激怒を意味する例文で使われることも多い、ことわざの怒髪天を衝くは、完璧な藺相如の故事です。
藺相如は、強国秦の昭襄王に怒髪天を衝くことで、趙の威信を示しました。秦は商鞅の法治主義で大国化しましたが、趙にはまだまだ名将が多かったのです。
そして、樊噲も頭髪上指す凄みにより、鴻門之会で怒髪天を衝く迫力を見せました。西楚の覇王項羽と張り合える猛将を、部下としていた劉邦の人望も、見逃せないでしょう。
また三国志の張飛も、長坂橋仁王立ちで、怒髪天を衝く気迫を現したのです。乱世の奸雄曹操の軍師程昱は張飛を、1万人の軍勢に相当する強さ、と高評価しています。
ちなみに、怒髪天を衝くの読み方は、どはつてんをつくです。
怒りの意味の例文で良く出て来る、故事成語の怒髪天を衝くを原文や漢文ではなく、現代語訳で解説していきます!
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目次
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怒髪天を衝くの故事は秦の昭襄王が和氏の璧と城の交換を反故にしそうだったため藺相如が大迫力な態度で責めたことに由来します
藺相如は、秦の昭襄王が事前の約束であった15の城の譲渡をせずに、趙から和氏の璧を奪おうとしたので、怒髪天を衝く姿で非難したのです。
そもそも趙では、秦が強大な国力を背景に、和氏の璧と城の交換を破る可能性が予測されたので、誰も秦に行きたがりませんでした。
しかし藺相如は、恵文王から繆賢が罪を得た際に、正直に申告することを提案し、趙王に許させたため、賢者だと思われており、秦への使者の志願もしたのです。
故事成語の怒髪天を衝くは藺相如(りんしょうじょ)が、秦の昭襄王嬴稷(しょうじょうおうえいしょく)が約束を破棄し、和氏の璧を獲得しようとした際に、激怒したことを意味しています。
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藺相如は怒髪天を衝くだけでは秦の昭襄王が15の城を渡すか不安だったため密かに和氏の璧を趙に持ち帰らせたのです
秦の昭襄王は、藺相如の怒髪天を衝くで軽薄な態度を一喝されたので、形式上の礼儀は行いました。
ですが、藺相如は秦の昭襄王が、結局は城を提供しないと見なし、和氏の璧を無断で趙に戻したのです。
そして今度は、秦の昭襄王が怒髪天を衝く形相となりましたが、昭襄王は藺相如の胆力を高評価し、安全に帰国させてあげました。
昭襄王は、大国秦の王を務めているだけあって、他国の賢者も厚遇出来る器の大きい人物、でもあったのでしょう。
藺相如は故事成語の怒髪天を衝くにより、秦の昭襄王からの大礼を得ましたが、15の城をもらえない可能性を考慮し、和氏の璧を勝手に趙に戻しましたが、秦王は度胸を称賛したのです。
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完璧な藺相如の故事成語の怒髪天を衝くには類語として鴻門之会の樊噲の頭髪上指すがあります
藺相如は、秦の昭襄王の無礼な態度で、怒髪冠を衝く姿に変貌しましたが、樊噲は鴻門之会で主君劉邦が項羽と亜父范増に討たれそうになり、頭髪上指す形相となったのです。
そもそも劉邦は、秦に項羽より先に到達したため、義帝懐王の約定で秦領を得られる予定でした。
しかし、義帝懐王よりも項羽と范増の方が、強大な影響力を誇っていたので、劉邦が項羽から秦を掠め取ろうとしたと思われたのです。
そして樊噲は、鴻門之会で頭髪上指す姿で、項羽に認められ、主君劉邦を逃がすことも出来ました。
鴻門之会で樊噲(はんかい)は、藺相如が故事成語の怒髪天を衝く迫力で、秦王から礼遇されたように、頭髪上指す気迫で西楚の覇王項羽(こうう)から厚遇され、劉邦(りゅうほう)を脱出させられたのです。
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秦の昭襄王に怒髪天を衝くことで藺相如は立身出世しましたが廉頗は藺相如を認めていなかったのです
趙の藺相如は、怒髪天を衝く姿で昭襄王を圧倒しましたが、歴戦の勇将廉頗は反感を抱いていました。
廉頗は、将軍としての実績で立身したため、藺相如がなぜ大出世したのか理解出来なかったのです。
