三国志北伐の街亭の戦いの前に、諸葛亮は、名文な出師の表を阿斗劉禅に献上しました。
劉備は諸葛亮に、三顧の礼を提供することで、孔明を軍師に招いたのです。諸葛亮は厚遇に感激しており、劉備の死後も劉備の夢を忘れていませんでした。
そして諸葛亮の出師の表は、名文なだけでなく、泣けるとも伝わっています。諸葛亮は蜀漢の忠臣なので、臣下としての熱い思いが出師の表には出ているのでしょう。
また、かつて諸葛亮と同じような立場にあった、燕の楽毅も説明していきます。孔明は若き日に、自らのことを楽毅に近いと語っていました。
他にも、劉禅阿斗が頼りにすべき名臣についても、出師の表では言及されています。やはり蜀漢が、曲りなりにも存続したのは、諸葛亮以外の名臣もいたからでしょう。
三國志の出師の表のわかりやすい解説をしていきます!
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目次
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諸葛亮は三顧の礼で劉備が採用してくれたことを出師の表で感謝したのです
三国志の出師の表で孔明は、劉備が三顧の礼を行い、何度も諸葛亮の元を訪れて厚遇してくれた恩を示しました。
劉備は、仁義と漢帝室再興を成し遂げるために、優れた軍師を探しており、水鏡司馬徽から臥龍諸葛亮をおすすめされたのです。
そして劉備は、諸葛亮が軍師になったおかげで、流浪の武将から荊州と益州を統括する君主にまで出世しました。
しかし劉備は、義兄弟関羽の仇討ちのために夷陵の戦いを行い、荊州も失い蜀漢を疲弊させてしまったのです。
水鏡司馬徽徳操(しばきとくそう)が伏竜諸葛亮を推薦したので、劉備玄徳(りゅうびげんとく)は三顧の礼を行い、孔明は出師の表で謝意を表しました。
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諸葛亮の出師の表は別格な名文と高評価され泣ける名文とも言われています
三国志の出師の表は、昔から名文と言うしかない、と述べられているほどの名文なのです。
しかも、出師の表を読み泣ける人物でなければ、忠義心が欠けていると語る人もいます。
そして、諸葛亮は北伐の前に出師の表を提出したのですが、結局街亭の戦いで、腹心の馬謖が大失敗を犯したのです。
街亭の失敗を知ってから、出師の表を読むと、諸葛亮の悲痛な願いが、しっかりと垣間見えるのではないでしょうか。
ちなみに、街亭の戦いの際の北伐が、諸葛亮の北伐の最盛期と言えるかもしれません。
北伐の街亭の戦いの前に、阿斗劉禅公嗣(りゅうぜんこうし)に提出された出師の表は、諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)の悲痛な思いが表れており、泣ける名文なのです。
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南宋を圧迫していた金と戦う際岳飛も諸葛亮の出師の表を参考にしたのです
三国志の諸葛亮の出師の表は、後年金と激戦を繰り広げた岳飛にも、影響を与えました。
岳飛は名将であり、金に連戦連勝していましたが、南宋朝廷では秦檜らの和平派が台頭していたのです。
岳飛は救国の英雄でありながら、謀反人とされてしまい、悲惨な最後を迎えました。
南宋は、金と和睦することで、束の間の平穏を手に入れましたが、モンゴル帝国の前に一気に滅亡させられたのです。
諸葛亮は蜀漢が、魏よりも国力が劣るにも関わらず北伐を繰り返しましたが、動かなければ南宋のような末路だったのではないでしょうか。
諸葛亮の出師の表は、南宋の英雄である岳飛鵬挙(がくひほうきょ)からも注目されましたが、孔明も岳飛も非願成就出来ませんでした。
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弱燕の昭王を補佐し強斉を滅亡寸前にまで追い詰めた楽毅の決意も出師の表には表れています
三国志の出師の表には、いにしえの名将楽毅が悲願を成し遂げたように、諸葛亮も魏を倒す決意も表現されているのです。
