三国志の超世の傑にして乱世の奸雄曹操の最後にも、着目すべきでしょう。
曹操は、宿命の敵関羽の首を獲得しましたが、結局死因になってしまいました。関羽は首になっても、武神な人物だったのでしょう。
そして曹操が、馬超とバトルした際に、最期が近付いたことも説明していきます。馬超は錦馬超の異名もある猛将だったので、曹操のすごさをもってしても、難しい敵だったのでしょう。
また曹操が、悪な董卓を宝剣で斬ろうとしたことも、記載していきます。曹操は天才な政治家であり将軍ですが、刺客をしていた時期もあるのでしょう。
他にも、曹操が赤壁の戦いで、かなり危ない目に遭ったことも述べていきます。天才なはずの曹操に、何があったのでしょうか。
三國志の曹操の最後を詳しく解説していきます!
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目次
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曹操は孫権から関羽の首を送られたので語りかけると道連れにされました
三国志の曹操は、関羽の首に戯れで呼びかけたところ、眼が見開かれ曹操にも最後が来たのです。
関羽は、孫権と呂蒙に裏切られ荊州を返還させられ、最期まで抵抗したので、首を斬られました。
そして孫権は、関羽の義兄弟劉備が激怒することを恐れ、関羽の首を曹操にあげたのです。
曹操は孫権の策に気付き、関羽との昔話を行い慰め、関羽を荊王としました。
また関羽は、関帝廟もあるので、荊王ではなく荊帝と言っても良いかもしれません。
関帝な関羽なら、あの世で簡単に、曹操に勝利したのではないでしょうか。
曹操は、孫権仲謀(そんけんちゅうぼう)が責任を押し付けるために送って来た、関羽の首を荊王にしたのですが、最期が訪れたのです。
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曹操は洛陽に建始殿のために特別な樹木を伐採したところ血が流れ曹操にも最後が来ました
三国志の曹操は、かつての後漢の都洛陽に建始殿を造営しようとしたところ、神妙な抵抗に遭ったのです。
洛陽は、後漢朝廷にとって特別な意味を持つ場所と言えます。
曹操は、後漢の皇帝献帝劉協を上手く利用していたので、歴代の後漢皇帝からの祟りだったのかもしれません。
そして、特別な樹木を伐ろうとした際に、曹操は梨を植えようとし、妨害されました。
孔子の子孫孔融は、曹操を昔の事例で批判し過ぎて最期が与えられ、梨で有名な人物でもあったので、孔融からの攻撃だったのかもしれません。
曹操は、後漢の皇帝劉協を利用し過ぎ、孔子の末裔孔融からの批判を封じる処刑を行ったので、神聖な樹木から祟られ最後が来た可能性があります。
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曹操は潼関の戦いで錦馬超の猛攻に遭い最後が来そうになりました
三国志の曹操は、涼州を勢力下に収めるために、錦馬超と潼関の戦いを繰り広げたのです。
曹操は、錦馬超の怒涛の突撃から命からがら逃げ延び、馬超を斬らなければ今後は無い、とまで考えました。
そして、曹操の部下には、許褚がおり、虎痴と呼ばれる勇猛さがあったのです。
また許褚は、曹操が窮地に陥ると、錦馬超と激しい一騎打ちを演じました。
最終的に曹操は、馬超に正面から戦うのは危険と考え、馬超と味方の韓遂を敵対させる策で、撃破したのです。
錦馬超孟起(ばちょうもうき)は潼関の戦いで曹操を、あわや最後まで追い詰めましたが、虎痴許褚仲康(きょちょちゅうこう)と曹操の策で敗れました。
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曹操は専横な董卓を王允の七星宝刀で討とうとして失敗し最後が訪れそうになったのです
三国志の曹操は、董卓を正義により斬ろうとしましたが、董卓が勘付いたので、追われる身になりました。
董卓は皆に嫌われていましたが、武勇に長けた呂布が側近にいたので、なかなか排除出来なかったのです。
