三国志の超世の傑曹操の前に、司空に就任していたのが張喜で、先祖が張耳なのです。
陳余と張耳は、藺相如と廉頗の刎頸の交わりに、憧れていました。なぜ仲良しだったにも関わらず、張耳と陳余は後には、敵対したのでしょうか。
そして張耳が、陳勝呉広の乱で長期的な展望を提唱していたことも、説明していきます。西楚覇王項羽の軍師范増も、張耳と似たような策を展開し、成功しているのです。
また、敵対し出した張耳と陳余が、井陘の戦いで激突しました。張耳には、前漢の三傑の国士無双韓信が付いていたので、陳余が大軍でも、容易には勝てないのではないでしょうか。
張耳と三國志を詳しく解説していきます!
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目次
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廉頗と藺相如のように刎頸の交わり関係だった張耳と陳余
張耳は、陳余と認め合った間柄で、藺相如と廉頗を見習って刎頸の交わりを行っていました。
しかし陳勝呉広の乱以後は、陳余が張耳を助けなかったことから、犬猿の仲となってしまったのです。
そして廉頗は元々は、藺相如を弁舌を頼みとしているだけ、と見下していました。
なので藺相如は、廉頗との争いを避けていたのですが、部下から臆病過ぎると非難されたので、廉頗と戦わないことで秦に弱味を見せないようにしていたと語ったのです。
また、張耳に藺相如のような度量があれば、陳余と本当の刎頸の交わりになれたかもしれません。
張耳は、廉頗(れんぱ)と藺相如(りんしょうじょ)が才能を称賛し合っていたことを真似、陳余と刎頸の交わりを結んでいました。
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陳余と張耳は陳勝呉広の乱で趙を占領した際に武臣を趙王に就任させたのです
張耳は、趙攻略が上手くいったため、陳勝に武臣の趙王即位を打診しました。
陳勝は、自分から独立するような張耳の申し出に腹が立ったのですが、趙を敵に回すことを恐れ認めたのです。
そして張耳は、韓広に燕を攻撃させたところ、韓広も武臣と同じように独立しました。
韓広の勝手を張耳は認めたくなかったのですが、秦と楚に挟まれている中、燕を再度攻略するのは難しいため、結局韓広の独立が承認されたのです。
ちなみに、武臣も韓広もあえない最期を迎えているので、どさくさに紛れて何かを奪うのは、後々が危険なのではないでしょうか。
張耳は、陳勝王の置かれている立場を巧みに利用し、武臣(ぶしん)を趙王に就任させることが出来ましたが、韓広の燕王即位も認めなければなりませんでした。
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陳勝呉広の乱で張耳は陳勝を秦の始皇帝に代わる皇帝とする良策を述べたのです
張耳は、秦の二世皇帝胡亥と趙高の圧政への抗議である陳勝呉広の乱で、陳勝に皇帝就任の献策をしました。
そもそも陳余と張耳は、賢者として知れ渡っていたため、陳勝に来訪を大歓迎されたのです。
そして、陳勝が張楚の王になろうとしていたので張耳は、陳勝の私欲が天下に知られないように、春秋戦国時代の王族を王にすべきと主張しました。
しかし陳勝は、目先のメリットに囚われ張楚の王となり、後に部下に見限られて、残念な最後となったのです。
張耳は、陳勝に私心を見せずに王族を味方とすべきと進言しましたが、陳勝(ちんしょう)は張楚の王に就任し、呉広(ごこう)と共に反乱に飲み込まれていきました。
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前漢の三傑の国士無双韓信に天下三分の計を薦めた蒯通はかつて張耳の趙攻めに協力したのです
張耳は、陳勝呉広の乱の際に趙攻撃の指示を受けたのですが、趙は想像以上に攻略し難い地域でした。
後に韓信の軍師となる蒯通は、張耳が趙の城主の命を守れば、先を争って投降して来ると進言したのです。
