関羽と呂蒙!樊城の戦い、最後呂布、能力、曹操遷都、劉封孟達も解説

三国志の関羽の最後の武神な勢いと、呂蒙の策略は見逃せないでしょう。

呂蒙は、関羽が手強いと考えていたので、一計を案じました。関羽は武神な武将ですが、策略にはそこまで長けていない人物だったのです。

そして関羽は、魏の曹操軍との激戦中に、于禁の確保に成功しました。于禁は名将とされていたので、関羽の樊城の戦いでの勝利は、決まったも同然なのでしょうか。

また関羽は、部下の不手際に厳しく対処したので、むしろ窮地に陥ってしまいました。時と場所をわきまえなければ、処罰が仇となってしまうのでしょう。

他にも、関羽の最後が呂布と似ていることも、説明していきます。呂布は、人中の呂布馬中の赤兎と呼ばれる勇者でしたが、どこが関羽と共通しているのでしょうか。

三國志の関羽と呂蒙を詳しく解説していきます!

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呂蒙は兵法三十六計の笑裏蔵刀で関羽を上手く騙しました

三国志の関羽は、仁義と漢帝室再興のために、北方の魏の曹操に戦力を集中したかったのです。

そして関羽のいる荊州は、呂蒙の呉が貸しているいる地域に過ぎず、呂蒙は度々関羽に返還を求めていました。

また関羽は、武神なだけでなく仁義を重んじ、良い政治を行っていたので、呂蒙は真正面から荊州を取り戻すことは、難しいと考えていたのです。

呂蒙は、いつの日か関羽が油断した時に備え、上辺では関羽と親しく交流し、チャンスを待っていました。

関羽は尊大であるからこそ、後世から神と呼ばれるまでになったので、死後まで含めると、関羽が呂蒙に敗北したとは言えないかもしれません。

呂蒙は、関羽との親し気な笑顔の交流の裏に、荊州返還のための刀を隠していたのです。

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関羽は娘の関銀屏と呂蒙の主君孫権の子供の縁談を拒絶しました

三国志の関羽の娘関銀屏は、器量も良く外交上も大きい意味を持つため、孫権は息子と婚姻させたかったのです。

呂蒙の呉は、関羽たちに荊州を還させたかったのですが、なかなか還さないため、きっちり味方にしておこうと思いました。

孫権は呉の君主であり、関羽の主君劉備と同じくらいの立場と言えます。

関羽の娘と孫権の子供の縁談は、名誉なものであり、普通に考えると断る理由が無いのです。

しかし関羽は、呂蒙や孫権を大した人物ではない、と見下していました。

呂蒙の主君孫権仲謀(そんけんちゅうぼう)の息子と関羽の娘関銀屏との縁談は、非の打ち所がないように見えましたが、関羽は呂蒙たちを侮っていたので、了承しなかったのです。

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関羽が樊城の戦いで水攻めを行い于禁に勝利したので曹操は遷都を考えました

三国志の関羽が、曹仁の樊城を助けに来た勇将于禁を上手く降伏させたため、曹操は非常に動揺したのです。

曹操は遷都を悩みましたが、軍師の司馬懿は、荊州を狙っている孫権を利用すべき、と主張しました。

そして呂蒙の主君孫権は、関羽が于禁の降伏軍の食糧を補充するために、呉の食糧を勝手に奪ったことも憎んでいたのです。

関羽は、樊城攻めが想像以上に上手く行き過ぎたので、いつの間にか逆に追い詰められていました。

乱世の奸雄曹操孟徳(そうそうもうとく)は、関羽が樊城の戦いの援軍の于禁文則(うきんぶんそく)まで撃破したため、非常に悩みましたが、結果的に呂蒙の主君孫権を味方に出来たのです。

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劉備が定軍山の戦いで曹操軍に大勝利し漢中王に就任したので関羽は樊城の戦いを行いました

