三国志の街亭の戦いは、蜀漢にとって最後のチャンス、と言うべき戦でした。
諸葛亮は街亭の戦い前夜に、出師の表という歴史的な名文を残したのです。諸葛亮は、弱燕を救った楽毅のような活躍が、出来るのでしょうか。
そして、街亭の戦いと劉備の夷陵の戦いの関係も、述べていきます。蜀漢は街亭の戦いで、劉備を超える存在感を示せたのでしょうか。
また街亭の戦いで、蜀漢の馬謖が勝っていたらどうなっていたかも、説明していきます。蜀漢は小国なので、一度の負けも許されないのでしょう。
他にも、街亭の戦い近辺で起きた、曹真と趙雲の衝突も書いていきます。魏には、張郃と司馬懿以外にも、名将が多いのでしょう。
三國志の街亭の戦いを解説していきます!
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目次
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諸葛亮は出師の表で春秋戦国時代の楽毅のように街亭の戦いで魏に勝利する決意を述べたのです
三国志の街亭の戦いの前夜、かつて楽毅が強大な斉国を滅亡寸前に追い込んだように、諸葛亮は強力な魏に勝つ意気込みを語りました。
そして、楽毅の主君昭王の燕は、斉から滅ぼされかけたこともあったのです。
昭王は、人材を非常に厚遇する手法で、楽毅らの名臣を獲得し、斉への報復のチャンスをうかがっていました。
また斉は確かに強国でしたが、他国に高圧的な言動を行っていたので、敵も増えていたのです。
燕の昭王は、楽毅に斉を憎む国々の連合軍を統率させ、斉を破りました。
諸葛亮は、楽毅(がくき)が強国斉に勝利したように、街亭の戦いで魏に勝ち、燕のように漢を復興させる決心を、出師の表で主張したのです。
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劉備が夷陵の戦いで陸遜に大敗していたため諸葛亮と馬謖の街亭の戦い出陣は魏にとっても予想外でした
三国志の街亭の戦いは、蜀漢の馬謖たちを侮っていた魏を、非常に動揺させたのです。
魏の武将たちは、劉備のカリスマ性があったからこそ、蜀漢が成立していたと考えていました。
その劉備が、夷陵の戦いで、無名なはずの陸遜に敗れたので、魏の人々は安心していたのです。
そして街亭の戦いの最中、魏領の多くが、蜀漢の馬謖と諸葛亮陣営に鞍替えし、後の大将軍姜維も蜀漢に降伏しました。
また、文皇帝曹丕に厚遇されていた孟達も、蜀漢に寝返ろうとしましたが、これは司馬懿に察知され、即座に最後を送られたのです。
馬謖と諸葛亮の街亭の戦いは、劉備玄徳(りゅうびげんとく)だけを高評価していた魏の武将たちを、畏怖させるのに充分な軍事行動でした。
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諸葛亮は街亭の戦いで呉懿と魏延ではなく馬謖を司令官としたのです
三国志の街亭の戦いで諸葛亮は、腹心の馬謖に功績を与えるために、歴戦の勇将を差し置いた人事を行いました。
蜀漢は夷陵の戦いで、多くの有能な将兵を失っていたので、諸葛亮は優秀な馬謖をもっと活躍させようとしたのです。
それに街亭の戦いは、蜀漢が防御をしっかり固めれば、大軍勢でも攻略が難しいと言われていました。
街亭の戦いは結局蜀漢の大敗となりますが、諸葛亮からすると、馬謖に簡単な軍務から慣れさせてあげよう、と考えていたのかもしれません。
街亭の戦いで、呉懿子遠(ごいしえん)と魏延よりも馬謖幼常(ばしょくようじょう)を重用することで、諸葛亮は夷陵の戦いの敗戦を乗り越えようとしていました。
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街亭の戦いで諸葛亮と馬謖が勝っていたら魏延の長安攻めが行えたでしょう
三国志の街亭の戦いで蜀漢が勝利していたら、魏延が前漢の三傑国士無双韓信のように、長安攻略を成功させていたのではないでしょうか。
そもそも街亭の戦いでは、諸葛亮と馬謖と王平が、要害を押さえていたため、守りを重視していれば、魏の張郃と司馬懿でも勝利は難しい戦でした。
