戦国四君の孟嘗君田文が登場人物の鶏鳴狗盗は、一見大した能力でなくとも何かに貢献することがある、という意味の故事成語です。
そして孟嘗君は、食客を平等に扱うことで、鶏鳴狗盗な異才を集めていました。史記に偉業が残るほどの人物は、人材登用も特殊なのでしょう。
また、司馬遷が作者の史記でも孟嘗君は登場しており、巨大な影響力が見受けられます。孟嘗君が他の戦国四君としっかり組んでいれば、戦国四君が天下を得られたのではないでしょうか。
ちなみに、ことわざの鶏鳴狗盗の読み方は、ひらがなでけいめいくとうです。
鶏鳴狗盗を、漢文や書き下し文や白文原文ではなく、口語訳や現代語訳で、わかりやすく解説していきます!
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目次
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戦国四君の孟嘗君が昭襄王から最後を加えられそうになった際に助けた食客が盗人と声真似の達人だったことが鶏鳴狗盗の意味の由来です
秦の昭襄王は、大名声を得ていた孟嘗君を宰相にする予定でしたが、孟嘗君が斉の王族だったことが気掛かりでした。
ですので昭襄王は、孟嘗君を登用することを取り止め、後々の災いを無くすために、孟嘗君に最期を与えようとしたのです。
そして戦国四君の孟嘗君は、すでに献上していた極上の狐白裘を食客に盗ませ、昭襄王の愛人に渡し、秦から脱出しようとしました。
函谷関まで逃げましたが閉じていたため、孟嘗君の声真似の食客が鶏を演じ、孟嘗君は逃亡に成功したのです。
故事成語の鶏鳴狗盗は、戦国四君の孟嘗君田文を秦の昭襄王の魔の手から救った食客が、一見優れていない人材だったことに由来しています。
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昭襄王の元から鶏鳴狗盗で脱出した戦国四君の孟嘗君は函谷関の戦いで秦を脅かしました
孟嘗君は、昭襄王の変心により身を危険に晒されたため、魏や韓と合従し仕返ししたのです。
ですが、あまり秦に打撃を与えられず、後に韓と魏は白起大将軍に大敗北しました。
大人数の食客を集め、鶏鳴狗盗で更に有名になった孟嘗君は、戦いでも名声を獲得するに留まったのでしょう。
また白起は、長平の戦いで趙括に大勝し、趙の大軍を生き埋めにしたほどの大将軍でした。
ですので、魏と韓の将軍では、白起に勝つのは難しかったのでしょう。
故事成語の鶏鳴狗盗で、昭襄王嬴稷(しょうじょうおうえいしょく)から最後を与えられずに済んだ、戦国四君の孟嘗君田文(もうしょうくんでんぶん)は函谷関の戦いで秦に報復しましたが、あまり成果は来ませんでした。
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鶏鳴狗盗な特殊技能を持った食客を平等に礼遇していたことでも戦国四君の孟嘗君は名声を得ていたのです
孟嘗君は、食客を公平に対応していましたが、食事の待遇を疑う者がいたためしっかり確認させ、平等に厚遇していることを明示しました。
そもそも孟嘗君は、父親の田嬰から、5月5日に生まれたというだけで、戸の高さを超えると最後をもたらされる迷信に遭ったのです。
しかし田嬰に、戸を高くすれば良いと主張し、孟嘗君は才知を見せると共に命も得ました。
孟嘗君が食客への平等を重視したのは、迷信による差別を被っていたからではないでしょうか。
故事成語の鶏鳴狗盗な一芸を有した食客を、平等に厚遇することで、戦国四君の孟嘗君田文は人望を獲得するだけでなく、迷信な差別も打破しようとしたのでしょう。
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戦国四君の信陵君が安釐王から警戒されたように孟嘗君も湣王から鶏鳴狗盗な有能さを危惧されていました
秦の昭襄王から、宰相に迎えられるほどの偉人だった孟嘗君は、斉の湣王から常に危険視されていたのです。
ですので、孟嘗君は斉を脱出し、魏の宰相に就任しました。
そして湣王は、孟嘗君がいなくなり国力が低下したので、斉に恨みのある燕の昭王が楽毅が侵攻して来た際、防げなかったのです。
また楽毅は、斉のほぼ全域を占領しましたが、即墨と莒を無理には攻めず、斉の田単に反攻の機会を与えてしまいました。
