三国志の諸葛亮孔明に呉軍で対抗し得るのは、陸遜でしょう。
陸遜が、いきなり大軍を率いて英雄の劉備を打ち負かした夷陵の戦いは、語るしかないのです。
普通は失敗するはずなのに、陸遜は出来てしまうところが、偉人のゆえんでしょう。
そして、陸遜の子孫に陸抗がいましたが、しっかり陸遜を助けているのです。親思いな良い人物は、どのような業績を残したのでしょうか。
陸遜の妻のうわさも説明していきます。あの超美人の娘ではと、うわさされているのです。本当なのでしょうか・・・
また、名将な陸遜は残念な憤死で亡くなったとされています。なぜ陸遜ほどの人物が、憤死が死因になってしまったのでしょうか。
三國志の賢人陸遜を詳しく解説していきます!
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目次
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陸遜の才能が輝いた劉備との夷陵の戦い
関羽と張飛の復讐心に燃える劉備との夷陵の戦いで、陸遜の火計が炸裂しました。
劉備は英雄で大軍を繰り出しているので、多くの識者が蜀漢の勝利を予想していたのです。
ただ、怒り過ぎた劉備はあまりにも戦線を拡大し過ぎてしまい、火への対処を怠ることで、陸遜に大敗北を喫しました。
そもそも、陸遜は夷陵の戦いで初めて、呉軍の大軍を率いる立場に就任しました。
諸将の反発はかなり大きく、敵の劉備が進軍するたびに陸遜への批判が生じたのです。
陸遜はまるで、歴戦の勇将のように戦機を待ち、劉備軍の弱点を上手く引き出し撃破しました。
劉備は、関羽と張飛の恨みに囚われ、夷陵の戦いを引き起こしましたが、陸遜の巧みな火の計略で敗れたのです。
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負け戦な夷陵の戦いでも天才を発揮した諸葛亮孔明
陸遜に夷陵の戦いで大敗した劉備を助けたのが、諸葛亮孔明の石兵八陣なのです。
諸葛亮らしい神のような陣の前に、優秀な陸遜も翻弄されました。
夷陵の戦いを諸葛亮が指揮していたら、劉備も大敗しなかったかもしれません。
劉備は自らが有能な将軍や軍師ではなく、漢の高祖劉邦のような将の将と言える人物だったのでしょう。
また、曹操と劉備が戦うことで展開した三国志のひとつの時代の終わりが、訪れた時期だったのです。
ちなみに、陸遜が石兵八陣から脱出出来たのは、諸葛亮の妻の父が導いたためとされています。
三国志で陸遜は、夷陵の戦いで劉備に勝ちましたが、諸葛亮の巧みな防御陣で防がれたのです。
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武神関羽の性格上の弱点を利用した陸遜
呉を侮り驕り高ぶっていた関羽の自尊心を満足させ、油断を誘う文書を渡すことで、陸遜は荊州攻略の有利を作り出しました。
そもそも関羽は、自分の娘と呉の主君孫権の息子の縁談を侮辱した上で断るほど、呉の武将たちを侮っていたのです。
ここで怒らずに、逆に活用しようとするところが、陸遜の優れた能力でしょう。
そして、関羽は武人としては神クラスですが、陸遜の本質や自らの問題を見落とすなどの人物眼が欠けている点も見受けられます。
関羽は、誰か凄い軍師や参謀と組んでこそ、力が発揮出来たのではないでしょうか。
三国志の陸遜は、関羽の尊大さを逆手に取り、呉への防御を弱めさせ、荊州制覇を目指しました。
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三国志の陸遜は無念な怒りで憤死な最後を迎えました
呉では後継者争いが起き、陸遜は孫権に要請しましたが拒否され、逆に疑惑を追及されたことで、憤りが死因になっていきました。
英明なはずの孫権も、孫和と孫覇と同等に後継者として待遇し、呉全体の混乱を招く二宮の変を引き起こしたのです。
陸遜は何とか後継者争いを終わらせるために、孫和と孫覇の同等な対応を止めさせようとしました。
政治力のある孫権も、子供のことになると情が厚くなり過ぎ、弱かったのかもしれません。
また、二宮の変は孫和と孫覇が二人とも処罰される悲惨な終わりとなりました。
どこまでもいさかいを起こすだけでは、何も得られないどころか、前より悪くなってしまうのでしょう。
陸遜は、戦果もあり名声も高かったのですが、主君孫権の後継者争いは収められず、疑われ憤死してしまいました。
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陸遜の息子の陸抗(りくこう)、親孝行で名将な子孫