そして、廉頗が藺相如をどうにかして蹴落とそうと考えていたので、藺相如は廉頗を上手く避けて過ごしていました。
しかし藺相如があまりにも不甲斐無いため、部下が批判すると、廉頗と戦うと秦が侵攻して来るので、趙のために諍いを避けていると語り、廉頗の尊敬も得たのです。
故事成語の怒髪天を衝く対応で、昭襄王を威嚇した藺相如は、恵文王趙何(けいぶんおうちょうか)から高評価されましたが、当初廉頗(れんぱ)からは理解されておらず、藺相如は趙への大志を示すことで、廉頗の心服も獲得しました。
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黽池の会で藺相如は秦の昭襄王が趙の恵文王を部下扱いしたため再び怒髪天を衝く姿で威圧しました
昭襄王は、黽池の会に趙の恵文王を呼び、秦のために楽器を演奏させたのです。
ですので、藺相如は昭襄王に怒髪天を衝く形相で、趙のために音楽を奏でることを要求しました。
秦の昭襄王は気迫に押され演奏し、秦王の側近も藺相如の迫力に、身動きが取れなくなったのです。
そして秦王の健康のお祝いに、15の城を要求された際にも、藺相如は趙王の健やかのために、秦は都咸陽を提供すべきと述べました。
また、藺相如が巧みに切り返したので、秦の武将たちも黽池の会の間、なかなか反論出来なかったのです。
藺相如は黽池の会でも、故事成語の怒髪天を衝くを発揮し、秦の昭襄王から趙の恵文王が家来扱いされることを防ぎました。
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病身に陥った藺相如には怒髪天を衝く気力は無く長平の戦いで趙括が大将軍となることを防げなかったのです
王齕と廉頗が長平の戦いで持久戦となり、廉頗は巧妙に秦軍を追い込んでいましたが、趙の孝成王はあまり評価していませんでした。
そして、藺相如も長平の戦いの際は、すっかり弱っており病だったのですが、趙の危機を感じ、孝成王に警告したのです。
しかし藺相如には往年の気力は無く、孝成王が趙括を大将軍に抜擢する愚策を、食い止められませんでした。
ちなみに、趙括の父親の馬服君趙奢は、知将の誉れ高い武将で、子孫には三国志の五虎大将軍の錦馬超もいるのです。
かつては故事成語の怒髪天を衝く形相で、趙の国威を保った藺相如も病となり、孝成王への諫言も通じず、長平の戦いで趙括(ちょうかつ)が大敗する状況を静観するしかありませんでした。
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三国志の張飛は長坂の戦いで橋に仁王立ちし藺相如のように怒髪天を衝く大喝で曹操軍を圧倒しました
長坂の戦いで張飛は、義兄弟劉備の逃亡を援助するために、橋で仁王立ちし、怒髪天を衝く形相を見せたと言われています。
そして張飛は、義兄弟関羽が呉の呂蒙に斬られたので、怒髪天を衝く迫力で部下に当たり散らし、返り討ちな最後を迎えました。
夷陵の戦いで呉軍と交戦するまで、怒りを抑えていれば、怒髪天を衝くパワーで呉を攻略出来ていたかもしれません。
ちなみに、関羽と馬超と趙雲と黄忠と共に張飛は、五虎大将軍を担ってもいました。
藺相如の故事成語の怒髪天を衝く大喝は、三国志の張飛益徳(ちょうひえきとく)も長坂の戦いで披露していますが、後に張飛は迫力が災いし、義兄弟関羽雲長(かんううんちょう)の敵討ちの夷陵の戦いに参戦出来なかったのです。
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まとめ:怒髪天を衝く(どはつてんをつく)の意味由来と故事成語類語使い方と藺相如例文
ことわざの怒髪天を衝くが、どのような意味と由来で使われているかを、解説してきました。激しい怒りが込み上げて来たら、怒髪天を衝くが訪れた、と思うべきでしょう。
そして藺相如が、怒髪天を衝くだけでなく、秦の昭襄王の本質を見通していたことも説明してきました。人を知る藺相如だからこそ、怒髪天を衝く手法が効果的なことも分かったのでしょう。
また、藺相如は廉頗と争わずに敬服させ、刎頸の交わり関係となったことも述べてきました。攻める時は怒髪天を衝く形相で、退く時は廉頗を心服させた藺相如は、まさに名将と言えるでしょう。
怒髪天を衝くは、完璧な藺相如だけでなく、鴻門之会の樊噲や長坂の戦いの張飛も使っていた、実践的な故事成語なのです。