曹操は董卓に偽って馬をもらおうとし、呂布が新しい馬を探しに行っている隙に、董卓を刺そうとしました。
七星宝刀は綺麗な宝剣なので、急に輝いてしまい、董卓に曹操は、思惑を気付かれてしまったのです。
しかし後に曹操は、董卓を超える存在となり後漢皇帝以上の実力者となるため、暗殺失敗は結果的には良かった、と言えるでしょう。
曹操は悪政を行う董卓仲穎(とうたくちゅうえい)の暗殺に失敗し、最期を与えられそうになりましたが、何とか誤魔化して逃げ出しました。
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曹操が最後を迎えると敵の劉備が息子曹丕に使者を送りました
三国志の曹操に最期が来ると、劉備が使者を子供の曹丕に遣わせたのです。
劉備もかつては、曹操の元にいたこともある武将であり、曹操は劉備すらも味方としていました。
曹操のこの度量の広さこそが、超世の傑と称賛される由縁でしょう。
そして曹操の子供曹丕は、劉備の狡猾さを嫌い、使者を拒否しました。
曹丕は曹操ですらならなかった皇帝に即位したり、劉備の表面的な友好の使者を拒絶したりするなど、曹操よりもハッキリした性格と言えるでしょう。
曹操に最後が訪れたので、劉備玄徳(りゅうびげんとく)はチャンスと考え、息子の曹丕子桓(そうひしかん)に交流を求めましたが、曹丕は明確に拒否したのです。
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曹操は赤壁の戦いで大敗し関羽から最後を与えられるところでした
三国志の曹操は、荊州を掌握し天下統一まで後一歩に迫っていたのですが、赤壁の戦いで敗れたのです。
赤壁の戦いで曹操は、大軍を揃えましたが、疫病と敵の周瑜の策に翻弄されました。
曹操は確かに大軍ですが、水戦に慣れていない軍勢だったので、呉の周瑜の水軍に勝てなかったのです。
そして周瑜は、曹操を巧みに騙して同士討ちさせたり、偽装投降を信じさせたりしたため、曹操は火攻めで倒されました。
曹操は、周瑜を味方に鞍替えさせることに、力を集中すべきだったのかもしれません。
周瑜公瑾(しゅうゆこうきん)は赤壁の戦いで、曹操の大軍にひるまず、複雑な策を展開し、関羽雲長(かんううんちょう)が曹操に最期をもたらせる寸前まで追い詰めたのです。
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かつての味方武神関羽に最後を与えた後曹操も最期を迎えました
三国志の曹操は、関羽に一時的に本拠地を脅かされましたが、最終的には関羽を討てたのです。
関羽は樊城の戦いで、曹操配下の曹仁をかなり追い詰め、曹仁も降参を考えるほどでした。
しかし関羽は、傲慢な性格で、同盟者であるはずの呉の孫権や呂蒙を見下していました。
更に関羽は、降伏兵の兵糧を賄うために、呉の兵糧を勝手に確保したのです。
ついに孫権と呂蒙は怒り、関羽が樊城を攻めている最中に、荊州を取り返しました。
ちなみに、呂蒙は後に関羽の祟りが死因となった、と言われています。
曹操は、関羽にやり込められましたが、関羽の性格のおかげで、孫権と呂蒙子明(りょもうしめい)の助けを得られたのです。
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まとめ:三国志曹操(そうそう)の最後のすごさと天才孟徳(もうとく)の死因
三國志の曹操が、どれくらい凄いラストを飾ったかを解説してきました。曹操クラスになると、何度も最後が来そうになってもくぐり抜けられるのでしょう。
そして曹操が、関羽や後漢の呪いで、最期が来たことも説明してきました。曹操の時代は迷信も多いので、天才曹操でも取り込まれてしまったのでしょう。
また、曹操に潼関の戦いで最後が訪れそうになり、虎痴許褚から救出されたことも記載してきました。
強力な味方がいると、乱世でも死因を遠ざけられるのでしょう。
他にも、曹操が最後になりかけた赤壁の戦いも、語ってきました。本当は当時亡くなっていて、影武者が後の曹操を務めていた可能性もあるかもしれません。
曹操は三國志を代表する武将なので、最後まですごさを示したのでしょう。