しかし、楽毅が燕を救い昭王の雪辱を助けたことは、偉業だったため、三国志の諸葛亮も楽毅を敬っていたと伝わっています。
故事成語の鶏鳴狗盗で名を馳せた戦国四君の孟嘗君田文は、湣王に警戒されていましたが、湣王は、斉を憎んでいた燕の昭王に追い詰められたのです。
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史記の作者司馬遷は鶏鳴狗盗の故事を紹介するだけでなく戦国四君孟嘗君の食客重用が人々の暮らしにも残っていると記載しています
孟嘗君は、品行を問わず技能を重視したため、孟嘗君の拠点だった地域には、無頼の者が多かったと司馬遷も書いているのです。
秦は法律で違法を取り締まり大国化しましたが、孟嘗君は無頼漢を味方とすることで、秦に対抗したのでしょう。
ただ、無頼の者たちを一般人が扱うのは難しいため、孟嘗君の栄華は、一代で終わるものだったのではないでしょうか。
ちなみに、北宋の改革者王安石は、孟嘗君の鶏鳴狗盗な人材登用が、本物の鬼才を遠ざけてしまっていたと述べています。
故事成語の鶏鳴狗盗による戦国四君の孟嘗君田文の業績は、史記にも残っており、作者の司馬遷(しばせん)は孟嘗君の影響で、薛には無頼の者が多かったと述べているのです。
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戦国四君の孟嘗君の食客の馮驩は鶏鳴狗盗な人材ではなく司馬遷が作者の史記でも掲載されるほどの逸材だったのです
馮驩は、孟嘗君の借用書を破棄することで、人々から孟嘗君が、より一層信用される状況を作り出しました。
そもそも孟嘗君は、馮驩がしっかり借金取り立ててくれる、と考えていたのです。
しかし馮驩は、借金を取り戻せないだけでなく、借用書も焼いてしまいました。
当然孟嘗君は激怒したのですが、馮驩は借金を返せない人々を責め立てる害よりも、借用書を無くす得の方が大きいと語ったのです。
孟嘗君が、食客だけでなく人々からも慕われていたのは、馮驩の奇策があったからではないでしょうか。
故事成語の鶏鳴狗盗な食客を礼遇していた、戦国四君の孟嘗君田文の元にいた馮驩(ふうかん)は、無駄な借用書を破棄することで、人々からの信頼が孟嘗君に訪れるようにしました。
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宰相を解任された戦国四君の孟嘗君の元から鶏鳴狗盗な食客が去る中で馮驩は留まり孟嘗君を再度宰相に就任させ食客も再登用させたのです
馮驩は、孟嘗君に食客の道理を示すことで、食客がいなくなったことで恨みべきでない、と語りました。
孟嘗君は、馮驩の作戦で宰相に再任された際、食客が去ったことを憎んで、食客集めを拒んでいたのです。
しかし馮驩は、食客は孟嘗君が嫌いで退散したのではなく、孟嘗君が宰相でないから去っただけのことだ、と述べました。
孟嘗君が後世でも食客を重用した、と言われているのも、この時の馮驩の進言があったからでしょう。
故事成語の鶏鳴狗盗な食客を集めていた、戦国四君の孟嘗君田文が宰相を更迭されると、皆去りましたが、馮驩は残るだけでなく孟嘗君を宰相に再任させ、食客の道理を語り孟嘗君の恨みも解消させたのです。
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まとめ:鶏鳴狗盗(けいめいくとう)の故事意味と登場人物作者と孟嘗君問題とあらすじ現代語訳わかりやすく
戦国四君の孟嘗君田文の鶏鳴狗盗の意味を、原文白文や漢文や書き下し文ではなく、現代語訳とエピソードでわかりやすく説明してきました。
孟嘗君クラスになると、一見有能でない食客も、しっかり活躍させられるのでしょう。
そして孟嘗君が、鶏鳴狗盗な食客のおかげで秦から逃げることに成功し、昭襄王に上手く報復したことも解説してきました。
昭襄王は強国秦の王ですが、戦国四君には苦戦していたため、味方にしていれば中国統一も促進させられたのではないでしょうか。
また、鶏鳴狗盗な人材を優遇していた孟嘗君には、馮驩という食客がおり、孟嘗君の困難を解決したことも述べてきました。
食客を大切にしていた孟嘗君だからこそ、馮驩のような奇才から助けてもらえたのでしょう。
鶏鳴狗盗は、孟嘗君の生き方と食客への対応を、見事に表した故事成語ではないでしょうか。