三国志の司馬昭の息子司馬炎が、中国を統一したのですが、司馬昭はどのような業績があるのでしょうか。
司馬昭は、民衆を上手く手懐けることで、大乱や政変を乗りこなし、超世の傑曹操孟徳時代よりも民意を得ていたのです。
曹操も司馬昭を真似ていれば、三国統一は曹操だったのでしょうか。
そして、司馬昭の父が司馬懿仲達で、兄が司馬師でした。いずれも有能で知られているので、司馬一族の繁栄は、この3人がいてこそでしょう。
また、司馬昭の嫁と子供も説明していきます。賢い家族なのでしょうか。
他にも、魏の皇帝曹髦も記載していきます。曹操の子孫は、最後のあがきを見せるのでしょうか。
三國志の司馬昭を詳しく解説していきます!
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司馬昭の民心掌握能力
三国志の司馬昭は、父司馬懿だけでなく曹操の悲願でもあった蜀漢攻略を成し遂げました。
- 大胆不敵な性格で人材運用を行った司馬昭
- 司馬昭は病が死因で亡くなりました
呉の多くの人は、蜀漢遠征は民意を得ていないと述べていたのですが、実質は曹操時代よりも、民心を優先したやり方を行っていたのです。
そして、何度か大乱があった際も、司馬昭は上手く鎮圧し、逆に徳で報いました。
また、司馬昭は魏の皇帝曹髦を死に追いやったのですが、それでも司馬昭政権は揺るがなかったのです。
天意が司馬昭に訪れていると、言って良い状況なので、呉の賢者張悌(ちょうてい)は、司馬昭の蜀漢攻略の成功を予見しました。
司馬昭は、国内の大乱を成敗し、皇帝も追い落とすことで、権力基盤を固めて民心にも配慮し、蜀漢攻略を成就させたのです。
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大胆不敵な性格で人材運用を行った司馬昭
三国志の司馬昭は、能力が高く謀反の可能性がある鍾会を、蜀漢攻略の第一人者として抜擢できる勇敢な性格なのです。
鍾会のみが、蜀漢攻略に端緒を見出しており、鍾会に任せるしかない状況がありました。
それに、司馬昭の計算では、蜀漢攻略後に乱を起こしたとしても、他の武将や兵たちは、乗り気にならないだろうと考えていたのです。
鍾会も司馬昭への対策として、蜀漢の大将軍姜維を抱き込みましたが、結果は司馬昭の慧眼通りになりました。
もしも鍾会と姜維以外に、司馬昭陣営の誰かが、加わっていたとしたら・・・
司馬昭は、正確な計算により鍾会の野心と結果を天秤にかけ、蜀漢攻略を成功させた賢く度胸のある性格と言えます。
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司馬昭は病が死因で亡くなりました
三国志の司馬昭は、55歳くらいで最後を迎えました。
司馬昭の後継者と考えられていたのが、司馬攸(しばゆう)と司馬炎(しばえん)です。
司馬昭は兄の司馬師の後継者であり、司馬師の養子となっていたのが司馬攸、と言われています。
ですので、流れとして司馬攸が、司馬炎よりも正統な後継者と述べられるのです。
しかも、司馬炎よりも司馬攸の方が、仁と礼を身に付け賢いとされていました。
結局は、司馬炎の家臣団の働きによって、司馬炎が司馬昭の後継者と決定したのです。
乱世のならいとして、後継者争いに敗北した司馬攸派は、弾圧されていきます。
重要な場面では、ある種のがめつさが、命運を分けるのでしょう。
司馬昭は、最期が訪れる際に、改めて司馬炎を跡継ぎに押しました。
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司馬昭の父司馬懿仲達と兄司馬師
三国志司馬昭と兄の司馬師は、天才軍師諸葛亮孔明と知力の勝負を繰り広げた、あの司馬懿仲達の子供でもあるのです。
- 司馬昭の子供の晋皇帝司馬炎が天下統一
- 司馬昭の嫁は王元姫です
司馬昭と司馬師は仲も良い兄弟で、弟の司馬昭は、兄司馬師の後継者となれたほどでした。
そして司馬師は、父司馬懿が魏で実権を握る際の障壁である曹爽制圧にも貢献し、用兵の見事さを称賛されたのです。
また、司馬師や司馬昭は敗戦しても部下に責任を問わず、自らが責任を負うことで、武将たちに徳の高さを示しました。
司馬一族の政権が、乱が起きても揺るがなかったのは、徳によるものなのでしょうか。
司馬師は目の病に悩んでおり、目の重病化が死因で最期を迎えたと言われています。
