三国志の武将たちも参考にした、孫子こと孫武は、どのような人物だったのでしょうか。
伍子胥は楚に親と兄弟を奪われたので、孫武の兵法で報復したいと考えていました。孫武の兵法で、伍子胥は家族の無念を晴らせたのでしょうか。
そして孫武は、呉王闔閭に兵法を見せる機会を獲得しました。後世でも有名な孫武は、闔閭の美女にどのような兵法を教えたのでしょうか。
また、孫子の兵法でも知られている戦わずして勝つを、孫武は呉と楚の大戦争でも発揮したのです。楚は大国なので、呉が強国でも、容易には勝てないのではないでしょうか。
他にも、孫武がどのような最後だったかも、説明していきます。兵法家な孫武将軍なので、大戦で華々しい最期を迎えたのでしょうか。
孫武と三國志を詳しく解説していきます!
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目次
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楚王に復讐したい伍子胥から高評価された孫子こと孫武の関係
孫武は、春秋の五覇闔閭から厚遇されていた伍子胥から認められ、兵法を披露しました。
そもそも伍子胥は、楚の平王が太子建の妻となるべき女性の美しさに惑わされ起きた内乱に、巻き込まれたのです。
楚の平王は、伍子胥の父親の伍奢が太子建を擁護するため、伍子胥たちにも最後をあげようとしました。
結局伍奢と伍子胥の兄の伍尚は、平王から最期を与えられたのですが、伍子胥は漁師の助けもあり呉国に亡命したのです。
ちなみに、後に伍子胥は孫武の兵法で楚に大勝し、平王の屍を苛烈に鞭打ったとされています。
孫子こと孫武は、楚の平王に仇討ちしたい伍子胥(ごししょ)から見出され、呉王闔閭に兵法を教えました。
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春秋の五覇の呉王闔閭は孫武に孫子の兵法を美女たちで行わせたのです
孫武は、呉王闔閭に孫子の兵法を見せるチャンスを与えられ、美女たちで実践しました。
初めは丁寧に何度も説明していた孫武も、ふざけるばかりで美人たちが聞かないので怒ったのです。
そして孫武は、きっちり教えているのに軍令が徹底されないのは、美女のリーダーの責任として主張しました。
すると呉王闔閭は、美人に心を奪われていたため、孫武の用兵を終わらせようとしましたが、孫武は君命に受けざるところありとして、美人のリーダーに最後を送ったのです。
また、美女の練兵の事件は、闔閭が今後の軍事に集中出来るように、誘惑な美人を遠ざけようとした孫武の策、だったのかもしれません。
孫武は、美女に孫子の兵法の練兵を教えることで、春秋の五覇闔閭(こうりょ)に畏怖されると共に、能力も評価されました。
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三国志の諸葛亮は北伐で魏延の長安での奇策を許可しませんでしたが孫武の兵法を知る賢者と述べられるでしょう
三国志の軍師諸葛亮は、蜀漢の劉備の望みである後漢朝廷再興のために、北伐を敢行しましたが、魏延のように無理はしませんでした。
魏延は北伐の際に、能力の低い夏侯楙のいる長安を急襲すれば、戦局は一変すると主張していたのです。
確かに魏延は、五虎大将軍の張飛に比肩するとも言われており、魏延の長安奇襲は上手くいく可能性はありました。
しかし諸葛亮は、魏延の長安攻めを許可することはなく、孔明は安全策で北伐を続けたのです。
孫子こと孫武が出来るだけ戦を避けていたように、三国志の諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)も確実に勝てる戦だけを行い、魏延文長(ぎえんぶんちょう)のような危険は冒しませんでした。
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戦わずして勝つ孫子の兵法を実演し孫武は楚を疲弊させ柏挙の戦いで負かしたのです
孫武は、呉王闔閭が楚に味方していた国に勝利した勢いで、楚を攻めようとしたため、まずは疲労させることを献策しました。
孫子の兵法には、百回勝つよりも戦わずに勝利すべきという名言があるので、孫武は楚で兵法を実践したのでしょう。
