三国志の呉の最強武将と言えば、鈴の甘寧でしょう。
甘寧は、真面目な人物ではなく、いわゆる侠客で名を博していました。仁義な男気を探している人も、参考になるでしょう。
勉強しまくって身を修めた呂蒙と甘寧も、深い関係性があるのです。呂蒙は甘寧から、何かを教わったのでしょうか。
そして、関羽と張飛を呉の関係者に打ち取られた劉備は、怒って呉に攻め込んで来ました。最強一番乗りな甘寧は、どのように対処したのでしょうか。
また、甘寧は神として祀られる偉人となりました。功績を評価されただけなのでしょうか。
他にも、甘寧に恨みを持つ凌統とのエピソードも記載しています。恨みの分だけ、熱いエネルギーが貯まっているのかも。
三國志の一番乗りな甘寧を詳しく解説していきます!
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目次
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男伊達な侠客!鈴の甘寧
三国志の甘寧は若い頃、無頼漢たちの頭目となり、鈴で着飾っていました。
鈴の音が聞こえただけで、甘寧たちと思われるほど有名だったのです。
お金よりも仲間を重んじる甘寧は、この期間に形成されたのでしょう。
そして甘寧たちは、一大勢力を形成しており、地方の有力者でも甘寧たちをもてなす始末でした。
ただの無頼漢ではなく、悪人がいれば成敗する面もありました。
この時に鍛えた武力で、孫権を支える武将に成長していったのでしょう。
また、若い時に何かに励んでおけば、後々良い形で結果に結びつくことも多いのでは?
甘寧は、その辺の若者たちと徒党を組み好き勝手していましたが、悪を裁く善も持っていたのです。
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呂蒙との約束を違えて処刑されそうになった甘寧
三国志の甘寧の家臣が、ささいな問題を起こして、勉強家な将軍呂蒙の元に逃げ込んで保護を求めたのですが、結局家臣は殺害されました。
問題を起こした家臣が呂蒙のところに来た際に、呂蒙は甘寧に、殺さないよう釘を刺したのです。
ですが、甘寧は許すことが出来なかったため、さすがの呂蒙も怒って甘寧を責め立てました。
甘寧は呉にとって非常に重要な人材なので、セーフとなったのです。
そもそも、甘寧が呉の孫権に取り立てられたのも、呂蒙の評価によるものでした。
呂蒙は、自分がおすすめした手前、そこまで強く甘寧を責められなかったのかもしれません。
甘寧は、荒い気性であったため、家臣の小さい問題を許せなかったのですが、呂蒙は今後の呉を考えて寛容さを見せました。
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劉備の復讐の炎に焼かれた甘寧の最後と死因
無頼者として鳴らした甘寧も、夷陵の戦いで劉備軍だった沙摩柯に、射抜かれてしまいました。
そして、夷陵の戦いで、呉の軍の総指揮を取った陸遜配下の周泰(しゅうたい)が、沙摩柯(しゃまか)を打ち取って、敵討ちを果たしたのです。
周泰は、孫権を守るために身体を傷付けており、その傷の重みで、他の武将から高評価されていました。
周泰は、他の武将たちから侮られていたため、孫権は傷で実績を見せてあげることで、周りの呉将たちを周泰に心服させたのです。
また、甘寧がどれくらいの年齢で何をしたかは、ハッキリしません。ただ、そこまで高齢で亡くなったわけではないようです。
三国志の甘寧は、武勇で活躍しましたが、夷陵の戦いで射られたことが死因となり、最期を迎えました。
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昭毅武恵遺愛霊顕王として神となった甘寧
三国志の甘寧は、南宋時代に評価が高まり、神として崇められているのです。
南宋は、金国に北宋が圧迫されて成立したため、甘寧の呉が北の曹操たちと戦っていたことにあやかって、守り神としたのでしょう。
そして、甘寧の妻の熊氏も順佑夫人とされました。
また、甘寧は春秋戦国時代の秦の賢者甘茂の子孫なのです。甘茂はあの弁舌達人な張儀からも認められていました。
