劉邦の部下の前漢の三傑のひとりに、韓信がいます。劉邦の家臣はたくさんいますが、韓信は最強と言える将軍なのでしょうか。
偉人と呼ばれることの多い韓信も、若い頃はニートだったといううわさがあるのです。どのようなニートで、どうやって飛躍したのでしょうか。
そして、韓信の性格も論じていきます。大将軍を務めて大勝利を得てきた韓信は、果たしてすごい性格なのでしょうか。
韓信の妻や子孫や最期も解説しています。大将軍の最期は、さぞやすごい終わり方なのでしょうか。
他にも韓信と関係の深いことわざも書いています。賢さをアップさせたい人にも役立つことわざ情報でしょう。
劉邦の部下の韓信について興味がある人は、ぜひ最後まで読んでみてください!
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劉邦の部下韓信は国士無双!奇策暗渡陳倉
劉邦の部下の韓信は、国士無双と呼ばれており、国士無双とは、双が無いですから、二人以上いないほどの国士という意味です。
劉邦が天下を取る前の時代、秦の天下に不満のある人々が、陳勝呉広の乱を起こしました。
その乱を鎮圧したのが、秦国の章邯(しょうかん)だったのです。
その後、項羽が秦国を滅ぼし、章邯も項羽軍に加わりました。
また、劉邦は項羽の軍師の范増から警戒されていたため、辺境に飛ばされていたのです。
劉邦軍の韓信は、中央に続く桟道を整備していたのですが、整備までにかなり期間がかかると考えられていました。
これこそ韓信の罠で、劉邦の領域から近くを守っていた章邯を桟道と別の道から攻撃し、打ち負かしたのです。
劉邦の家臣の韓信は、別の思惑を隠して惑わし真の目的を達する暗渡陳倉の兵法で、章邯に勝利した国士無双と言えます。
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劉邦の家臣の中で韓信が最強?
劉邦の家臣の韓信は、わずか数万の味方で、十数万の敵軍を打ち負かしました。
川を背にして陣取るいわゆる背水の陣で、大勝利を得たのです。
韓信が戦った陳余(ちんよ)は、大軍を擁していたこともあり、始めは韓信の背水の構えを侮り、韓信を兵法を知らない人物と考えていました。
背水により逃げ道が無い事は、一見不利に見えますが、韓信の軍勢の多くが最近韓信の軍に加わったものたちだったことに、注目すべきでしょう。
新兵たちが、普通に大軍と戦うとやられると思い、逃げたり降参したりすることが考えられるという意味です。
背水によりただの新兵たちは、敵を突破するしか無くなったため、必死に戦い韓信に勝利をもたらしました。
前漢の三傑のひとりの韓信は、背水の陣という奇計で、劣勢から勝利を得たので、最強と言えるでしょう。
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ニートから大将軍な偉人になった韓信逸話
劉邦の部下韓信は、若い時は物乞いのようなニート生活を送っていました。
- 韓信の感情を優先した大事を失う性格
- 国士無双最強な大将軍韓信の子孫と妻の最期
偉人としての韓信しか知らない人は、驚くべき事実かもしれません。
そして韓信は、ニート生活の際にお世話になった人々に、出世した後お礼をしています。
ニート時代に家に居させてもらっていたある人から、韓信は最期追い出されたのですが、その者には、途中で止めたとして、わずかな褒美だけを与えました。
また韓信は、追い出された後に困っていると、食べ物を恵んでもらえたのですが、その人には、死を救われたと感じたからか大量の褒美をあげたのです。
出世した後にお礼をするというのは、成功する上で重要な要素なのかもしれません。
後に国士無双と呼ばれる韓信も、青年の際は、人に世話をしてもらうニートな人生でした。
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韓信の感情を優先した大事を失う性格
劉邦の部下の韓信は、情に流されて失敗しやすい性格と言えます。
韓信は、結局は漢帝国で処刑されるのですが、劉邦から独立して王として対抗するチャンスがあったのです。
ですが、韓信は劉邦からの恩義にこだわって、将来自らが危険視され処罰されることの対処を怠りました。
また、若い時にお世話をしてくれた人々にお礼をしたのですが、家にいさせてくれた人は、途中で止めただけであまり褒美をあげなかったのです。
これも、最期の感情で物事を判断している性格の根拠と言えるでしょう。
韓信は、戦においては最強と述べられますが、処世術には難アリと書けます。
韓信は感情的な性格で、論理的に物事を判断していないと述べられますが、国士無双な大将軍として大活躍しました。
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国士無双最強な大将軍韓信の子孫と妻の最期
