孟嘗君と三国志!鶏鳴狗盗故事、食客函谷関、どんな人?性格も解説

三国志の学識豊かな薛綜は、春秋戦国時代の孟嘗君の子孫なのです。

孟嘗君は、鶏鳴狗盗の故事成語でも有名な戦国四君のひとり、と伝わっています。どのような食客が、本当は使える人物かは、判別が難しいのでしょう。

そして、秦王の変わり身の早さに翻弄された孟嘗君は、食客が活躍したことで生き延びられました。いろいろな食客がいると、どのような難事が起きてもセーフ、なのでしょう。

また、孟嘗君の身長と性格のエピソードも述べていきます。身長と戸の高さで最後がもたらされる状況が、春秋戦国時代にはあったのです。

他にも、函谷関で秦に勝利した孟嘗君の戦いも説明していきます。孟嘗君は、食客を集合させたように、各国の軍隊も上手く集合させたのでしょう。

孟嘗君と三國志を詳しく解説していきます!

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一見無駄に見える技能を有していた食客が孟嘗君に上手く貢献したので鶏鳴狗盗の故事が誕生したのです

秦の昭襄王に高評価され宰相になれる予定だった孟嘗君は、直前になって反故にされたので、危難に陥りました。

結局孟嘗君は、斉の人なので、秦の宰相に就任しても斉のメリットを優先してしまうのではないか、と主張する者がいたのです。

そして、たくさんの食客を平等に待遇していた孟嘗君には、コソ泥の達人もいました。

昭襄王の愛人が実は、孟嘗君が持参し秦王に提供した最高級の毛皮を欲しがっていたので、食客のコソ泥に盗ませ愛人にあげたのです。

困難な状況では手段を選ばず、まずは生き残るべきなのではないでしょうか。

孟嘗君は、食客を皆公平に待遇していたため、コソ泥に長けた人物もおり、危機に直面した際に鶏鳴狗盗(けいめいくとう)を発揮しました。

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狡兎三窟を食客の馮驩が提案したことで孟嘗君は盤石の体制を築いたのです


食客の馮驩は、孟嘗君が薛ばかり重視し、逃げ道が少ないことに気付いていなかったため、二つの窟を付け加えさせました。

魏王に馮驩が、孟嘗君がどれくらい優れた人物かを宣伝したので、魏の恵王は三顧の礼で招こうとしたのです。

ですが、馮驩は斉の湣王にも、孟嘗君の凄さを主張していたため、結局孟嘗君は斉の宰相に落ち着きました。

更には勢いに乗り、斉の湣王から食客の馮驩は、孟嘗君が薛に宗廟を建設する許しも獲得したのです。

斉には湣王がいたわけですが、孟嘗君は王に匹敵する実力者に、なれたのではないでしょうか。

孟嘗君は、食客の馮驩(ふうかん)の狡兎三窟(こうとさんくつ)の策により、薛と斉の宰相と宗廟を確保し、安眠環境を整えました。

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秦の昭襄王が愛人に惑わされている隙に函谷関に到着し孟嘗君は再び鶏鳴狗盗で脱出したのです

孟嘗君は、秦の国境の函谷関まで逃げられましたが、朝の開門まで時間があったため、食客の鶏の鳴き真似の達人が一計を案じました。

食客の鶏の鳴き声が響くと、本物の鶏も鳴き出し、とうとう開門されたのです。

そして孟嘗君の食客たちも普段は、コソ泥の達人と鶏の鳴き真似の達人を無用な技能として蔑んでいましたが、孟嘗君を助けたので、再評価しました。

ちなみに、食客を公平に待遇することを重視していた孟嘗君の手法は、鶏鳴狗盗を孟嘗君の死後薛で繁栄させることにも、貢献したのです。

孟嘗君は鶏鳴狗盗の精神を有していたため、函谷関から逃亡する際に、鶏の鳴き真似の達人の助けを得られました。

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馮驩は孟嘗君が斉の湣王から警戒され解任された際に前よりも褒美を与えさせたのです