趙の城主は、秦の法律を背景に民衆を弾圧してきたため、このままだと民衆に斬られる危険性がありました。
そして蒯通は、国士無双韓信が劉邦と項羽と肩を並べるくらいの勢力だった際に、天下三分の計を行うと身を保身出来ると主張したのです。
ちなみに、韓信は後に劉邦から粛清されるため、蒯通の策を採用しなかったことを後悔した、と伝わっています。
張耳は、天下三分の計を前漢の三傑の韓信(かんしん)に教えた蒯通(かいとう)の策で、趙を戦わずに降伏させることに成功しました。
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鉅鹿の戦いで張耳は陳余に援助してもらえず激怒しましたが覇王項羽が章邯と王離を撃破して助かったのです
張耳は、秦の王離と章邯から包囲され最後を迎えそうになったため、陳余に攻撃要請したのですが、陳余は命を惜しんで突撃しませんでした。
そして、かつては刎頸の交わりだった張耳と陳余の関係は崩壊し、お互いの首を狙う仲に変化してしまったのです。
また西楚の覇王項羽は、秦に劣勢だったのですが、後世で破釜沈船と称される計略で決死の攻撃を仕掛け、王翦の子孫の王離を捕縛しました。
王翦は、項羽の祖父の項燕を大敗させた大将軍なので、子孫で仇討ち出来たということでしょう。
張耳は、刎頸の交わりの陳余(ちんよ)なら助けてくれると信じていたのですが、裏切られ、結局西楚の覇王項羽(こうう)の決死の軍隊に救出されたのです。
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井陘の戦いで陳余を前漢の三傑の国士無双韓信と共に背水の陣で撃破した張耳
張耳は、恨みのある陳余と戦うチャンスに恵まれ、韓信の背水の陣で何とか陳余に勝利しました。
そして劉邦は、兵力が足りていなかったので、韓信に軍勢を渡すように要求したため、張耳たちは陳余よりもかなり不利だったのです。
ですが韓信は、国士無双と称された名将だったので、川を背に軍勢を配置し、小軍勢にも関わらず陳余軍を圧倒しました。
また陳余は、李左車から井陘口を守れば、韓信軍を簡単に防げると献策されていましたが、趙が大軍だったことと陳余のプライドが高かったため、採用されなかったのです。
張耳は、陳余が大軍の驕りで戦略ミスを起こしたため、前漢の三傑の韓信の背水の陣で打ち負かしました。
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戦国四君の信陵君に仕えたことのある張耳と交流していた劉邦
張耳は、前漢の初代皇帝高祖劉邦が、信陵君魏無忌を尊敬していたので、知り合うことが出来たのです。
そして信陵君は、味噌屋や博徒であっても有能な者がいれば、採用しようとするほどの食客好きでした。
しかし、同じく戦国四君の平原君は、信陵君を博徒や味噌屋と関わる小人として侮ったのです。
すると信陵君は、平原君の食客集めは上辺を飾っているに過ぎない、と批判しました。
この件は一気に広まり、平原君の食客が雪崩を打って信陵君に鞍替えした、と言われています。
張耳と劉邦から敬われていた信陵君魏無忌(しんりょうくんぎむき)は、平原君以上に食客を重用し、博徒や味噌屋の中からも賢者を探していたのです。
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まとめ:張耳(ちょうじ)の能力と三国志と陳余信陵君劉邦と韓信の背水の陣
張耳が、陳勝呉広の乱や楚漢戦争で、どのように立ち回ったかを解説してきました。陳勝や項羽が、張耳を軍師に出来ていれば、最終的な勝利者になれたかもしれません。
そして武臣が、陳余と張耳のおかげで、趙王に就任したことも記載してきました。陳勝は張耳を手放さなければ、張楚の王でいられたのではないでしょうか。
また、陳余が鉅鹿の戦いで王離と章邯軍を恐れ、張耳を救援しなかったことも述べてきました。どのような親しい間柄も、死を前にすると壊れるものなのでしょう。
張耳は、劉邦だけでなく戦国四君の信陵君からも認められた人物なので、陳余とは能力に結構差があったのではないでしょうか。