郭開は、三国志の黄忠も敬意を抱いていた廉頗と、名将李牧を追い落とした悪臣なのです。
廉頗は、完璧な藺相如と共に趙の双肩を担っていたのですが、郭開の策略には対抗出来ませんでした。郭開がいなければ、廉頗が秦を撃破する姿が、見られたのでしょうか。
そして、匈奴征伐の李牧将軍も、郭開の謀略で最後が送られたのです。郭開は、廉頗と李牧に事実上勝った武将なので、本気で趙に尽くしていれば、他国の名将も葬れたかもしれません。
また、三国志の司馬懿の祖先司馬卬の父司馬尚も、郭開の被害者でした。廉頗と司馬尚と李牧でも対処出来ない郭開は、政治力的には、有能だったのではないでしょうか。
郭開を詳しく解説していきます!
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目次
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完璧な藺相如と刎頸の交わりだった廉頗の健康状態が悪いと郭開は悼襄王に思わせました
郭開は、廉頗と仲が悪かったため、趙王に廉頗の健康が悪い、と認定させたのです。
そもそも、初めに趙王の使者が訪れた際、廉頗はたくさんのご飯を食べ巧みに馬を操り、今でも将軍が出来る姿を見せました。
しかし郭開は、廉頗が戻ると都合が悪いため、悼襄王に廉頗が三回も下半身の不健康があった、と吹き込んだのです。
もしも、藺相如が長生きしていたら、郭開の讒言を非難し、廉頗の帰参を援助してくれたのではないでしょうか。
郭開は、完璧な藺相如(りんしょうじょ)と比肩する廉頗が、趙に戻ることが嫌だったため、廉頗が本当は不健康で再度将軍として働くことは無理である、と悼襄王に誤解させました。
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廉頗は郭開の策略で悼襄王から不採用となる前も楽毅の一族の楽乗に将軍の立場を変更させられていたのです
郭開は、廉頗を再登用させない謀略を展開しましたが、廉頗は以前も悼襄王から疎んじられていました。
廉頗が趙に戻れなかったのは、郭開だけの責任ではなく、悼襄王からあまり廉頗を評価していなかったことも、原因だったのではないでしょうか。
そして廉頗は、秦との大決戦である長平の戦いでも、敵の秦の宰相范雎の策もありましたが、当時の趙王である孝成王から更迭されていたのです。
また秦の宰相范雎は、大将軍の白起の成果が大き過ぎるため、行軍の邪魔をしたこともあります。范雎と郭開は、立ち位置的には、似ていたのではないでしょうか。
郭開は、不和の廉頗(れんぱ)の再雇用を妨害しましたが、廉頗は悼襄王や孝成王から解任されていた、いわくつきの猛将でした。
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匈奴討伐の名将李牧を郭開は秦からの多額の賄賂で幽繆王に最後を与えさせたのです
郭開は、秦と内通しており、大金を受け取ったため、趙王に李牧を始末させました。
そもそも李牧は、秦の大将軍王翦も簡単には勝てないほど、有能な武将だったのです。
ですので始皇帝嬴政は、李牧を大金の謀略で、倒すことにしました。
本当に有能な将軍は、敵の経済攻撃も防御出来なければ、出陣すら認められないのでしょう。
また、王翦は楚の大将軍項燕と勝負した際に、始皇帝嬴政から疑心を抱かれないように、多額の褒美を何回も要求した、と伝わっています。
郭開は、かつて名将廉頗を復活させなかったように、王翦(おうせん)をも苦戦させた李牧の危険性を、幽繆王に認識させ、最期に追い詰めたのです。
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秦王嬴政のために大金で李牧を最期に追い詰めたのは郭開ですが李牧は匈奴の件で解任させられていたのです
郭開は、多額のお金に目がくらみ、闘将李牧に最後を与えさせましたが、李牧は趙王から理解され難い武将でもありました。
李牧が、北方で将軍を務めていた際に、被害を減少させるために、匈奴が訪れたら逃げる対応を行っていたのです。
