三国志の諸葛亮が、劉禅から信任され北伐を続けられたように、李牧も名君に出会えていれば趙を存続させられたでしょう。
李牧は、匈奴に良い対策を行っていたのですが、傍からは無能に見られていました。一度痛い目を見た趙王は、再度李牧を将軍としたのですが、結果はどうなったのでしょうか。
そして大将軍李牧が、秦軍に何度も勝利したことも説明していきます。趙にはかつて趙奢や廉頗がいましたが、李牧は二人の後継者と呼べるでしょう。
また、王翦は李牧になかなか勝てなかったので、奥の手を出したのです。李牧も手段を選ばずに、秦軍と戦っていれば、王翦を謀殺出来たのではないでしょうか。
李牧と三國志を詳しく解説していきます!
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目次
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匈奴と趙王から意気地なしだと誤解された李牧は蒙恬の万里の長城建造前だったため本気な奇陣で大勝利を獲得しました
李牧は、蒙恬が万里の長城を作る前だったので、匈奴対策として住民を退避させていたのです。
しかし、趙の国民を考えた良策だったのですが、匈奴だけでなく趙王からも弱気だと思われてしまいました。
そして、趙王は李牧から別の武将に変更しましたが、匈奴から大ダメージを受けてしまったのです。
ですので、李牧が再度匈奴対策に任命され、今度の李牧は、匈奴を複雑な奇陣で打ち負かしました。
ちなみに匈奴は後に、冒頓単于が出現し、中国を統一した前漢の高祖劉邦と戦い、大勝したのです。
李牧は、匈奴への対応で趙王から侮られていましたが、蒙恬(もうてん)の万里の長城が無くとも、異民族に襲撃されないほどの実力を、匈奴に示しました。
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王翦は楚攻略の際に李信以下とされたため李牧が匈奴戦で再登用された時と同様に自宅に引退していたのです
李牧は、匈奴からの攻撃を減らすために、住民を退避させていましたが、趙王から非難されたので、自宅に戻っていました。
王翦も、楚を占領し大将軍の項燕に勝つには、60万の軍勢が必要と述べたのですが、始皇帝は李信の20万の軍勢の案を採用したため、自宅で静養していたのです。
そして李牧も王翦も、予測通り前任者が失敗したため、再度将軍に任命され見事大役を果たしました。
どのような主君も、一度失敗すると、誰が正しかったか実感出来るものなのでしょう。
李牧は、残念ながら弱国の名将だったので、悲惨な最期でしたが、王翦(おうせん)は強国秦にいたので、栄光を獲得したまま死亡出来たのです。
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肥下の戦いで桓齮(かんき)に勝ち番吾の戦いで秦王嬴政に勝利した最強な李牧は武安君となりました
李牧は、平陽の戦いで趙に大勝した桓齮を打ち破り、趙の衰退を食い止めたのです。
桓齮は、李信や王翦と並び評されるほどの名将なので、李牧の勝利に趙は歓喜しました。
また、趙は趙括が長平の戦いで白起に大敗したことで、弱体化していたため、李牧の登場で趙が一気に強国化したと言えるでしょう。
そして番吾の戦いでも、李牧が秦の大軍に勝ったため、李牧によって春秋戦国時代の勢力図は大きく変更されたのです。
かつて趙には武霊王がおり、胡服騎射で秦を圧倒したので、軍事力で秦に勝つのは趙の伝統なのかもしれません。
李牧は、趙括(ちょうかつ)の長平の戦いの敗北以来、国力が衰えていた趙国に、名将桓齮(かんき)への勝利と番吾の戦いでの勝ちをもたらした、最強将軍でした。
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西楚の覇王項羽の祖父項燕に勝利した最強な王翦でも勝つのが難しかった李牧の強さと死亡
李牧は、藺相如との刎頸の交わりで有名な廉頗の再来、と言うべき強さを誇っており、王翦でも苦戦したのです。
ですので、秦王嬴政は趙の郭開に多額のお金を与えることで、趙王と李牧を不和としました。
