馬超と韓遂!旗本八旗、活躍、死因逸話、先祖、曹操、関羽張飛も解説

三国志の錦馬超は、韓遂と共に曹操と戦いました。

馬超と韓遂は共に、涼州あたりを代表する武将だったのです。涼州はかつて董卓が制覇していたので、董卓が消えたからこそ、馬超や韓遂が現れたのでしょう。

そして馬超と韓遂が上手く戦ったのは、旗本八旗がいたからなのです。旗本八旗に誰がいるかご存知ですか?

また、馬超と韓遂は、中央で大勢力を誇っていた曹操とも潼関で戦いました。旗本八旗がいたので、簡単に防御出来たのでしょうか。

他にも、馬超が劉備に失礼な対応をしたことが、死因になりそうになったのです。馬超は異名が錦馬超ですから、もっと派手な最後なのでしょうか。

三國志の馬超と韓遂を詳しく解説していきます!

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韓遂は馬超の父馬騰と共に涼州の軍勢を統率する人物でした

三国志の韓遂は、馬騰と一緒に涼州付近を統括する者として、李傕郭汜に承認されていたのです。

ですが、馬超の父馬騰は、周辺の諸侯と結び、李傕郭汜と戦うことになりました。

韓遂も流れに引っ張られるように、馬騰側で参戦したのです。

勇猛な涼州軍が勝利するかと思ったら、作戦がバレて李傕郭汜に負けました。

その後、韓遂と馬超の父馬騰は戦友として仲良く過ごし、結局敵対したのですが、曹操の仲介で何とかなったのです。

曹操は天下統一を目的としていただけあって、いろいろな地域に影響力があるのでしょう。

韓遂文約(かんすいぶんやく)と馬騰は、涼州周辺を治める人物でしたが、中央政府と一悶着あったり内紛があったりもしました。

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錦馬超と韓遂には有能な旗本八旗と呼ばれる部下がいました

三国志の韓遂と馬超孟起(ばちょうもうき)の元には、旗本八旗の程銀・侯選・成宜・楊秋・馬玩・張横・梁興・李堪もいたのです。

馬超と韓遂について詳しく知りたい人は、この八人を把握すると良いでしょう。

そして、旗本八旗は手下八部と呼ばれることもあり、乱世の奸雄曹操と激戦を繰り広げました。

ですが、最後は多くの旗本八旗が戦死したりどこかに逃亡したりしたのです。

あまりにも曹操軍は強大だったのか、馬超と韓遂があまり強くなかったのか・・・

馬超は後に劉備の元で将軍になりますが、もっと早く劉備と連携しておけば、曹操に大敗しなかったかもしれません。

ちなみに、馬玩は馬超と同じ馬ですが、血縁関係は無いみたいです。

馬超と韓遂の配下の旗本八旗がいたからこそ、超世の傑曹操と善戦出来ました。

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電光石火の夏侯淵が近付いたため先手必勝で曹操に挑んだ馬超と韓遂

三国志の馬超と韓遂は、曹操が野望により軍勢を動かしたと考え、曹操軍と戦うことに決めました。

涼州の軍勢は勇猛なため、曹操も警戒し、戦で勝利しても深追いしなかったのです。

そして馬超と韓遂も、曹操が手強いため、和平をすることにしました。

和平の席で馬超は、曹操を暗殺するつもりだったのですが、虎痴な許褚に迫力があり過ぎて、動けなかったのです。

また許褚は、曹操の親衛隊と呼ぶべき武将で、悪来典韋と共に、曹操の身辺警護をしていました。

韓遂と馬超は戦う内に、曹操との格の違いを見せつけられていったのでしょう。

馬超と韓遂は、曹操に滅ぼされないために、精強な涼州軍を動員して対抗したのです。

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潼関の戦いで馬超と韓遂に炸裂した曹操の軍師賈詡の離間の計

三国志の馬超と韓遂は、策士賈詡の計略にハマり、敵対するようになってしまいました。

韓遂は曹操に味方していた時期もあり、馬超は韓遂が実は曹操に寝返るのではないかと考えていたのです。

馬超が疑心暗鬼になっているところ、韓遂に曹操から所々が黒く塗り潰された書面が来ました。

馬超は疑いが正解だったと考え、韓遂を倒そうとしたのです。

曹操は敵軍が多かったとしても、軍師の策によって逆に有利を作り出せるので、曹操には大軍で向かうだけでは足りない、と言えるでしょう。

ちなみに、賈詡は曹操の親衛隊長と後継者に最後をあげた、いわくつきの軍師です。

馬超と韓遂は、曹操との対決の潼関の戦いで、賈詡文和(かくぶんわ)の策略に翻弄されました。

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馬超は韓遂と仲が悪くなった後は異民族を糾合して戦い劉備に付きました

