三国志の南蛮王孟獲と神な祝融は、知るべき人物でしょう。
孟獲の嫁の祝融夫人は、火の神の末裔と言われています。諸葛亮も神な軍師と評価されているので、神と神の戦になったのでしょうか。
そして、孟獲の配下として有名な兀突骨も説明していきます。兀突骨はある軍勢を率いることで、諸葛亮を翻弄したのです。
また、孟獲のもう一人の配下である木鹿大王も記載していきます。木鹿大王は、南蛮の軍隊らしい奇抜な軍勢を使ったのです。
他にも、諸葛亮に何度も負けた孟獲と祝融のその後も、書いていきます。孟獲と祝融の南蛮軍が加わったため、諸葛亮が魏と呉に簡単に勝ったのでしょうか。
三國志の孟獲と祝融を詳しく解説していきます!
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目次
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諸葛亮の南蛮遠征に手こずる孟獲を助けた火の神の子孫祝融夫人
三国志の孟獲は、中国と異なる文化で生きていましたが、諸葛亮が勢力拡大を狙ったので、戦いました。
諸葛亮は三國志の世界でも鬼才とされている人物だったため、孟獲は何度も敗北したのです。
何回も負ける孟獲に業を煮やした祝融は、蜀漢軍を攻撃し、諸葛亮の部下を捕らえました。
ただ祝融夫人の善戦もここまでで、本気を出した諸葛亮に、逆に祝融自身も確保されたのです。
諸葛亮の作戦は、南蛮の者たちを心服させることにあるため、祝融もすぐに解放しました。
激しく敵対していた祝融も、諸葛亮の寛容さを感じ取ったのです。
祝融夫人は、何度も負ける孟獲に怒り参戦しましたが、諸葛亮が凄過ぎて逆にやり込められました。
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孟獲の嫁祝融夫人の先祖は火の神なので祝融の災いは火災を意味しています
三国志の孟獲の嫁祝融は、火の神の末裔と言われており、祝融関連は火を指すことが多いです。
諸葛亮と孟獲祝融が戦った際に、祝融はあまり火を利用していません。本気を出さずに手加減していたのでしょうか。
そして祝融夫人の先祖の火神は、炎帝神農と言われています。
神農は、医療と農業という、人が生きる上で欠かせない知識を授けたのです。
また、今の時代は少ないですが、大昔は野草で不健康になってしまうことも多く、野草の良い扱い方も、炎帝神農が教えたとされています。
祝融の先祖の炎帝神農がいたからこそ、後の中華文明の大興隆があったのではないでしょうか。
炎帝神農の子孫の祝融夫人は孟獲の嫁であり、祝融の災いは火に関する問題を意味しているのです。
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孟獲だけでなく祝融夫人も諸葛亮に敗れたので藤甲兵の兀突骨が現れました
三国志の孟獲と祝融夫人の元に、救世主兀突骨が訪れ、蜀漢の諸葛亮軍に勝利したのです。
兀突骨は3メートルくらいの身長で、剣と槍だけでなく弓矢にも強く無敵な藤甲兵を率いていました。
そして、兀突骨の藤甲兵の鎧は、油をふんだんに使っているので、水の中でもスイスイ動けたのです。
ただ、油であるため、火攻めにかなり弱く、兀突骨の藤甲兵の弱さは諸葛亮に見透かされ、焼死させられました。
諸葛亮は仁義を掲げる軍師なので、兀突骨軍の悲惨な最後に、逆に心を痛めたのです。
兀突骨(ごつとつこつ)は、藤甲兵で蜀漢軍に上手く対抗しましたが、結局孟獲と祝融夫人と同じように、諸葛亮に敗れました。
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孟獲の嫁祝融夫人の弟帯来洞主が呼んできた木鹿大王
三国志の孟獲と祝融の加勢に来た木鹿大王は、獣や蛇で、諸葛亮の軍勢を圧倒しました。
中国で人と戦い慣れていた諸葛亮の部下たちも、猛獣にはあまり通用しなかったのです。
そして、諸葛亮の妻は黄月英というのですが、諸葛亮並みの賢者でした。
黄夫人の知恵で、諸葛亮はからくり猛獣を作り出し、木鹿大王の本物の獣を成敗したのです。