確かに被害が少なかったのですが、匈奴だけでなく趙王からも弱腰だと見なされました。
後に趙王から再任され、匈奴に大ダメージを与え、李牧は名将の力量を天下に示しましたが、趙王から疑心を持たれ易いやり方を取ってしまう面も残していたのでしょう。
郭開は、大量の金品で秦に心を奪われ、勇将李牧(りぼく)に最期をもたらしましたが、李牧は匈奴戦で趙王から更迭されるような手法を用いてしまう武将、でもありました。
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三国志の司馬懿の先祖司馬卬の父親司馬尚をも解任に追い込んだ郭開
郭開は、李牧と廉頗だけでなく、能力の高かった司馬尚をも、辞職に追い詰めていたのです。
趙は武霊王の胡服騎射以来、優れた軍事力で秦をも威圧していましたが、郭開のせいで名将を失い、本領発揮出来なくなっていました。
そして、司馬尚の息子の司馬卬は、秦攻略の戦果で殷王に就任したのです。
また、司馬卬の子孫には三国志の司馬懿もおり、司馬懿の孫が西晋を建国した武帝司馬炎、と伝わっています。
司馬尚の無念は、司馬炎が皇帝となることで、晴らせたのではないでしょうか。
郭開が、有能な司馬尚(しばしょう)をも陥れることに成功したため、廉頗や李牧の時と同様に、秦は戦わずに趙に勝利していきました。
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自己愛を優先し趙の滅亡を促進した郭開の史実での最期はハッキリしていません
郭開は、巧みな心理誘導で、有能な廉頗と李牧を葬り去り、趙の滅亡の要因となりましたが、郭開自身の最後は明確ではないのです。
李牧と廉頗を謀殺するほどずる賢い郭開ですから、趙が危なくなったと察知して、身をくらましたのかもしれません。
そして、幽繆王も趙滅亡の際に、王翦の捕虜となりました。
幽繆王がもっと賢く、李牧を重用していれば、趙滅亡が先延ばしになったのではないでしょうか。
ちなみに、幽繆王の兄は、趙滅亡後に代王嘉となり、しばらく存続しました。
郭開は、大将軍王翦の幽繆王確保を、廉頗と李牧を陥れることで招いてしまった奸臣ですが、趙滅亡と共に最期を迎えず生き残れた可能性もあるのです。
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臥薪嘗胆で知られる呉王夫差と越王勾践の争いの際も郭開のように賄賂に目がくらんだ伯嚭がいたのです
郭開は、廉頗と司馬尚と李牧を追い詰めることで、趙滅亡の要因を作り出しましたが、伯嚭は勾践に甘い対応をすることで、呉を滅亡させてしまいました。
伯嚭はかつては、孫武と伍子胥と共に、大国楚を滅ぼす寸前にまで追いやり、先祖の恨みを晴らすほどの武将だったのです。
しかし、呉王夫差に大敗し、かなり下手に出てまでも生き残った越王勾践から、伯嚭は買収され、呉王夫差の目を曇らせてしまいました。
郭開は、趙滅亡の原因を発生させた悪臣であり、伯嚭(はくひ)は祖先の因縁を断ち切る名臣だったのですが、郭開と同様にお金に囚われ越王勾践(こうせん)の臥薪嘗胆な再起を許してしまい、呉を崩壊させてしまったのです。
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まとめ:郭開(かくかい)で趙が滅亡と史実の廉頗李牧の最期と有能な司馬尚
郭開が、趙のたくさんの勇将を罠にかけた、悪臣だったことを解説してきました。奸臣が活躍するのは、趙が衰退していた証でもあるでしょう。
そして、歴戦の勇将の廉頗が、郭開の策だけで趙に帰れなかったわけではない、ことも説明してきました。郭開は、他人の問題を上手く増幅させる奸臣、だったのでしょう。
また李牧が、郭開の讒言のみで、趙王から最後が来たのではなかったことも、述べてきました。
匈奴征伐の英雄李牧が、郭開を味方とするほどの策士であれば、逆に始皇帝嬴政を謀殺出来たのではないでしょうか。
郭開は、趙が誇る名将の廉頗と李牧と司馬尚に、最後を訪れさせた、歪んだ有能な臣下だったのです。