三国志の四世三公袁紹配下の猛将と言えば、顔良でしょう。
顔良は、専横な董卓の部下の華雄を超える最強な力、と言われていました。華雄と顔良がバトルしたら、袁紹がもっと勢力を拡大したでしょう。
そして顔良は、官渡の戦いで華雄に勝利した関羽と、勝負しました。顔良は、主君袁紹からも高評価な最強な武を持っているので、善戦したのでしょうか。
また、顔良の仲間には、同じくらい最強なパワーを有している文醜もいました。文醜も関羽と戦ったのですが、結果はどうなったのでしょうか。
他にも、顔良のイケメンな話もしていきます。最強パワーな顔良は、なぜイケメンなのでしょうか。
三國志の顔良を詳しく解説していきます!
⇒でんぽう三国志!田豊軍師能力、えんしょう、きょゆう寝返りも解説
目次
⇒美周郎!意味、周瑜イケメン、諸葛亮てのひら、曹仁最強、死因も解説
汜水関の戦いの猛将華雄(かゆう)以上の最強武勇な顔良
三国志の顔良は、主君袁紹から董卓の部下の華雄以上、と高評価だったのです。
汜水関の戦いで華雄は、袁術と韓馥と孫堅の部下をどんどん倒した際に、袁紹は顔良がいればと述べました。
華雄は結局、武神関羽との一騎打ちで、すぐに討たれたのですが、顔良がおり華雄に勝った場合、後に伝説となるのは顔良だったのでしょうか。
ちなみに関羽は、華雄と戦う前にお酒をもらったのですが、一旦辞退しお酒が冷めない内に華雄を斬りました。
劉備が強大な曹操に対抗出来たのは、関羽のような猛将を義兄弟としていたからでしょう。
顔良は、反董卓連合軍の武将たちに何度も勝利した華雄(かゆう)に、勝てるほどの猛将とされていたのです。
⇒かゆう三国志!華雄関羽、ゆしょうはんほう、赤兎馬呂布、李儒も解説
袁紹と曹操の官渡の戦いで関羽に瞬殺された最強なはずの顔良
三国志の顔良は、官渡の戦いで、汜水関の戦いの英雄関羽に斬られました。
- 袁紹の軍師沮授は顔良は視野が狭く知力が足りていないと主張していました
- 乱世の奸雄曹操の軍師荀彧は顔良を武力に偏っているだけと述べていたのです
顔良は、主君袁紹から、華雄に勝てると述べられていましたが、関羽は顔良以上だったのでしょうか。
そして関羽は、元々曹操の部下ではなかったのですが、劉備が行方不明となり、成り行きで曹操に仕えていました。
曹操は良い待遇だけでなく、呂布の名馬赤兎馬まで関羽に与えていたのです。
劉備と曹操は敵対していますが、関羽は厚待遇を受けていたため、官渡の戦いで曹操への恩義を返しました。
関羽が恩義を大事にしている部分は、顔良には無い強さかもしれません。
官渡の戦いで顔良は、武勇を示そうとしましたが、武神関羽雲長(かんううんちょう)に討たれたのです。
⇒関羽と呂布!強さ、赤兎馬、虎牢関の戦い一騎打ち、活躍、魅力も解説
袁紹の軍師沮授は顔良は視野が狭く知力が足りていないと主張していました
三国志の顔良は、董卓の部下の華雄クラスの武勇でしたが、沮授からは思い込みが激しい、と思われていたのです。
官渡の戦いは、曹操も袁紹も大軍を終結させているため、どのような策略が飛び出すか分かりません。
顔良が、沮授と共に行軍していれば、関羽にすぐに負けることも、無かったのではないでしょうか。
そして沮授は、官渡の戦いで袁紹が曹操に勝利する事は、難しいと考えていました。
主君袁紹も知らなかった顔良の欠点を見抜く沮授でも、官渡の戦いで勝てないと思っていたなら、戦を回避すべきだったのでしょう。
顔良は武勇に優れていましたが、沮授(そじゅ)からは、拘りが強く知力不足と非難されていました。
⇒三国志そじゅ!沮授袁紹、ほうき、でんぽう、かくと、許攸烏巣も解説
乱世の奸雄曹操の軍師荀彧は顔良を武力に偏っているだけと述べていたのです
三国志の顔良は、曹操の我が子房張良な荀彧から、武力があるだけなので簡単に勝てる、と言われていました。
荀彧は、非常に能力が高いため、曹操から前漢の三傑張良のような存在、と思われていたのです。
そして顔良は、官渡の戦いで他の武将たちと共に出撃したのですが、曹操の策で孤立させられ、関羽に即座に討たれました。
袁紹の軍師沮授は、顔良が孤立すると危ないと主張していましたが、曹操軍の方が一枚上手だったのでしょう。
