、かもしれません。