三国志の仁義で漢帝室再興を求めていた、英雄劉備の息子は劉禅で、幼名は阿斗なのです。
阿斗は、阿呆な意味のことわざもあります。阿斗はなぜ、悪名高きことわざを作られてしまったのでしょうか。
そして、阿斗は窮地に陥った際に、井戸に身を投げた者がいたことで、助かったのです。阿斗はやはり、仁義で英雄な劉備の息子なのでしょう。
また、阿斗がなぜ阿斗という名前になったのかも、説明していきます。阿斗は阿保と言われることがありますが、蜀漢を何十年も存続させた皇帝でもあるのです。
他にも、阿斗とあの桓公の共通点も、述べていきます。桓公は後世で、春秋の五覇とも呼ばれる偉人ですが、どこが阿斗と似ているのでしょうか。
三國志の阿斗を詳しく解説していきます!
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目次
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阿斗劉禅にはどうしようもない人という意味のことわざがあります
三国志の劉禅阿斗は、蜀漢の武将たちが滅亡してからも故郷を思っていたにも関わらず、いつの間にか気楽に過ごしていました。
司馬昭は、野心家の鍾会と鄧艾を利用し、蜀漢を滅ぼしたのです。
ですので、後に司馬昭は阿斗に面会する機会があり、その場で蜀漢の音色が聞こえました。
しかし劉禅は、嘆くどころかどこか楽しげだったのです。
この態度には司馬昭すら驚き、阿斗が君主では、姜維どころか諸葛亮でも指導出来ないだろう、と述べました。
阿斗劉禅は、かつての敵司馬昭子上(しばしょうしじょう)との会合で、故郷の音楽が聞こえたのに、悲しまず楽しんでいたため、悪い意味のことわざが誕生してしまったのです。
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司馬昭は蜀漢を思うことはありますかとたずねたところ劉禅阿斗は阿保な対応をしてしまいました
三国志の劉禅阿斗は、司馬昭から蜀漢への思いを聞かれた際に、もう忘れてしまったと答えたのです。
司馬昭は、阿斗が本当に阿呆なのか試すために、この質問をしたのでしょう。
そして阿斗の受け答えを聞いた郤正が、まずいと思い、正しい対応をレクチャーしました。
しばらくした後に、司馬昭は再度蜀漢への思いを後にたずねると、郤正のレクチャー通りに答えたのです。
司馬昭は、郤正が言った通りですね、と述べたところ、阿斗は素直に認めたので、皆が笑いました。
阿斗劉禅は、司馬昭からの蜀漢への質問に上手く答えられなかったので、郤正令先(げきせいれいせん)からの模範解答をそのまま述べたところ、阿呆だと思われたのです。
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長坂の戦いで井戸に身を投げることで趙雲に阿斗劉禅を託したのが糜夫人です
三国志の劉禅阿斗は、長坂の戦いで、父劉備の妻糜夫人を犠牲にして生き残りました。
糜夫人は、すでに怪我をしており、敵の曹操軍から阿斗が逃げる際に邪魔になることを恐れ、井戸で自害したのです。
糜夫人が生きていた場合、趙雲が自らを犠牲にし無理にでも生かそうとしかねないので、糜夫人は井戸に身を投げることで、阿斗と趙雲を確実に生かす道を選んだのでしょう。
もしもここで阿斗も一緒に亡くなっていた場合、劉備の後継者がおらず、蜀漢がすぐに滅亡した可能性もあるのではないでしょうか。
長坂の戦いで、糜夫人が井戸の身を投げることで、阿斗劉禅は生き残ることが出来、後に蜀漢の皇帝に就任したのです。
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劉備は長坂の戦いで劉禅阿斗を投げたことで趙雲の心を掴みました
三国志の劉禅阿斗は、趙雲が決死の覚悟で救出しましたが、劉備は息子を投げることで、趙雲たちを心服させたのです。
趙雲は、劉備の配下でも有能とされる武人だったので、劉備は阿斗がいることよりも、趙雲がいることの方が重要でした。