孟嘗君は、食客を鶏鳴狗盗で上手く厚遇していたので、斉の湣王から勢力を危惧され宰相を罷免されました。

そして食客の馮驩は、秦に有能な孟嘗君を採用するように主張し、馬車の迎えをよこさせ、斉の湣王には孟嘗君が秦で登用される危険性を語ったのです。

すると斉の湣王は、孟嘗君を再度宰相に任命しただけでなく、更に領地も増やしてあげました。

馮驩の作戦は、災い転じて福となし、雨降って地固まるな策と言えるでしょう。

孟嘗君は、多くの食客を集め勢力を誇っていたため、斉の湣王から警戒され宰相でなくなりましたが、食客の馮驩の弁舌で、宰相に復帰出来ただけでなく領土の加増も獲得したのです。

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孟嘗君は食客を平等に厚遇し人から身長を非難されただけで最後を与えるような性格でした

孟嘗君がどんな人かというと、公平感を重視し身長の高さすら気にする尊大さを兼ね備えた人物、と言えるでしょう。

そもそも孟嘗君は5月5日に誕生し、身長が戸口の高さを超えると親に最期をもたらす、と見なされていました。

しかし母親は、孟嘗君を憐れんで成長させ、父親に会わせると、孟嘗君は戸を高くして欲しいと主張したのです。

また、趙の人々に侮られるほど孟嘗君の身長が高くなかったのは、戸の高さを超えないためだったのかもしれません。

そして、五月五日に生まれただけで差別されたため、孟嘗君は平等を愛する性格になったのではないでしょうか。

孟嘗君は、生まれで差別されたことで食客に平等待遇を与え、戸の高さを警戒していたため、趙人から侮辱されるほどの低身長だったのでしょう。

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三国志の薛綜は孟嘗君の子孫であり費禕に呉を天子の居城と述べたのです

孟嘗君の末裔の薛綜は、楊儀と魏延に上手く対処していた費禕に、呉の漢字は口と天の融合なので、呉は天子の大都市と主張しました。

そして薛綜は、赤壁の戦い前夜に諸葛亮が呉に乗り込んで来た際には、あまりにも孔明の論戦が強すぎて敗北したのです。

諸葛亮と呉の軍師周瑜が連携し、乱世の奸雄曹操に赤壁の戦いで勝利したため、薛綜の負けは結果的には良かったのかもしれません。

三国志の薛綜敬文(せつそうけいぶん)は、戦国四君のひとり孟嘗君の末裔で、諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)には論戦で敗れましたが、費禕文偉(ひいぶんい)には呉の漢字から呉が天子の首都であると語り、称賛されました。

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秦の昭襄王に不意に約束を反故にされ最後を送られそうになったため孟嘗君は合従軍で函谷関を攻撃しました

孟嘗君は、魏と韓と斉を連合させることで、強大な秦に函谷関の戦いで勝ったのです。

韓と魏は領土を拡大させ、斉と孟嘗君は名声を獲得しました。

しかし後年秦には、大将軍の白起が現れ、伊闕の戦いで魏と韓に報復したのです。

また白起は、長平の戦いで趙括の大軍に圧勝し、かなりの人数を生き埋めにしたことでも知られています。

ただ白起大将軍は、政治は不得手だったため、范雎と昭襄王から疎んじられ最後を送られたのです。

ちなみに、長平の戦いでも范雎が、趙の将軍を趙括に変更させる奇策を行ったので、白起の勝利が訪れました。

孟嘗君は、秦の昭襄王が虎狼の国の本領を発揮し、宰相の約束を簡単に破棄したため、函谷関の戦いで打ち負かし魏と韓にも領土を与えたのです。

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まとめ:孟嘗君(もうしょうくん)の性格はどんな人?と三国志と食客の鶏鳴狗盗と函谷関故事

孟嘗君が平等思想を持ちながらも、苛烈な性格だったことを解説してきました。公平過ぎると鶏鳴狗盗な人物が増加し、他の人材が重用され難い、という弊害もあるでしょう。

そして食客の馮驩は、孟嘗君を安泰にするために、狡兎三窟の策を展開したことも説明してきました。

孟嘗君がいつも食客を大事にしていたからこそ、馮驩のような賢者と知り合えたのではないでしょうか。

また三国志の薛綜が、孟嘗君の末裔だったことも記載してきました。薛綜も、孟嘗君のように食客を何千人も集めていれば、諸葛亮にも勝てたかもしれません。

孟嘗君は、鶏鳴狗盗な食客で戦国四君として名声を博し、函谷関の戦いで秦に勝ったため、食客の大事さが分かるでしょう。

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