故事成語の鶏口牛後は、縦横家の蘇秦が小国の韓王に、合従策を取らせたことが、大勢力の下よりも小勢力のトップが良い、という意味の例文で使われることが多い、由来です。
そして縦横家の張儀は、鶏口牛後を提示した蘇秦の合従策の対義語の連衡策で、秦の覇権を確立しました。
張儀が秦で宰相を務めていなければ、蘇秦の合従策で、秦が攻略されていた可能性もあるでしょう。
また三国志の劉備は、鶏口牛後な思想と後漢再興と仁義で、皇帝になったのです。長い期間、仁義と鶏口牛後な考えで醸成された劉備勢力は、定軍山の戦いで乱世の奸雄曹操の軍勢にも勝利しました。
ちなみに、鶏口牛後の読み方はひらがなで、けいこうぎゅうごです。
ことわざの鶏口牛後を漢文や書き下し文ではなく、現代語訳で意味もわかりやすく解説していきます!
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目次
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縦横家の蘇秦は小国でもトップであるべきという意味の鶏口となるも牛後となるなかれと力説し韓王を戦国七雄の六国と合従させました
蘇秦は、戦国七雄の中でも小国の韓を合従に傾かせるために、ことわざの鶏口牛後を語ったのです。
韓は確かに戦国七雄の中で弱国ですが、長年国が存続しており、他に六国が存在しているので、上辺の力関係だけでは結果は決まらない国際情勢でした。
そして韓には、申不害が現れ法家思想と術で韓を強国化させ、斉の孫臏と共に、魏の龐涓を馬陵の戦いで討ち取ったのです。
また、韓に韓非子が誕生し、際立った法治主義で秦の始皇帝嬴政からも礼遇されましたが、李斯から畏怖されあまり活躍出来ずに最後が加えられました。
故事成語の鶏口牛後は、大国に翻弄されていた戦国七雄の韓の王を、合従策に参加させるために、縦横家の蘇秦(そしん)が主張した話が由来です。
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ことわざの鶏口牛後を誕生させた縦横家蘇秦は弁舌が極まり反逆者として最後を迎えたのです
蘇秦は、巧みな話術で六国を掌握していましたが、敵も同時に出現させてしまっていました。
刺客に襲撃された蘇秦は斉王に、燕に内通し反乱した人物が蘇秦である、と触れ回ることを求めたのです。
すると刺客が、許されると騙され名乗り出たため、斉王は蘇秦の仇討ちに成功しました。
しかし実は、蘇秦は燕のために斉を利用しており、斉王をも死後に操ったのです。
ちなみに燕は、斉から壊滅的な打撃を与えられた際、昭王が先ず隗より始めよで賢者を集め、逆に斉を滅ぼす直前にまで追い詰めました。
故事成語の鶏口牛後と合従策で名声を博した縦横家蘇秦は、最後にも権謀機変を発揮し、自分が燕に味方していることを隠し、襲った刺客を斉王に始末させたのです。
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縦横家蘇秦の鶏口牛後な合従策の対義語である連衡策を張儀は展開し秦を強国化させました
ことわざの鶏口牛後で蘇秦は、合従策が成功し秦を孤立させましたが、縦横家の張儀は連衡策で秦を助けたのです。
蘇秦の合従策は、秦を15年ほど函谷関内に閉じ込めましたが、戦国七雄の利害得失は複雑でした。
ですので張儀は、蘇秦が国を売買しているだけで信頼出来ないことを、秦以外の国々に主張し、再度秦と同盟を締結させていったのです。
また張儀は、楚の懐王を巧妙な作戦で誘導し、籃田の戦いで秦軍に撃破させましたが、屈原は張儀の本質を見通していました。
故事成語の鶏口牛後で合従策を宣伝し、蘇秦は六国宰相となりましたが、張儀(ちょうぎ)は秦が大国であることを頼みとするだけでなく、蘇秦の縦横家としての問題点を指摘し、連衡策を成功させたのです。
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ことわざ鶏口牛後の由来の蘇秦の合従策と縦横家張儀の連衡策のどっちがいいかは状況によるでしょう
鶏口牛後で秦以外の戦国七雄をまとめ上げた蘇秦は、張儀の連衡策に敗北したため、一見連衡策が優れているように見えるのではないでしょうか。
しかし、秦を滅亡させた西楚の覇王項羽は、戦国七雄の子孫たちを味方として合従した上で、秦を占領したのです。
