曹操と袁紹は後々には戦いますが、元は仲の良い関係だったのです。
反董卓連合軍で共に悪と戦った曹操と袁紹ですが、後に戦となりました。曹操か袁紹のどちらかがもっと器が大きければ、いつまでも仲良し関係だったのでしょうか。
そして、官渡の戦いの際に、曹操の本拠地を奪おうとした孫策も語ります。孫策は、江東の小覇王と称されるほどの勇将なので、成功したのでしょうか。
また、袁紹軍の能力の秀でた軍師田豊も説明します。袁紹は田豊がいたからこそ、大勢力になれたと言えるほどの軍師なのです。
他にも、曹操と戦っていた劉備についても記載します。袁紹は劉備に味方して、曹操を打ち負かしたのでしょうか。
三國志の曹操と袁紹を詳しく解説していきます!
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目次
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曹操の野望と袁紹のプライドが激突した官渡の戦い
三国志の袁紹は、段々強大化する曹操を警戒し、自分が大勢力の内に踏み潰すことにしました。
普通軍隊の勝負は数が多い方が強いわけですが、袁紹の軍師の中には、大戦を行うことに反対の人もいたのです。
ですが、袁紹も曹操との大戦を望んでおり、他の軍師たちが軍勢の規模で押し切れると主張したため、官渡の戦いとなりました。
そして、曹操の軍師には前漢の三傑のひとり張良になぞらえられた荀彧がおり、袁紹の部下たちを的確に論評したのです。
袁紹は大軍だが法律の統制が甘く、将軍も軍師もそれぞれに欠点を抱えており、内部崩壊を起こすだろうと述べました。
官渡の戦いの際に、袁紹は大勢力でしたが、法が軽んじられ能力の高い部下たちにも弱点があったため、結局曹操が勝利したのです。
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官渡の戦いで曹操の許都を狙った小覇王孫策
三国志の孫策は、官渡の戦いで忙殺されている曹操の不意を突こうとしましたが、逆に最期を迎えました。
孫策は、江東を制圧する際に、有能な頭ばかりを打ち負かしたのです。
優秀な頭には、当然能力の高い腹心や恩義を感じている武将がいるため、孫策は暗殺されてしまいました。
そして曹操の軍師の郭嘉は、孫策が江東を掌握した背景を熟知していたので、孫策を恐れる曹操たちに杞憂と述べていたのです。
曹操の参謀には、非常に能力の高い人物が多いため、曹操が戦わずして勝利するケースも多くありました。
孫策伯符(そんさくはくふ)は、官渡の戦いの際に、曹操の本拠地を攻撃しようとしましたが、自らの足場の方が崩れ、最期が来たのです。
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曹操と袁紹は元々は仲の良い友達関係だったのです
曹操と袁紹と張邈は、親友と呼べるほどに親しい間柄だったのです。
ただ、乱世の荒波に揉まれ、友情はいつの間にか、対立の火種となっていきました。
張邈が、袁紹と仲が良くない呂布と親しく交流するようになったので、張邈と袁紹が不仲になり始めたのです。
曹操と袁紹も親しい関係性なため、張邈は袁紹と曹操から排除されてしまうのではないか、と不安を感じました。
とうとう張邈と曹操は戦うことになり、曹操はかつては親友関係だった張邈に最後をもたらしたのです。
そもそも若い頃のように、曹操と袁紹たち友達関係だけで世界が完結しないため、否応なしに他の武将たちの利害関係も絡んできます。
本当は曹操と袁紹は、親しい関係のまま、過ごしたかったのかもしれません。
曹操と袁紹はかなり仲の良い間柄でしたが、親友な張邈と戦ったように、袁紹と曹操の関係も悪化していったのです。
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曹操と官渡の戦いで決着をつけようとした袁紹を諫めた軍師田豊
曹操の実力を警戒した田豊は、袁紹に戦わないことを献策しましたが、袁紹は士気を低下させるとして、田豊を牢獄に放り込んだのです。
曹操は人材収集家として評判が高いのですが、牢獄に軍師田豊が入れられたと聞くと、官渡の戦いでの勝利を確信したと言われています。