三国志の馬超は、曹操の軍師賈詡の策で韓遂と戦った後は、劉備に味方したのです。

  • 馬超の死因の逸話は主君劉備を字で呼んだこと?
  • 戦国時代の名将馬服君趙奢の子孫が馬超です

劉備は、仁義と漢帝室再興を目指しており、武勇に優れた武将を欲していました。

そして馬超は、武神関羽や猛将張飛クラスの武力を有していたのです。

もしも馬超が曹操や孫権に付いてしまうと、劉備の強敵になる可能性もありました。

馬超自身も異民族軍がおり武力があるとはいえ、一族の多くを処刑されて弱体化しており、劉備勢力に落ち着きたかったのです。

ちなみに馬超は、曹操との潼関の戦いのようには、その後活躍しませんでした。

馬超クラスになると、いるだけで敵の威嚇になったのでしょうか。

馬超は、韓遂と戦うことになってしまい、結局劉備の軍門に下りました。

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馬超の死因の逸話は主君劉備を字で呼んだこと?

三国志の馬超は、調子に乗って劉備を字で呼びかけ、関羽と張飛が馬超に最後をあげようとした、と言われています。

劉備は関羽と張飛にとっては、主君であり義兄弟の兄ですから、馬超の対応は、自分たちが侮られているに等しかったのでしょう。

ただ、本件は信憑性があまりなく、事実では無かったとも述べられています。

そして、許攸が曹操を官渡の戦いで勝たせる大きい要因を作り出し、図に乗った事例もあるのです。

馬超は、劉備にとっても強敵な曹操を潼関の戦いで追い詰めているため、調子付く根拠は存在しています。

ちなみに、三国志の世界では、目上の人は字では呼ばないルールがあり、字で呼べるのは、親しい人か自分が上の立場の場合なのです。

馬超は、関羽と張飛の尊敬すべき兄劉備を字で呼び、最期が来そうになったと伝わっています。

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戦国時代の名将馬服君趙奢の子孫が馬超です

三国志の馬超は、閼与が広くない場所なので、勇敢な武将を派遣すれば、秦に勝てると宣言した趙奢の末裔とされています。

趙奢は、閼与の戦いで、難敵秦に勝利したことで、馬服君となったのです。

馬超が趙ではなく馬なのは、馬服君の方が名前に変化したためでしょう。

趙奢は名将でしたが、息子の趙括は机上の空論で兵法を展開し、秦に長平の戦いで大敗しました。

そして馬超は、漢の伏波将軍馬援の子孫とも言われています。

ちなみに、馬援の先祖が趙奢でもあるのです。

馬援は後漢の初代皇帝劉秀の将来を予測し、味方しました。

馬超の先祖は、趙奢(ちょうしゃ)と馬援(ばえん)で、馬超は、蜀漢の五虎大将軍のひとりでもあるのです。

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まとめ:三国志の馬超(ばちょう)と韓遂(かんすい)の能力と強さと活躍

三國志の馬超と韓遂が、涼州あたりでどのような活躍をしたかを述べてきました。涼州は、勇猛な人材を輩出する何かがあるのでしょうか。

馬超と韓遂の八名の有能な部下も解説しました。何かを上手くいかせたいなら、八名くらい集めると良いのかもしれません。

そして馬超と韓遂は潼関の戦いで、曹操の軍師賈詡の罠によりダメージを受けたことも、記載しました。

馬超と韓遂にも賈詡のような参謀がいれば、曹操にも勝てたかもしれません。

また馬超は、戦国時代と後漢初期の名将の子孫であることも書きました。

先祖が凄いからこそ、馬超も血筋で凄い偉人になれたのでしょうか。

馬超と韓遂は、乱世に翻弄され結局は戦う羽目に陥った、ある種悲劇の関係でしょう。

⇒三国志りゅうひょう!劉表劉備関係、蒯越、荊州配下、妻、孫堅も解説

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