蘇秦が、秦を攻略出来なかったのは、秦が商鞅の法治主義で強国化し、有能な人材も多かったからでしょう。
また、項羽は亜父范増ほどには、劉邦の能力を見通せておらず、鴻門之会で劉邦に最期を与えなかったために、後に楚漢戦争の垓下の戦いで敗北し、天下を取られたのです。
故事成語の鶏口牛後により上手くいった蘇秦の合従策は、張儀の連衡策と秦に負けましたが、西楚の覇王項羽(こうう)は再度合従策を用い、秦王子嬰(しえい)に最後を加えました。
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三国志の劉備は超世の傑曹操や孫権に仕え続けず最終的には蜀漢の昭烈皇帝に即位したので鶏口牛後な考えではないでしょうか
劉備は長年放浪し続けましたが、大望を抱いた鶏口牛後思想により、荊州と益州を統治する立場に登り詰めました。
もしも劉備が、孫権や曹操の部下をし続けていたら、蜀漢の皇帝にはなれなかったのではないでしょうか。
ですので鶏口牛後思考は、仁義や漢帝室再興という大望がある場合だと、上手くいくのでしょう。
ただ劉備は、義兄弟の関羽や張飛と、桃園の誓いで深く結び付いていたため、夷陵の戦いで強引な復讐戦を行い、呉の陸遜に撃破されたのです。
故事成語の鶏口牛後な考えと、仁義による後漢再興の大志を併せ持った三国志の劉備玄徳(りゅうびげんとく)は、一時的に曹操孟徳(そうそうもうとく)の部下を務め孫権仲謀(そんけんちゅうぼう)から荊州を借りることで、蜀漢の昭烈皇帝に就任しました。
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宋の襄公は礼と仁で春秋の五覇となりましたが宋襄の仁で楚に大敗したため鶏口牛後な考えが災いしたと言えるでしょう
春秋の五覇の襄公の宋は、大国ではありませんでしたが、仁や礼を重んじる人物でした。
しかし、楚が川を渡っている時や陣形を完成させていない内に攻撃しない、礼や仁を過剰に重んじるやり方で、楚に大敗北を喫したのです。
大国楚よりも小さいにも関わらず、宋の襄公は、仁と礼による鶏口牛後な考えを、有していたのではないでしょうか。
また鶏口牛後とは、あくまでモチベーションアップに過ぎず、現実の世界では、実力で決着するものなのでしょう。
故事成語の鶏口牛後な思考と、過剰な仁や礼で春秋の五覇に就任した宋の襄公は、大国楚との戦でも宋襄の仁(そうじょうのじん)を発揮し、無残な末路となりました。
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鶏頭牛尾は故事成語の鶏口となるも牛後となるなかれの間違いの例文で使われることが多いです
ことわざの鶏口牛後と同じ意味で、鶏頭牛尾が使用されることがありますが、鶏頭牛尾は間違いと言われています。
大国の部下よりも小国の頂点を務めるべき、という意味の由来は、鶏口となるも牛後となるなかれだからです。
ただ鶏頭牛尾も、牛の尾よりも鶏の頭が良いという意味なので、鶏頭牛尾を何かの例文で利用しても、意味合いは理解されるのではないでしょうか。
そして、鶏口牛後の代わりに鶏頭牛尾を使う人が増えて来ると、将来的には、鶏口牛後の類語として鶏頭牛尾が挙げられるかもしれません。
故事成語の鶏口牛後は、鶏口となるも牛後となるなかれが由来なため、鶏頭牛尾の例文は間違いですが、意味は伝わるでしょう。
⇒蘇秦と三国志!鶏口牛後、合従策人物、故事名言、縦横家張儀も解説
まとめ:鶏口となるも牛後となるなかれの意味わかりやすくと鶏頭牛尾例文間違い?とどっちがいいと現代語訳であらすじ
縦横家の蘇秦が、鶏口となるも牛後となるなかれと語り、合従策を達成していったことを、わかりやすく解説してきました。
秦が商鞅の法家思想で強国化しても、他国にまだまだ蘇秦のような賢人がおり、秦が他国を思い通りに扱うのは難しかったのです。
そして、鶏口牛後を創り出し合従策を上手く展開した蘇秦は、話術が極まり、謀反人として生涯が終わったことも説明してきました。
六国宰相として、秦を函谷関から出られないようにしていた時期が、蘇秦の絶頂だったのでしょう。
また、鶏口牛後の間違いとして、鶏頭牛尾が使用されていることも、述べてきました。
鶏口牛後の正確な意味と由来を、今回の記事で把握しておけば、惑わされることはないのではないでしょうか。
故事成語の鶏口牛後は、蘇秦が合従策を成功させるために編み出した言葉なので、鶏口牛後策の成否は状況次第でしょう。