春秋戦国時代に燕の昭王の父の噲が、かつての偉人堯舜を形の上だけ真似て、部下の子之に王の立場をあげました。
しかし燕王噲の太子は、子之の燕王就任に反対しており、内乱が発生したのです。
斉は、燕の内乱を鎮圧すると称して燕を蹂躙しました。
混乱の中昭王は燕王となり、郭隗を厚遇することで、名将楽毅を招き、斉を警戒する諸国と共に、斉に大勝利したのです。
諸葛亮は、昔楽毅(がくき)が燕の昭王の願いを成就させ強国斉に勝利したように、亡き劉備の願いである魏への勝利と後漢復興を成し遂げる決意を、出師の表で示しました。
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小覇王孫策は平穏を貪っていた武将を倒したので諸葛亮は出師の表で蜀漢の危機を訴えたのです
三国志の出師の表で諸葛亮は、小覇王孫策が平穏にあぐらをかいていた武将に勝利したことを事例に挙げ、蜀漢の北伐の重要性を語りました。
小覇王孫策は、覇王項羽クラスの武勇で、瞬く間に江東を制圧したのです。
江東の武将たちが、孫策にしっかり備えたり攻撃したりしていれば、孫策の野望を阻めた可能性もあります。
そして諸葛亮は五次北伐まで行い、結局魏を倒すことは出来ませんでしたが、蜀漢の維持には成功しているのです。
ちなみに、諸葛亮の北伐の遺志を継承したのが姜維で、天水の麒麟児と称されていました。
諸葛亮は出師の表で、小覇王孫策伯符(そんさくはくふ)の脅威を挙げることで、阿斗劉禅たちが北伐に向かう心意気を養ったのです。
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費禕は諸葛亮が出師の表で言及するほどの名臣だったのです
三国志の出師の表で諸葛亮は、阿斗劉禅が費禕のような有能な家臣を重用すべき、と主張しました。
費禕は、五虎大将軍クラスの魏延と楊儀が戦わないように、仲裁していたのです。
そもそも魏延は、反骨の相があるため、諸葛亮すら扱いが難しい猛将でした。
そして魏延は、諸葛亮の死後に蜀漢を統率するために、他の蜀漢の武将と争い敗れ、楊儀は待遇に不満を述べたので、残念な末路に終わったのです。
ちなみに、費禕は楊儀が蜀漢での扱いの不満を語った際に、主君劉禅に告げ口し、楊儀排除に貢献しています。
諸葛亮は、費禕文偉(ひいぶんい)が扱いの難しい魏延と楊儀に上手く対処していたので、出師の表でも名臣として高評価しました。
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前漢の初代皇帝高祖劉邦と三傑の張良と軍師陳平のように出撃すべきと諸葛亮は出師の表で語ったのです
三国志の出師の表で諸葛亮は、蜀漢が前漢の偉人たちを見習って、どんどん行動すべきと主張しました。
劉邦は、天下を覇王項羽と争っており、軍師范増に警戒され漢中付近に追いやられていたのです。
しかし劉邦の部下には、国士無双韓信がいたので、項羽の配下の将軍に連戦連勝し、最終的には劉邦が中国を統括しました。
諸葛亮は、蜀漢や劉禅阿斗が今は辺境でも、頑張ればかつての劉邦たちのように、逆転出来る可能性を信じていたのです。
諸葛亮は出師の表で、前漢の三傑張良子房(ちょうりょうしぼう)と賢者陳平と皇帝劉邦すら、必死の思いで覇王項羽に勝利したのだから、蜀漢の武将たちも努力すべきと述べました。
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まとめ:三国志北伐の出師の表(すいしのひょう)は諸葛亮孔明の泣ける名文
三國志の諸葛亮の出師の表が、どのような内容なのかを、わかりやすく解説してきました。
何かの大イベントの前には、孔明のように出師の表を書いてみると、決意が皆に伝わるでしょう。
そして南宋の忠臣岳飛も、諸葛亮の出師の表を、大事にしていたことを説明してきました。諸葛亮や岳飛に憧れている人は、出師の表を書き写してみると良いかもしれません。
また諸葛亮は出師の表で、蜀漢の名臣費禕のことを、称賛していたことも記載しました。費禕は楊儀と魏延にも対応出来たので、どのような武将が鞍替えして蜀漢に来ても、セーフだったのではないでしょうか。
出師の表は、諸葛亮の北伐の意義を知る上で重要な存在なので、一度は読むべきでしょう。