大将軍として大勝利を収めてきた韓信も最後は、謀略で親族たちと共に処刑されましたが、子孫が残っていると言われています。
韓信は、天下が劉邦の元で安定してきた際、韓信は元は敵将であった人物を匿ったとして、処罰を受けてしまいました。
そして、韓信はどんどん追い込まれていき最終的には、劉邦に謀反を起こしていくのです。
元々韓信が大出世したのは、前漢の三傑の蕭何(しょうか)の引き立てによるものでした。
ですので、韓信は蕭何だけは信頼している面があったのです。
蕭何は、韓信に謀反の責任を取らせるため、謀略で韓信を捉え、処刑しました。
その際に、かなり年少の子供が一人助けてもらえたとされています。
劉邦の部下の凄い将軍の韓信は、親族たちと共に悲惨な最期を遂げましたが、助けてもらえた子孫もいると言われているのです。
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最強な国士無双韓信の他の話
劉邦の部下の韓信について、他にも知っておくべき話もしていきます。
- 股くぐり韓信とあだ名される韓信のことわざ
- 大将軍として飛躍した韓信の悲しい名言
韓信クラスの偉人になると、生き様がことわざになることもあるのです。忍耐強さを評価する人は多いですが、まさに韓信も忍耐で大業を成したと言えます。
日本でいうと、人質から天下人となった徳川家康に近いと述べられるでしょう。
家康は政治力もかなり高いので、韓信も政治を習得しておけば、終わりを全う出来たのかもしれません。
また、韓信には覚えておくべき名言もあります。旬が過ぎるという言葉が存在しているように、大将軍の韓信の旬である戦が終わりを迎えて来ると・・・
いにしえの名将韓信について、他にも把握しておくべき内容をお知らせしていきます。
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股くぐり韓信とあだ名される韓信のことわざ
韓信は、若い時に威張っていたので、若者に絡まれて、股の下をくぐらされました。
絡んできたのは相手なので、やっつけることも可能でしたが、あえて恥を忍んで将来のために我慢したのです。
ちなみに、韓信は大出世した後に、絡んできた者を呼び出して、その勇敢さを評価し役職に就けました。
韓信は、人を処罰するよりも、評価する事を優先する性格だったのでしょうか。
そして、韓信は股くぐりをしたとして、敵からも侮られることが多かったのです。
古来から戦で敵を過小評価して敗れた事例も多々あり、韓信は若い時の屈辱により、戦での有利を得ていました。
劉邦の部下の韓信は、股くぐりをさせられる屈辱を乗り越え、国士無双大将軍へと成長していったのです。
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大将軍として飛躍した韓信の悲しい名言
韓信は、将軍としては重宝されましたが、戦が減ってくると処刑されたので、狡兎良狗(こうとりょうく)の典型と言えるでしょう。
そもそも劉邦は、覇王項羽に連戦連敗で、大将軍に韓信が就任しなければ、項羽に勝てなかった可能性が高いのです。
にも関わらず、韓信に謀反の嫌疑をかけ心理的に追い込み処罰してしまいました。
ただ、実は韓信は、処刑されずに劉邦に対抗し得るチャンスがあったのです。
韓信の参謀を蒯通(かいとう)と言うのですが、劉邦との関係性が今後変化することを予見し、天下を劉邦と項羽と韓信で分ける策を提案しました。
こうすることで、韓信が大将軍として自らの強みを長く活かせ、狡兎良狗されずに済んだでしょう。
飛ぶ鳥がいなくなると良い弓もしまわれるように、韓信は戦の減少で、厚遇されなくなっていきました。
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まとめ:劉邦の部下の最強将軍韓信!
劉邦の部下の有能な大将軍韓信の活躍を解説してきました。あなたも熱くなれるエピソードは、ありましたか?
最強な韓信も若い頃はくすぶっていて、人に恵んでもらっていたことも説明してきました。今困難な状況の人も、将来は韓信のように大成する可能性はあるでしょう。
情に厚過ぎる韓信の性格も記載しました。今までの感情だけでなく、将来のことまでしっかりと考えられてこそ、真の名将なのでしょう。
韓信と子孫たちが、あえない最期を迎えたことも述べました。たとえ大将軍になったとしても、身を慎まなければ、最期までセーフとは言えないのでしょう。
韓信のことわざや名言も書きました。明日から使える名言かもしれません。大プロジェクトが迫っている人は、早く習得しておいてください。
韓信は、いにしえ武将の中でも浮き沈みが激しい人物なので、かなり興味深いでしょう!