三国志で道教を重んじた人物と言えば、五斗米道の張魯でしょう。
老子は中国史でも大思想家ですが、老子の道教を大事にしたのが張魯なのです。有名な思想を利用すると、権威付けにも使えるのでしょう。
そして張魯の元には、諫言を行う有能な部下がいました。間違いそうになった際に参謀がいると、セーフになることが多いでしょう。
また張魯は、仁義な劉備とも戦う予定だったのです。益州にやって来た劉備は、五斗米道の張魯を一番の敵と考えていたのでしょうか。
他にも、張魯は曹操軍と戦った際に、善人であることを示しました。どうすれば、実力者に善人だと思ってもらえるのでしょうか。
三國志の張魯を詳しく解説していきます!
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目次
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老子道徳経を重視した道教な五斗米道の張魯
三国志の張魯は、老子の道教を解釈して教える代わりに、五斗の米を獲得していた五斗米道教団の代表です。
ただ、怪しげな宗教と考える人たちもいたので、五斗米道の事を米賊と呼ぶ者もいました。
そして五斗米道の開祖は、張魯の祖父の張陵です。張魯の父は張衡で、妻は美女の盧氏と言われています。
また、張魯の五斗米道と張角の太平道は、類似点が多いと伝わっているのです。
張魯が、張角の黄巾の乱の残党をもっと取り込んでいれば、張魯が後漢朝廷を手に入れていたかもしれません。
張魯は、老子の道教を重んじる五斗米道の人物で、祖父は張陵(ちょうりょう)、父親は張衡(ちょうこう)、母親は蘆氏です。
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五斗米道の張魯の母は美人なので益州の劉焉から高評価でした
三国志の張魯には、美女な母がいたため、益州の劉焉から気に入られていたのです。
そもそも劉焉は、益州から後漢朝廷に対抗する考えがありました。
ですので、張魯や五斗米道を味方として、後漢政府との交渉を有利に進めようとしたのです。
そして劉焉は、たくさんの人々が益州に来たので、東州兵として管理しました。
また、劉焉の息子の劉璋は、劉焉ほどの才覚が無く、東州兵が暴走寸前だったのです。
ちなみに、超世の傑曹操は、青州の黄巾の乱の残党を組織し、青州兵を統括していました。
何かの残党や移民がたくさんいる際は、強大な力でまとめ上げると、私兵軍団として使えるのでしょう。
張魯の美人母は、益州の実力者劉焉君郎(りゅうえんくんろう)からも評判でした。
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漢寧王になろうとした張魯を諫めた閻圃
三国志の五斗米道の張魯は、大勢力になってきたので、漢寧王になりたかったのですが、閻圃から止められました。
- 後の五虎大将軍馬超に張魯が娘を与えようとした際に批判した楊柏
- 錦馬超の部下の猛将龐徳も一時的に五斗米道の張魯の元にいました
閻圃は、張魯が権勢欲で王になると、批判する勢力が現れ、領国経営が困難になると考えたのでしょう。
そして袁術は、四世三公の名門であり、後漢が衰退しているため、仲王朝を建国しました。
ですが、袁術には正統性と実力が足りなかったので、諸侯から非難され、最後を迎えたのです。
また、曹操は後漢で、皇帝になれるほどのパワーを持っていましたが、徳を示すために、周の文王を見習って、皇帝に就任しませんでした。
閻圃(えんほ)は、張魯が漢寧王に即位しようとした際に、批判し謙遜することを求めたのです。
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後の五虎大将軍馬超に張魯が娘を与えようとした際に批判した楊柏
三国志の張魯は、勇猛な馬超を味方とするために娘をあげたかったのですが、楊柏は非難しました。
曹操との一大決戦である潼関の戦いで、馬超の責任により、馬超自身の親族の多くを失ったためです。
張魯が今の感情で馬超に娘を与えても、結局は悲惨な最後になるということでしょう。