市場に虎という言葉があるように、偽情報でも何度もいろいろな方面から述べられると、信じてしまうものでしょう。
甘茂は、秦王のために強敵を攻略しようとしたのですが、市場に虎な話をして、自分を信じてくれるように述べたのです。
甘寧は、神とされるほど高評価を受け、妻も恩恵を得られました。
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父への恨みから甘寧を憎む凌統
凌統は、父凌操が敵にいた甘寧から打ち取られたので、いつか恨みを晴らしたいと考えていました。
- 自己愛により裏切りを繰り返す呂布と無頼な最強勇将甘寧
- 魏に張遼あれば呉に甘寧ありな最強一番乗り武将
後に、甘寧もなんと孫権軍となってしまったため、凌統は戦で、甘寧を負かせなくなってしまったのです。
ある時、凌統ら呉軍は曹操軍と戦っていました。曹操軍の勇将張遼や楽進と凌統が、一騎打ちに白熱していたのです。
すると、曹操軍の武将が、凌統を弓で攻撃してきたため、甘寧は凌統を助けるために、弓矢で反撃しました。
恨みに囚われていた凌統は、甘寧がすでに味方になったことに気付き、深い絆を結んでいったのです。
乱世の時代ですから、敵が味方となったり味方が敵となったりするのでしょう。
三国志の甘寧は、父の件で恨みある凌統を助ける事で、真の友諠を得ていきました。
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自己愛により裏切りを繰り返す呂布と無頼な最強勇将甘寧
三国志の呂布奉先と甘寧は、どちらも武勇に優れた人物ですが、性質が異なっています。
呂布は、自分のメリットを求めて裏切りを行ったのですが、甘寧は男伊達から問題を起こすことがあったのです。
呂布はあまり部下に慕われていませんでしたが、甘寧は侠客により部下に好まれていました。
呂布は最後は部下に裏切られて、曹操に差し出されましたが、甘寧が最後を迎えると、呉の主君孫権を含めた多くの武将が、嘆き悲しんだのです。
目先の利益に囚われていると、利益を得るどころか、将来や他の利益も消え失せるのでしょう。
甘寧は、呉で皆から好まれ評価されていましたが、呂布奉先は、自己利益を重視し過ぎて、部下からも見放されていました。
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魏に張遼あれば呉に甘寧ありな最強一番乗り武将
三国志の甘寧は、呉の主君孫権にとっては、曹操の張遼クラスな逸材だったのです。
張遼は、合肥の戦いで孫権を打ち取る寸前にまで追い詰めた名将と言われています。
そして、甘寧がいなければ孫権は、合肥の戦いであえない最後を遂げていたかもしれません。
また、甘寧は、曹操の大軍を前にしても怯えず、精鋭を率いて奇襲をかけ、戦果を上げる最強能力な人物です。
ちなみに、張遼も甘寧も、曹操と孫権それぞれの主君の敵の立場だった、にも関わらず登用された武将でもあります。
かつての敵をしっかり採用して活用出来るところが、曹操と孫権の度量の広さなのでしょう。
合肥の戦いの最強武将張遼に匹敵する人物が、甘寧とされています。
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まとめ:三国志呉の甘寧興覇(かんねいこうは)は神な一番乗り
三國志の甘寧の最強一番乗りな能力とエピソードを論じてきました。甘寧のような味方がいたら、どのような強敵にも勝てる気がしませんか?
なぜ鈴の甘寧と呼ばれているかも、解説してきました。今の時代でも、鈴を着用して歩いている人がいたら、甘寧の生まれ変わりかもしれません。
そして、甘寧が神となったことも書きました。今の時代でもめちゃくちゃ活躍すると、神となれるのでしょうか。
また、甘寧と凌統のドラマチックな交流も説明しました。恨みな人間関係だからこそ、認め合った際のエナジーも爆発的でしょう。
呂布や張遼と甘寧の比較も、行いました。3人共最強な武人として名を馳せた点は、共通しています。
甘寧は、男気あふれる最強一番乗り能力を有しているので、ドラマのように見るのがふさわしい人物でしょう。