そして李牧の秦への連戦連勝は、嬴政だけでなく趙王をも畏怖させており、幽繆王は李牧を無理に死亡させたのです。
幽繆王は一時の大権に酔いしれていると、王翦軍が攻め込んで来たため、敗北し趙は滅ぼされました。
ちなみに、郭開は名将廉頗が趙に帰還しようとしていた時も、妨害工作を行い趙の衰退を促進したのです。
李牧は、項燕(こうえん)に勝った王翦を跳ね返しましたが、秦に買収された郭開(かくかい)から最後をもたらされ、趙も王翦に滅亡させられました。
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戦国四大名将は李牧と王翦と白起と廉頗であり趙と秦の大将軍たちを指します
李牧は、後世廉頗と白起と王翦に比肩する大人物、と称されていたのです。
そして廉頗と王翦は、誅殺されていませんが、白起と李牧は王権に逆らって最後が来ました。
そもそも有能な大将軍は、敵から恐れられるわけですが、味方からも功績で畏怖されてしまうのです。
なので、劉邦の大将軍だった韓信も、後には粛清され、韓信は天下三分の計を使わなかったことを悔みました。
ちなみに、三国志で諸葛亮は劉備に、天下三分の計を進言することで、劉備は蜀漢の皇帝に就任したのです。
李牧は、白起(はくき)と王翦と廉頗(れんぱ)と共に戦国四大名将と評価され、他の大将軍と同じように主君から警戒され、粛清な最後でした。
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郭開の幽繆王への誹謗中傷を防げなかった李牧は政治においては無能と言えるかもしれません
李牧は、かつて白起が長平の戦いに大勝していながら、宰相范雎に最後に追い込まれたのと同じ末路、となりました。
郭開に讒言された趙王からの解任命令を、李牧は将来の趙のために拒絶したのです。
しかし李牧は、幽繆王から無理やり捕えられ斬られました。
そして、春秋の五覇闔閭の息子の夫差が、越王勾践に甘かったため、伍子胥は諫言し続けましたが、結局伍子胥は夫差王に死亡させられたのです。
名将は、名君かどうかを判断する見識を持つことも、重要なのでしょう。
李牧は、大国秦に連戦連勝するほどの名将でしたが、郭開の強欲な策への対策に失敗し、白起や伍子胥(ごししょ)と同じような死因を迎えました。
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李左車は李牧の子孫で国士無双韓信に勝ち得る策を陳余に示しました
李牧は悲劇な名将でしたが、孫の李左車も、陳余に策が採用されず憂き目を見たのです。
前漢の三傑の韓信は、劉邦から趙攻めを命じられていたにも関わらず、陳余よりもかなり少ない軍勢でした。
しかし陳余が、李左車から献策された、狭い地形を利用する作戦を使わなかったのです。
韓信は、陳余が良策を用いなかったことを喜び、背水の陣で自軍を奮い立たせ、陳余の大軍に勝利しました。
兵法で有名な孫子も、兵は詭道なりと述べているので、陳余の方が兵法への理解が浅かったと言えるでしょう。
李牧の末裔の李左車(りさしゃ)は、陳余(ちんよ)が韓信(かんしん)に勝てる策を提供しましたが、陳余は韓信を侮り背水の陣で敗れたのです。
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まとめ:史実の李牧(りぼく)はかっこいい最強と三国志と万里の長城な強さと王翦で最後死亡
李牧が、どれくらい最強な武将だったかを解説してきました。秦に李牧が鞍替えしていたら、中華統一後も生き残り、趙高の悪政や陳勝呉広の乱を防げたかもしれません。
そして王翦と李牧が、策が不採用だった際に、自宅に戻っていたことも説明してきました。認められなかったら、すぐに身を引くのが、生き残るコツなのでしょう。
また、廉頗と白起と王翦と李牧が、戦国四大名将と高評価だったことも、述べてきました。特に王翦は、始皇帝から師だと思われていたほどの大将軍なので、別格と言えるのではないでしょうか。
李牧は、法治で大国化した秦軍にも勝利した、最強な強さを持っていた大将軍だったのです。