孫権の陸遜への疑念をすべて解消した親孝行な子供が、陸抗です。
陸抗は呉の最後の名臣とも言うべき人材で、陸抗の死後に呉も滅亡してしまいました。
蜀漢で言うと大将軍姜維な人物かもしれません。
そして、曹魏の後に成立した晋の名将羊祜(ようこ)と陸抗は、主君に陸抗が嫌疑をかけられるほど、仲が良かったのです。
陸遜の子孫陸抗が、羊祜を上手く味方に引き入れられれば、呉が挽回するチャンスもあったのかもしれません。
かつて魏の策謀家鍾会と蜀漢の大将軍姜維が、組んで乱を起こしたので、あながち無い話ではないでしょう。
三国志の陸抗幼節(りくこうようせつ)は、陸遜の子孫であり、陸遜への疑惑を払拭してみせました。
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三国志陸遜伯言(りくそんはくげん)は名門の生まれ
陸遜は呉の中でも名門の出身で、陸一族を統括し、若年の時から人々から評価されてもいました。
- 陸遜の妻は小覇王孫策の娘
- 親孝行で予言者な陸績(りくせき)も陸遜の親戚
呉は山越という異民族とも近かったので、陸遜は山越討伐を積極的に行い、呉を興隆させていったのです。
そして、三国志はゲームにもなっていますが、人気で有名な無双で陸遜は、美少年なイケメンに描かれています。
歴史書三国志の小説でも、陸遜は美男イケメンとして書かれているのです。
外見も良く賢く国家にも尽くしているなら、批判しようが無いでしょう。
また、魏と呉で何度か戦があったのですが、劉備の大軍にすら勝利した陸遜は、簡単に勝っていくのです。
諸葛亮孔明と陸遜が、本気で同盟して魏に攻め込んだら、さすがの司馬懿仲達も亡くなっていたでしょう。
三国志の陸遜は、若い年齢から評判が良く、呉の名族の生まれだったのです。
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陸遜の妻は小覇王孫策の娘
三国志の陸遜の妻は、呉の君主孫権の兄の孫策の娘とされています。
孫策の妻は、かなりの美人で江東のニ喬と呼ばれる大喬でした。
ですので、陸遜の妻は孫策と大喬の子供といううわさがあるのです。
そして、孫策は戦に連戦連勝だった覇王項羽に似ているため、小覇王と評価されており、孫策も項羽のように若死にしました。
陸遜が劉備らを打ち負かすほどの戦上手だったのは、妻からの好影響なのでしょうか。
また、江東の二喬のもう一人は小喬です。周瑜の妻でした。
ちなみに、周瑜も陸遜と同様に火計を得意とした軍師な将軍で、イケメン美男子と言われています。
陸遜の妻は孫策の娘ですから、呉の君主孫権と陸遜の親戚なのです。
親孝行で予言者な陸績(りくせき)も陸遜の親戚
四世三公の名門袁術の元に訪れた際に陸績は、みかんを母のために持って帰ろうとして感心されたのです。
三国志陸遜の親戚の陸績は、親孝行な子供だったのでしょう。
陸績は予言者としても評判で、自分が亡くなる日を知っており、自分が死んで60年後に天下統一という風に述べていたのです。
30歳くらいで死去しているため、もっと長生きしていたら、この予言力で大活躍!の未来もあったでしょう。
そして、臥龍諸葛亮孔明に匹敵する知略な鳳雛龐統(ほうとう)は、陸績を馬のようで顧邵(こしょう)を牛のようと評価したと言われています。
馬は速いが多くを運べず、牛は遅いが多くを持てるという意味です。
三国志陸遜の親戚の陸績公紀(りくせきこうき)は、出されたみかんを母親にあげようとして、名族の袁術に評価されました。
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まとめ:三国志陸遜伯言(りくそんはくげん)は夷陵の戦いの英雄で能力も高いが憤死な最後
三国志陸遜は、生まれが良いだけでなく、呉に尽くした才人であることを解説してきました。
陸遜だけでなく息子で子孫の陸抗も、呉に仕えた名将だったことも説明しました。
親子二代にわたって名将を輩出した陸氏は、呉でも名家中の名家と言えるでしょう。
また、陸遜の親戚のみかんと予言で有名な陸康も記載しました。三国志には、本当に多才な人材がいるのです。
そして、陸遜が憤死な死因で終わってしまったことも書きました。かなり悔しい心残りな最期だったからでしょう。
他にも、劉備や諸葛亮と陸遜が競ったことも述べました。英雄同士の対決は、見物だったのではないでしょうか。
諸葛亮孔明のような賢者が好きな人は、三国志の陸遜も知ってみると、楽しいでしょう。