官渡の戦いの前は、曹操よりも袁紹の方が、軍事的に優勢に見えていたわけですが、実態は曹操が有利だったのではないでしょうか。
顔良は、曹操配下の荀彧文若(じゅんいくぶんじゃく)から、武勇に長けているだけと批判され、結局孤立し関羽から斬られました。
⇒我が子房荀彧!意味、曹操、軍師張良、美人、最後、郭嘉諸葛亮も解説
顔良は袁紹の元に劉備がいたので関羽と会った際に自分の元に来るように聞いていたという説もあります
三国志の顔良の主君袁紹のところに、仁義な劉備が訪れており、関羽を探していたのです。
- 最強な顔良クラスの武勇な文醜(ぶんしゅう)も官渡の戦いで関羽に討たれました
- 袁紹の最強な部下でイケメン!?な顔良の子孫は顔之推です
官渡の戦いで顔良は、関羽に簡単に討たれましたが、劉備の元に連れて行こう、と考えていたためかもしれません。
こうなってくると、袁紹の軍師沮授や曹操の参謀荀彧が批判していた顔良の知力が、違う意味の非難になるでしょう。
戦場では何が起きるか分からないので、顔良が油断していたと言ってしまえば、それまでかもしれません。
それに関羽は、曹操からかなりの厚遇を受けていたため、顔良から劉備の件を聞かされても、そのまま顔良を討つ可能性もあったでしょう。
顔良は、関羽を義兄弟の劉備の元に行かせようとし、油断したため、一瞬で斬られたという話も存在しています。
⇒劉備と曹操の関係!仲、雷、英雄論、戦い、関羽、呂布、孫権も解説
最強な顔良クラスの武勇な文醜(ぶんしゅう)も官渡の戦いで関羽に討たれました
三国志の顔良には、心強い味方として文醜もいましたが、曹操軍の罠にかかり関羽に斬られたのです。
文醜は、顔良が関羽のせいで最後となったため、関羽への敵討ちに燃えていました。
曹操軍は、兵糧部隊をわざと文醜に襲わせやすくすることで、防御を弱まらせ、そこに関羽が突っ込み文醜を打ち取ったのです。
結局顔良と文醜は、最強な武勇を誇っていましたが、巧みな計略には対処出来ませんでした。
ちなみに、袁紹の軍師田豊は、官渡の戦いに反対して投獄されていたため、田豊が顔良や文醜と共に軍を率いていれば、文醜と顔良が生存していたかもしれません。
官渡の戦いでは、袁紹本初(えんしょうほんしょ)の部下の最強な顔良だけでなく文醜(ぶんしゅう)まで、関羽に最期を与えられたのです。
⇒えんしょう三国志!袁紹性格、有能軍師、官渡の戦い曹操、袁術も解説
袁紹の最強な部下でイケメン!?な顔良の子孫は顔之推です
三国志の顔良の子孫には、論語の聖人孔子の学を重用していた顔之推もいます。
顔之推は、学問が非常に大事であるという、顔氏家訓を残しているのです。
顔良が最強な武勇を有していながら、官渡の戦いで簡単に敗れたため、子孫は学重視になったのでしょうか。
そして顔良はイケメンな美男子で、文醜はイケメンでなかったと言われています。
顔良は、名前が顔が良いとなっているため、イケメンとされており、文醜は醜いなのでイケメンでないという考えがあるのです。
ちなみに、顔良が武勇だけと見抜いていた荀彧は、イケメンだったと伝わっています。
顔良の子孫は、学を好んだ顔之推(がんしすい)とされており、顔良は名前から、イケメン説も存在しているのです。
⇒陸遜の妻!死因憤死、孫策の娘、石亭の戦い、イケメン呉郡四姓も解説
まとめ:三国志の顔良(がんりょう)は最強能力なイケメン!?
三國志の顔良は、官渡の戦いまでは、最強な能力で袁紹から支持されていたことを解説してきました。
官渡の戦いを回避していれば、その後も袁紹軍で活躍出来たのではないでしょうか。
そして顔良は、味方の沮授と敵軍師の荀彧から、知力不足を批判されていたことも説明してきました。
最強な顔良と文醜が同時に出撃していたら、武勇の圧力で押し切れたかもしれません。
また顔良が、劉備のせいで打ち取られた可能性があることも記載しました。袁紹の部下はたくさんいましたが、袁紹が上手く活かしきれなかったことが、官渡の戦いの敗因ではないでしょうか。
顔良は、最強能力を持っていたはずなのに、関羽にすぐにやられたので、武勇の意味を考える機会にもなるでしょう。