阿斗を投げたことを皆が見ていれば、劉備のために頑張ると、実の子供よりも称賛してもらえる、と思わせられるのではないでしょうか。
そして劉備の先祖の劉邦は、自分が覇王項羽の軍から逃げ切るために、子供を投げたことがあります。
劉備は、自分と前漢の初代皇帝劉邦が似ている、と思わせたい面もあったのかもしれません。
阿斗劉禅は、父劉備が趙雲子龍(ちょううんしりゅう)のような有能な武将を部下にしておくために、利用されたのです。
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劉禅は生母甘夫人が北斗七星の夢を見たので阿斗劉禅と命名されました
三国志の劉禅阿斗は、神聖な北斗七星の加護を受けられるような、名前をもらったのです。
阿斗は後世では、阿保と言われることもありますが、蜀漢で40年ほど皇帝を務めていました。
ただの阿呆な人物が、強国魏から、40年ほども国を維持出来るのでしょうか。
そして阿斗の周りには、黄皓という悪臣がいました。
黄皓は、敵の魏から多額の金品を受け取り、大将軍姜維の北伐を妨害していたのです。
また黄皓は、まやかしの術を信じ現実離れしていたので、魏が本当は攻めてこないと阿斗たちに主張し、防衛を邪魔してもいました。
阿斗劉禅は、北斗七星の保護を受けたためか、強大な魏に対抗し40年ほども蜀漢を維持したのです。
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劉禅阿斗は諸葛亮を父のように尊敬していたので孔明への批判を許しませんでした
三国志の劉禅阿斗は、諸葛亮を敬っていたので、李邈が孔明を中傷したことを怒ったのです。
李邈は、普段から諸葛亮の政治を批判しており、諸葛亮が大軍を持っていて危険だったと述べました。
阿斗は、諸葛亮に二心が無いことを知っていたので、李邈にすぐに最期を与えたのです。
そして李邈は、諸葛亮が泣いて馬謖を斬るを行った際も、非難していました。
かつて、楚は有能な者を処刑して没落し、秦は能力のある者の失態を許したことで興隆した、と李邈は語ったのです。
阿斗劉禅は、李邈(りばく)が諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)を批判し貶めたので、尊敬する孔明のためにも、李邈に最後を送りました。
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春秋の五覇桓公と似ていた阿斗劉禅
三国志の劉禅阿斗は、春秋の五覇桓公のように、周りの部下次第で評価が変わる人物だったのです。
阿斗は、諸葛亮が宰相だった際は、名君と呼べるような政治をしていました。
しかし諸葛亮が亡くなった後は、急に暗君な皇帝となってしまい、最終的には魏に滅ぼされたのです。
そして、斉の桓公も春秋の五覇と言われていますが、管仲が宰相だったことが大きく、管仲が最後を迎えた後、斉は乱れました。
ですので阿斗も、諸葛亮クラスの偉人と出会うか、姜維と共に前線に出るかしていれば、最後まで名君だったかもしれません。
阿斗劉禅は、三國志の春秋の五覇桓公と呼べるほど、周りに影響され易い皇帝だったのです。
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まとめ:三国志の阿斗(あと)劉禅公嗣(りゅうぜんこうし)のことわざと阿呆な意味
三國志の阿斗が、どのような理由で、阿呆と思われてしまったかを解説してきました。阿斗もさすがに、何千年後にまで阿呆と言われるとは、考えていなかったでしょう。
阿斗は敵に降伏し、司馬昭からからかわれたことも説明してきました。司馬昭から遊ばれる程度の人物だったので、阿斗は生き残ることが出来たのではないでしょうか。
そして劉備が、趙雲のような有能で忠誠心あふれる武人の心を獲得するために、阿斗を投げたことも書きました。
阿斗が趙雲よりも、劉備に大事にされるほどの人物であれば、阿斗が天下統一していたかもしれません。
阿斗劉禅は、劉備の息子にしてはあまり有能でなかったため、阿呆と見なされてしまった皇帝でしょう。