結局田豊の予想通り袁紹は曹操に負けてしまったため、牢獄の役人は田豊が釈放され重んじられると考えたのです。
しかし、田豊は自分が正しいことを述べていたことで、袁紹は恥じているので、腹いせに処刑されるだろうと思っていたら、やはり最期を与えられました。
田豊元皓(でんほうげんこう)は、袁紹の敗北を防ごうとしましたが、失敗し逆に処刑されたのです。
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曹操と戦う劉備というチャンスを逃した袁紹
三国志の劉備は、曹操が後漢皇帝を掌握し漢帝室を蔑ろにしていたため、曹操と戦っていたのですが、袁紹は援軍を出しませんでした。
袁紹の軍師田豊は、曹操の背後を攻撃して劉備を助けるべきと述べましたが、袁紹は子供の体調で出撃しなかったのです。
袁紹は自らが名門出身ということで身を立てているため、一族を大事にする性格だったのでしょう。
ただ後に、袁紹が官渡の戦いで大敗したことを考えると、ここで曹操を攻略しなかったことが大きかったと言えます。
ちなみに、曹操の理解者で軍師の郭嘉は、袁紹の重要事項を決断出来ない性格を見抜いており、曹操に劉備撃破を強くすすめたのです。
劉備と曹操が戦うという、千載一遇のチャンスを活かせない袁紹の性格が、露呈してしまいました。
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四世三公の名家袁紹の猛将顔良の弱点
三国志の袁紹の元には、自慢の武将顔良がいました。
かつて虎牢関の戦いの際に、董卓の部下の華雄に袁紹たちの連合軍の武将が打ち取られたのです。
袁紹はその難局の際に、顔良がいればと述べたほど、顔良の武勇を評価していました。
ですが、曹操の軍師荀彧は顔良の本質を見抜いており、武勇が高いのではなく、才知が欠けた暴勇に過ぎないと主張したのです。
官渡の戦いで、顔良は孤立無援に陥り、武神関羽にすぐに討たれました。
そもそも、関羽自体が非常に武力が高いため、関羽の能力が高かった点も考慮すべきでしょう。
猛将顔良は、袁紹からは高評価でしたが、曹操の参謀荀彧から欠点を見通され、関羽に最後を送られたのです。
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袁紹軍の檄文を作成した三国志の司馬相如?陳琳
三国志の陳琳は、官渡の戦いでの袁紹軍の士気を鼓舞するため、為袁紹激を執筆したのです。
いにしえの昔、司馬相如という名文家クラスであると、陳琳は自らを評価したとされています。
そして、曹操が官渡の戦いで勝利し、曹操を痛烈に批判した陳琳も呼び出されたのです。
陳琳は正直に、放たれる前の矢は止められないという風に述べたため、最後を迎えずセーフでした。
曹操は人材収集家なので、陳琳の名文な才能を惜しんでもいたのでしょう。
陳琳は、曹操の息子の曹丕からも高評価でしたが、文才のある曹植からは、批判されている面もありました。
袁紹の部下の陳琳孔璋(ちんりんこうしょう)は、檄文で能力を示し、曹操からも認められ生き永らえたのです。
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まとめ:三国志の曹操孟徳(そうそうもうとく)と袁紹本初(えんしょうほんしょ)の官渡の戦いでの能力
三國志の曹操と袁紹の官渡の戦いと内実を解説してきました。勢力の大きさだけでなく、内部の人物の能力もかなり重要ということです。
曹操と袁紹が、仲良しな友達関係から方針の違いで、戦い始めたことも述べました。現在の人間関係で仲が良くとも、今後そのままじゃなくなる重要な事例でしょう。
そして袁紹の部下には、武勇に長けた顔良がいたことも語りました。顔良は思慮の浅さで簡単に負けましたが、曹操なら有能な軍師とセットで、上手く使いこなしたかもしれません。
袁紹は人材を集める事を好んでいて、曹操は人材を使う事を重んじていたのではないでしょうか。
曹操がいたからこその袁紹、袁紹あっての曹操と言えるほど、三国志で良い意味でも悪い意味でも深い関係なのです。