楊柏の発言は、的を射ていたため、馬超は激しく怒ったのです。
そして馬超が、劉備の軍師諸葛亮に投降したため、張魯の部下楊柏がその際に斬られた、と言われています。
人の批判を気軽にするのではなく、時と場所をわきまえるべきなのでしょう。
馬超孟起(ばちょうもうき)は、張魯から重用されており、娘がもらえそうでしたが、楊柏(ようはく)から妨害されました。
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錦馬超の部下の猛将龐徳も一時的に五斗米道の張魯の元にいました
三国志の張魯の部下には、曹操に忠義を示し、関羽に激しく抵抗した龐徳もいたのです。
錦馬超は、曹操の敵の劉備に味方しましたが、龐徳は、張魯と共に曹操の軍門に下りました。
そして武神関羽が魏に攻め込んで来たため、龐徳は棺を作成したのです。
関羽を打ち取れば棺に関羽を入れ、関羽を討てなければ、棺に龐徳自身が入る覚悟を示しました。
龐徳は、関羽との一騎打ちで、あわや関羽を打ち取るところまでいったのです。
ですが、龐徳は味方のはずの于禁から邪魔され、逆に関羽から最期を与えられました。
張魯の配下にいた龐徳令明(ほうとくれいめい)は、武神関羽に善戦しましたが、于禁から妨害を受け、最後が来たのです。
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益州の劉璋が張魯を危惧し劉備を呼び劉備は錦馬超を説得しました
三国志の張魯は、劉璋が張魯を警戒し劉備を招聘したので、戦に奔走しました。
張魯は、劉璋が劉備と共に攻め込んで来ると思っていたら、劉備と劉璋が戦を行ったのです。
そして劉備は、荊州付近に勢力があったのですが、呉の孫権から借りているような状況でした。
ですので、劉備は実のところ、益州を狙って劉璋の元に来ていたのです。
また劉備は、仁義を掲げておりカリスマ性も高いため、張魯の部下だったはずの錦馬超を説得し、いつの間にか味方としました。
張魯は、劉璋季玉(りゅうしょうきぎょく)だけでなく劉備玄徳(りゅうびげんとく)とも戦う必要があると考えていましたが、劉備の思惑は益州獲得だったのです。
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陽平関の戦いで五斗米道の張魯の弟張衛は曹操に対抗しました
三国志の張魯の弟張衛は、曹操軍に一旦は勝利しましたが、結局虎痴な許褚に最後を与えられたのです。
張魯は、曹操軍を恐れて逃亡しましたが、軍事や政治に必要な財物をそのままにしました。
曹操は、張魯が実は善人であると高評価し、後に張魯は曹操に登用されたのです。
曹操が人材収集家で、敵であっても良い所を見出そうとする偉人だから、という点も大きいでしょう。
そして、漢中を得た曹操は、慢心を恐れ蜀や益州を攻めませんでした。
かつて曹操が、荊州を獲得したすぐ後に、呉の孫権を攻め大敗した赤壁の戦いが、脳裏にあったのかもしれません。
五斗米道の張魯は、弟張衛(ちょうえい)により曹操軍に善戦したのですが、敗北し、張魯は曹操に付くことになりました。
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まとめ:三国志の張魯公祺(ちょうろこうき)は道教な五斗米道
三國志の張魯は、五斗米道で民衆を導き、乱世である種の安定を得ていたことを解説してきました。張魯が曹操に処刑されなかったのは、五斗米道のご加護なのでしょうか。
張魯の母が美人だったため、益州の劉焉を味方に出来たことも説明しました。三国志の世界でも、容姿端麗は武器になるのでしょう。
そして、張魯の元に錦馬超が避難してきたので、娘をあげて懐柔しようとしたことも記載しました。
どのような勇猛な人物も、異性関係で手懐ければ、使いこなせるのでしょうか。
また、関羽討伐戦で活躍した龐徳も、かつては張魯の元にいたことも書きました。張魯が、錦馬超と龐徳の二人をしっかり確保していれば、劉備や曹操にも対抗し得たのではないでしょうか。
張魯を知ると、老子や道教を深く知るきっかけにもなるでしょう。