司馬懿仲達(しばいちゅうたつ)の長男が司馬師子元(しばししげん)で、司馬師の弟が司馬昭子上(しばしょうしじょう)です。
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司馬昭の子供の晋皇帝司馬炎が天下統一
三国志の司馬昭の息子の司馬炎が、孫晧の呉を滅亡させ、中国統一を完成させました。
司馬炎は、若い頃は性格の温厚さだけでなく優秀さから、無二な人物と言われていたのです。
司馬炎は、中国再統一後の評価はあまり高くないとされています。
後漢以来の中国統一は、三國志の他の英雄や軍師たちも成し遂げられなかった夢であるため、司馬炎も、統一しさえすれば良いと考えていたのかもしれません。
また、司馬炎は、横暴な政治で非難されていた呉の皇帝孫晧を上手く待遇することで、呉の民心を得ようとしました。
やはり、上に登っていくためには、心の広さが重要なのでしょう。
最後の大国呉を攻め滅ぼすことで、司馬炎は皆が望む中国統一を行いました。
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司馬昭の嫁は王元姫です
三国志の司馬昭の嫁王元姫は、孝の徳で知られた女性で、男として生まれて欲しかったと、嘆かれた人物でもあります。
そして王元姫は、人を見る目にも長けており、鍾会の賢さと野心を警戒していました。
案の定、鍾会は蜀漢への遠征の際に、謀反を起こしたのですが、対策していた司馬昭に滅ぼされたのです。
また、王元姫の祖父は王朗で、諸葛亮孔明に舌戦でキツく批判され、心理的に追い詰められ、最後が訪れたと言われています。
諸葛亮クラスの天才軍師になると、言葉だけで人の生死を操れるのでしょう。
王元姫(おうげんき)は、孝行で有名で、実力者司馬昭の妻でもあります。
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司馬昭は曹髦皇帝に最後を与えました
三国志の曹操の再来と言われていたのが、曹髦(そうぼう)です。
司馬昭が実権を掌握している中で、曹髦が曹操みたいと述べられたことで、司馬昭の警戒心を煽ってしまいました。
前漢の三傑のひとり張良な知略と評された鍾会は、曹髦のことを曹植くらいの人物と、評価したのです。
曹植は詩の達人で、後に皇帝となる曹丕と後継者争いを展開した人と、言われています。
曹髦は結局司馬昭に、玉砕覚悟で激突したのですが、打ち負かされてしまったのです。
ちなみに、皇帝を打ち取るというのは、重大事件ですが、部下に全責任をなすりつけることで、事なきを得ました。
魏の皇帝曹髦は、曹操や曹植に似ていると評判でしたが、司馬昭に勝てなかったのです。
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司馬一族は自らを守るはずの軍事力で互いに争い滅亡していきました
三国志の司馬昭は血縁の絆を信じており、一族に強大な軍事力を与える事で、司馬一族の繁栄を願っていましたが、八王の乱につながってしまい、司馬一族は滅亡していきました。
かつて秦国の始皇帝は、一族に力を与えないことで、家臣の暴走を招きましたが、司馬昭は一族に権力を渡すことで、司馬一族の対立を激化させてしまったのです。
結局、一族が無力でもダメ、一族に力があり過ぎても駄目、ということでしょう。
漢の高祖劉邦は、郡国制という一族と有能な部下をバランス良く配置する体制で上手く国を治めました。
司馬一族は、軍事力が強大だったことで、八王の乱を引き起こし滅亡が訪れ、現在に至ってしまったのです。
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まとめ:三国志の司馬昭子上(しばしょうしじょう)の能力と性格
三國志の司馬昭が、晋建国と息子司馬炎の天下統一の礎を創ったことを解説しました。漢が何百年も続いたことに比べ、魏も短命で終わってしまったのです。
司馬昭は、能力が高いが野心ある鍾会を利用する事で、蜀漢攻略を手繰り寄せたことも説明しました。百パーセント良い人材はなかなかいないので、参考になるでしょう。
そして、司馬昭の子供の司馬炎が、中国統一を達成したが、統一後は残念な対応だったことも書きました。
司馬炎が最期まで頑張ろうとした場合、エネルギーが分散して、中国統一が遠のいた可能性もあるでしょう。
三国志の終盤の賢者と言えば、司馬昭と述べられるので、三國志の終わりごろに興味がある人にもおすすめな人物です。