いわゆる諸葛亮の策略とは、本物を偽物が倒したようなやり方であり、自然より人為が優れているという意味なのでしょうか。
また、黄月英は諸葛亮クラスの賢人ですが、外見はあまり良くなかったとされています。
祝融夫人と孟獲を助けに来た木鹿大王も、最終的には諸葛亮の知恵に敗れてしまいました。
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祝融の夫の孟獲が諸葛亮に7回も負けたので七縦七擒の故事成語があります
三国志の孟獲と祝融たちは、蜀漢の諸葛亮に7度も敗戦し、その後は心服したのです。
何回も戦い実力を見せ、最終的に敵を降伏させることを七縦七擒(しちしょうしちきん)と言い、兵法三十六計にもあります。
そして諸葛亮の軍師に馬謖がおり、馬謖は南蛮の人々は文化が異なるので、力で制圧するのは難しいと考えていました。
馬謖のせいで、街亭の戦いで蜀漢は大打撃を受けますが、南蛮遠征の際は、良い話をしているのです。
また、南蛮の孟獲と祝融は、七縦七擒されたため、諸葛亮が生きている間は特に、背きませんでした。
諸葛亮と馬謖の尽力もあり、孟獲と祝融夫人たちは、その後は、蜀漢に味方することになったのです。
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孟獲と祝融夫人の子供は花鬘と言われています
三国志の南蛮王孟獲と祝融の娘には、花鬘がいるとされているのです。
諸葛亮配下の関羽の子供の関索が、南蛮の孟獲軍に捕らえられた際に、花鬘と婚姻しました。
そして孟獲と祝融は、諸葛亮に降伏したため、関索と花鬘は、無事に仲睦まじい夫婦となれたのです。
また、関羽の子供には、関興もいます。関興は、関羽の仇討ちを成功させたと伝わっているのです。
関羽は油断していたために、呉の呂蒙たちに打ち取られ、蜀漢からも裏切り者が出ました。
その裏切り者を夷陵の戦いで成敗したのが、関興だったのです。
関興は、裏切り者を倒すだけでなく、関羽の愛刀である青龍偃月刀も獲得したとされています。
祝融と孟獲の子供の花鬘と関羽の息子関索は、良い間柄を築いていました。
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孟獲と祝融夫人と配下の兀突骨と木鹿大王のその後はハッキリとは分からないのです
三国志の孟獲は、諸葛亮に心服し出世した後に、結局どうなったかは明確ではありません。
馬謖が登山で大敗北した街亭の戦いや姜維の北伐の際にも、南蛮の強大な軍勢が現れないのです。
もしかしたら、孟獲と祝融の軍勢たちは、誰かの壮大な想像の産物なのでしょうか。
そして諸葛亮が南蛮遠征する前に、司馬懿の策略に加担して、南蛮の孟獲が蜀漢に攻め込んだのです。
孟獲軍は疑う心が大きかったため、諸葛亮軍に翻弄され、大軍を上手く動かせずに終わりました。
この時の敗戦も含めるなら、孟獲は八縦八擒かもしれません。
南蛮王孟獲と祝融夫人が、諸葛亮軍に参加したその後に、どのような活躍をしたかは明示されていないのです。
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まとめ:三国志の孟獲(もうかく)と火神の子孫祝融(しゅくゆう)と配下たち
三國志の祝融と孟獲が、蜀漢の諸葛亮にただ負けるだけでなく、いろいろな策で対抗したことを解説してきました。
その様々な策略をねじ伏せた諸葛亮は、本当の神な軍師なのでしょうか。
祝融夫人は諸葛亮に敗れましたが、火の神な力をあまり発揮しなかったのです。多少諸葛亮たちを驚かせれば充分、と思ったのでしょうか。
そして、孟獲と祝融に味方した兀突骨の軍勢が、火に弱い事も語りました。火の神の末裔祝融と兀突骨軍が組めば、火から保護されたかもしれません。
また、祝融と孟獲の子供の花鬘も記載しました。花鬘の夫の関興がきっちり南蛮軍に付いてくれれば、諸葛亮軍に勝機を見出せたのでしょうか。
孟獲と祝融夫人たちは、三國志の中でも特に異才なので、面白く知れるでしょう。