それに、張郃と司馬懿が馬謖と王平に手こずっていた場合、魏延が長安奇襲を行うチャンスが到来したでしょう。
魏延が長安占領を成功させれば、馬謖王平と連携し、張郃と司馬懿を包囲する可能性も、あったのではないでしょうか。
街亭の戦いで王平と馬謖が勝っていたら、魏延文長(ぎえんぶんちょう)が長安を急襲し、張郃と司馬懿を討てたかもしれません。
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王平は街亭の戦いで空城の計を用い張郃の撤退を誘ったのです
三国志の街亭の戦いは、馬謖が登山を強行したことで、蜀漢の総崩れとなりましたが、王平が虚勢で張郃に疑心暗鬼を発生させ、被害を減らしました。
王平は、馬謖が登山することに強く反対していましたが、馬謖は登山をすれば張郃に勝てる、と信じていたのです。
そして馬謖は、王平の予測通り、張郃に敗れましたが、王平は張郃軍を威圧することで、作戦があると思わせました。
張郃は名将なので、街亭の戦いで馬謖に簡単に勝てたことを、疑っている面があったからでしょう。
街亭の戦いは、張郃が馬謖に圧勝しましたが、王平子均(おうへいしきん)が攻撃の構えを見せていたことで、張郃儁乂(ちょうこうしゅんがい)の退却を引き出せました。
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街亭の戦い付近で虎豹騎曹真は五虎大将軍趙雲に勝利したのです
三国志の街亭の戦いに呼応し、蜀漢に鞍替えした領域を制圧するために、魏の虎豹騎曹真も出撃しました。
曹真は超世の傑曹操の一族で、かつて虎を上手く討ったことがあったので、虎豹騎を率いていたのです。
そして諸葛亮は、街亭ルート以外の進軍ルートも用意しており、五虎大将軍趙雲に別動隊を統括させました。
また曹真は、後に諸葛亮の攻撃を予測し、上手く守ったのです。諸葛亮に対抗し得たのは、司馬懿以外には曹真でしょう。
虎豹騎曹真子丹(そうしんしたん)は、街亭の戦い付近で名将趙雲子龍(ちょううんしりょう)を負かしただけでなく、後に諸葛亮の進軍を読み切り、巧みな防衛戦を展開しました。
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曹叡は街亭の戦いに劉備も恐れていた張郃と司馬懿を派遣しました
三国志の街亭の戦いでは、定軍山の戦いで勇将夏侯淵に最後を与えたにも関わらず、劉備が重要視していた張郃が、出撃したのです。
張郃は、官渡の戦いで袁紹から曹操に鞍替えして以来、魏の名将と評価されていました。
歴戦の名将張郃を明皇帝曹叡が、選んだということは、街亭の戦いが魏にとっても、非常に重大な戦であったことを意味するでしょう。
そして張郃は、街亭の戦いで馬謖に勝利しますが、後の北伐で諸葛亮に最後を与えられたのです。
街亭の戦いには、官渡の戦い以来曹一族に仕えていた、名将張郃と司馬懿仲達(しばいちゅうたつ)も出陣し、諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)の腹心馬謖に勝ちました。
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まとめ:三国志街亭の戦いの勝っていたらを考察と諸葛亮孔明の北伐出師の表
三國志の街亭の戦いで、馬謖が大敗した経緯を解説してきました。ただ、馬謖が指揮官でなければ、本当に街亭の戦いで、勝利出来たのでしょうか。
そして、馬謖と諸葛亮の街亭の戦い出撃を、魏が大変憂慮したことも説明してきました。魏は、蜀漢が戦わずに降伏する可能性を、検討していたのかもしれません。
また、魏の重要拠点長安攻略と、街亭の戦い勝利が密接、だったことも語ってきました。蜀漢は国力が乏しいので、奇策に次ぐ奇策が、なければならないのではないでしょうか。
諸葛亮が、楽毅な決意を出師の表で示したにも関わらず、街亭の戦いで敗れたため、蜀漢はすでに天意を失っていたと言えるかもしれません。