三国志の関羽は、逃亡し続けていた義兄弟の劉備が、曹操軍を定軍山の戦いで破ったため、魏に大挙して攻め込んだのです。

曹操が魏王となったため、劉備は自らも漢中王となり、曹操の後漢支配に対抗していました。

そして関羽は、主君劉備が軍師法正を利用し、定軍山の戦いの勝利を獲得したので、この勢いを逃さないためにも魏を攻撃したのです。

また呂蒙は、関羽が樊城の戦いを行っている当初は、まだ味方のフリをしていました。

この時に関羽が荊州の防御を強固にしたままで、呂蒙がもしも魏を本気で攻めていたら、劉備と孫権で中華を分け合っていたのでしょうか。

関羽も、呂蒙と呉が荊州を返還させたがっていることに気付いていたので、荊州防御の軍を依然として残していたのです。

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関羽は糜芳と傅士仁の不手際に厳罰を与えようとしたため呂蒙への寝返りを招きました

三国志の関羽は、樊城の戦いで曹操軍に大勝しましたが、味方に亀裂も生じていたのです。

呂蒙は荊州にそのまま近付くと、バレるため、商人のフリをしました。

そして傅士仁と糜芳は、急に呂蒙軍が現れたように見えたので動揺し、関羽から逃げたかったこともあり、すぐに軍門に下ったのです。

また呂蒙は、関羽軍が出払っていた荊州をしっかり統治し、人心掌握したため、関羽の元にいる軍勢も、どんどん呂蒙に降伏しました。

呂蒙は関羽よりも、戦における民心掌握は、上手と言えるでしょう。

関羽は樊城の戦いの際に、傅士仁(ふしじん)と糜芳子方(びほうしほう)の本質を見抜けず、呂蒙の元に走らせてしまったので、荊州と軍勢も失ったのです。

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樊城の戦いで関羽は劉封と孟達に助けてもらえませんでした

三国志の関羽は、劉備の義理の息子劉封と孟達から、援軍を獲得出来なかったのです。

劉封と孟達は、劉備軍の勢いに乗り、勢力拡大に成功しました。

しかし領域が不安定だったため、関羽を救出不可能な状況だった、とされています。

そして孟達は、後に関羽救出の件を劉備に責められることを恐れ、魏に降伏しました。

劉封は、劉備の義理の子供だったこともあり、そのまま劉備軍に所属していましたが、孟達の予測通り、関羽の件で処刑されたのです。

劉備の義理の息子劉封(りゅうほう)と孟達子度(もうたつしど)は、関羽を救援出来なかったことで、劉備から責められましたが、孟達は上手く生き延びました。

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関羽は偽りの降伏で一旦は逃げられましたが呂蒙にすぐに捕まり呂布のような最後が来ました

三国志の関羽は、呂蒙たちから追い詰められながらも、再起の望みを捨てていなかったのです。

呂蒙の主君孫権は、関羽が武勇に優れているので、味方としたがっていました。

しかし関羽は、かつて曹操から厚遇されながらも、劉備の元に戻り、後に曹操をかなり追い詰めたのです。

孫権は、関羽を扱いきれないことを恐れ、結局最期を与えました。

また呂布も、武勇に長けていたので、捕えられた際に、曹操は処刑をかなり悩んだのです。

ですが呂布が、義理の父親を何度も裏切っているので、結局最後を送られました。

関羽は呂蒙に敗れましたが孫権から武勇を惜しまれ、生き残れる可能性もありましたが、劉備への忠誠心を恐れられ、呂布のように最後が与えられたのです。

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まとめ:三国志の関羽雲長(かんううんちょう)と呂蒙子明(りょもうしめい)の能力と樊城の戦いの最後

三國志の関羽が武神とされながらも、結局は呂蒙に、最後を与えられたことを解説してきました。戦においては、一人の武勇では限界があるのでしょう。

そして関羽が、孫権の子供との娘の縁談を、断ってしまったことも説明してきました。ここできっちり縁談しておけば、孫権から処刑されることは無かったでしょう。

また関羽が、樊城の戦いを行った理由のひとつに、義兄弟劉備の漢中王即位があることも、記載してきました。

関羽たちにとって樊城の戦いこそが、最後の見せ場と言えるかもしれません。

他にも関羽が、呂布と同じように、恐れられていたことも述べてきました。特別な武勇は、諸刃の剣なのでしょうか。

関羽と呂蒙は因縁の深い間柄なので、人間関係をしっかり学ぶ良き題材にもなるでしょう。

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