そして孫武は、楚と呉の大決戦である柏挙の戦いでも、本来の目的を隠し楚軍を誘導し、待ち構えて撃破しました。
楚の方がかなりの大軍だったと伝わっているので、孫武の兵法があったからこそ、呉王闔閭は勝ち得たと言えるでしょう。
孫子こと孫武は、兵法三十六計にもある以逸待労(いいつたいろう)で、楚の疲弊を誘い待ち伏せる布陣で、柏挙の戦いの勝利を獲得したのです。
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孫武の子孫孫臏は桂陵の戦いで柏挙の戦いの兵法の再現を行い宿敵龐涓に違いを見せつけました
孫子こと孫武の末裔の孫臏は、仇敵龐涓に勝つために、魏を囲んで趙を救ったのです。
魏は当時強国であり、趙を攻撃していたため、孫臏に趙から救援要請が来ました。
将軍の田忌は、趙の都邯鄲に急行しようとしましたが、孫臏は先祖の孫武のように、魏の国都を攻めることを進言したのです。
そして魏は、孫臏に都の大梁を攻撃されたので、趙から手を引かざるを得ず、しかも急いで戻ったので、体制が整わないまま撃破されてしまいました。
ちなみに孫臏は、馬陵の戦いでも龐涓の動きを読み切り、最後に追い込んだのです。
孫臏(そんぴん)は孫武の子孫らしい孫子(そんし)の兵法で、魏の龐涓(ほうけん)軍を巧みに疲弊させた後に、桂陵の戦いで討ち破りました。
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呉王夫差は越王勾践に油断し伍子胥の諫言も聞かずに最後を与え孫武にも死因をもたらしたとされています
孫武は、呉王闔閭の息子の夫差に仕えていましたが、夫差王が越王勾践に惑わされ始め、伍子胥の巻き添えになったと伝わっているのです。
かつて呉王闔閭を越王勾践が打ち負かしたため、夫差は臥薪嘗胆の気迫で呉を鍛え、後に勾践に勝利しました。
そして夫差は、勾践が下手に出ていたので、最後を与える必要はないと考えていたのですが、伍子胥は油断大敵と主張したのです。
また伍子胥の予測通り、越王勾践も臥薪嘗胆していたため、呉軍が中原に出陣している隙を突かれ、呉王は国と共に滅亡してしまいました。
呉王夫差(ふさ)は、越王勾践(こうせん)に勝つことで父闔閭の敵討ちに成功しましたが、勾践の謀略に惑わされ伍子胥と孫武に最後を与えた、と言われています。
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孫武の子孫の三国志の孫堅は伝国の玉璽を確保しましたが孫子の兵法のように戦わずには勝てなかったのです
孫武の末裔の孫堅は、江東の虎と称され飛将軍呂布を追い払い、董卓からも和睦を求められるほどの武将でした。
しかし董卓が遷都した後の洛陽で、玉璽を発見した途端に野心を表し、名門の袁紹とも対立するようになったのです。
そして孫堅は、玉璽の威光で戦わずに勝利するどころか、袁紹を敵としてしまい荊州の劉表からも襲われました。
劉表の部下の黄祖を撃破した孫堅は、上手く本拠地に帰る予定でしたが、黄祖軍の落石で最後が訪れたのです。
ちなみに、袁紹の兄弟の袁術は、孫堅の死後に玉璽を所有し、孫堅と同じように敵を増やしてしまい滅びました。
三国志の江東の虎孫堅文台(そんけんぶんだい)は、伝国の玉璽で先祖の孫武のように戦わずには勝利出来ず、無残な最期となったのです。
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まとめ:孫武(そんぶ)将軍逸話エピソードと三国志子孫と伍子胥関係と孫子孫臏兵法違い
孫武が、どのように孫子な兵法を繰り出したかを、解説してきました。あまり大きくない国でも、孫武のような奇才を獲得すれば、大国に勝つこともあるのでしょう。
そして、三国志の三顧の礼で知られる諸葛亮が、孫武の兵法を重視していたことも説明してきました。
蜀漢が小国でありながら、何十年も存続したのは、諸葛亮が孫武の兵法を重んじ無理な戦を避けたからでしょう。
また孫臏が、仇敵龐涓に勝つために、先祖の孫武の兵法で、魏軍を上手く疲れさせたことも述べてきました。
軍勢の強弱だけでなく、敵軍を巧みに動かすことが、孫武の兵法の妙技なのではないでしょうか。
孫武は、復讐を悲願とした伍子胥がいたからこそ、世に出られた兵法家なので、因果な将軍とも言えるでしょう。