三国志曹丕!兄弟、妻側室、死因、曹操、後継者、息子、司馬懿も解説

三国志の乱世の奸雄曹操の息子曹丕も、偉人でしょう。

曹操の後継者は元々は、兄弟の曹昂とされていました。なぜ、曹昂ではなく曹丕が、曹操の後継者となれたのでしょうか。

そして曹丕が後継者となった後、曹操の貴重な軍事力だった青州兵、がいなくなってしまいました。曹丕時代に起きた変化は、青州兵だけだったのでしょうか。

また、曹丕の死因についても説明していきます。実は、曹丕の死を予見している人物もいたのです。

他にも、曹丕が皇帝に即位した前後関係も記載していきます。皇帝は凄い立場ですが、曹丕が皇帝になると本当に勝者になれたのでしょうか。

三國志の曹丕を詳しく解説していきます!

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曹丕は兄の曹昂が宛城の戦いで父曹操の身代わりとなったため後継者になれました

三国志の曹丕には、兄に曹昂がおり、曹操が女遊びで油断していたので、犠牲となってしまったのです。

曹昂が生きていたら、弟曹丕が後継者ではなかったかもしれません。

そして曹丕は、後に兄曹昂のことをそこまで能力が高くない、と評価しています。

ただ、曹昂がいろいろな出会いで成長する事も考えられ、曹昂が問題のある人物ではなかったため、曹丕の発言が必ずしも正しいとは言えないでしょう。

また曹丕だったら、曹操の代わりに犠牲とならず、曹一族の繁栄が宛城の戦いで終わった可能性も、あるのではないでしょうか。

曹昂子脩(そうこうししゅう)は、超世の傑曹操の犠牲とさせられたことで、弟曹丕が後継者候補に挙がってきました。

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曹丕は兄弟で文才に長けている曹植と曹操の後継者争いを繰り広げたのです

三国志の曹丕には、手強いライバルで詩人の弟曹植がいました。

曹丕は政治的な事柄に長けていましたが、曹植は詩の能力に優れており、詩聖とも称されていたのです。

そもそも曹操自身が詩人であり、特に短歌行が有名とされています。

曹操は、曹丕と曹植が甲乙付け難いので、軍師賈詡に助言を求めたところ、袁紹と劉表の事例を挙げられたので、曹丕が後継者で決着したのです。

そして曹丕は、曹植を追い落とすために、七歩歩く間に詩を作成するように命じました。

曹植は詩で、曹丕の情に訴えることに成功し、生き永らえることが出来たのです。

曹丕は曹植を負かして後継者となれましたが、曹植子建(そうしょくしけん)の詩の才能には勝てませんでした。

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曹操が最後を迎えると曹丕の元から青州兵が去り敵の劉備が交流を求めて来たのです

三国志の曹丕の父曹操は、懐の深い人物で、黄巾の乱の残党を青州兵と名付け活用していました。

ですが、曹操が亡くなると青州兵は、曹丕を見限って帰ったのです。

やはり曹丕には、曹操ほどの器量は無かったのでしょうか。

そして劉備は、曹操が死去したので、良い機会と考え、曹丕に使者を送りました。

曹丕は劉備が、父曹操の死を利用しようとしていると考え、怒ったのです。

ここで曹丕が劉備を受け入れていれば、劉備が軍門に降る道もあったかもしれません。

曹丕は、父曹操の精鋭青州兵を引き留めることが出来ず、劉備玄徳(りゅうびげんとく)の父曹操の死への態度に怒り、中国統一を遠ざけてしまいました。

⇒黄巾の乱張角!なぜ、スローガン書物、曹操劉備平定、張梁将軍も解説

劉備配下の孟達が追い詰められ曹丕に鞍替えしてきたのです

三国志の曹丕は、劉備の部下孟達が寝返って来たため、厚遇しました。

曹丕は敵を上手く利用するためにも、側近たちが驚くほど、孟達を重用したのです。

しかし後に、曹丕が最後を迎えた後に、孟達は立場が不安定になったので、蜀漢に寝返ろうとしました。

そして司馬懿は以前から、孟達の性質を疑っており、再び裏切るのではないかと危惧していたのです。

司馬懿は孟達が鞍替えする前に、電撃的に軍勢を動かし打ち取りました。

乱世だからといって、自分の都合で何度も裏切っていると、結局は消されてしまうのでしょう。

曹丕は、敵の降伏を促し敵に対処させるために、敵の孟達子度(もうたつしど)を厚遇したのですが、後に孟達は再度裏切ろうとしたのです。

⇒孟達三国志!能力、最後、司馬懿、蜀諸葛亮、魏曹丕、劉備劉封も解説

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曹丕は病が死因で最期を迎えました

三国志の曹丕は、40才くらいで病で死去したのです。

呉の主君孫権は、曹丕よりも年上だったため、曹丕が良い政治を長く続けることを、憂慮していました。

すると部下の闞沢が、曹丕の名前の丕は、十にあらずという意味なので、あまり長生きしないことを予測したのです。

曹丕が、皇帝に就任して7年ほどで、曹丕は亡くなりました。名は体を表すとは、このことなのでしょうか。

また朱建平は、曹丕は八十歳くらいまで生きられるが、40歳くらいで壁が訪れる、と予言していたのです。

曹丕は、病が死因で40歳くらいで最後が来ましたが、孫権配下の闞沢徳潤(かんたくとくじゅん)は、曹丕が短命であることを予見していました。

⇒曹操と皇帝!ならなかった、天才、魏武、息子、子孫日本、劉備も解説

曹丕の側室甄姫は元は袁紹の息子袁煕の妻でした

三国志の曹丕は、側室に甄氏がいましたが、元は四世三公の名門袁紹の子供袁煕の嫁だったのです。

曹丕は、甄姫が絶世の美女であることを知っており、父曹操が袁紹に勝利したので、甄姫も獲得しました。

そして曹丕の息子には、曹叡がいるのですが、実は袁煕の子供という説もあるのです。

曹丕が他人の妻を無理に奪った報い、なのでしょうか。

また甄姫は、曹丕が後に他の女性を可愛がるようになったので、嫉妬して批判したので、曹丕から最期を与えられました。

甄姫は乱世の力に翻弄された、哀れな美人に過ぎなかったのでしょうか・・・

曹丕は、四世三公の名家袁紹の息子袁煕(えんき)の妻甄姫(しんき)を奪い、自らの嫁にしましたが、後に激怒して最後を送ったのです。

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曹丕は父曹操を超えるため後漢皇帝劉協に司馬懿と共に禅譲させたのです

三国志の曹丕は、後漢の献帝劉協に禅譲を暗に指示し、司馬懿の助けで魏の文皇帝に即位しました。

ただ敵の劉備は、曹丕の皇帝即位を喜ばず、蜀漢の昭烈皇帝に就任したのです。

そして後に、呉の孫権も大皇帝になりました。

曹丕は、確かに皇帝に就任しましたが、劉備や孫権も皇帝となったので、実際上は三國志が顕在化しただけかもしれません。

また、曹丕には腹心として司馬懿がいましたが、あまりにも賢いため、曹丕の子孫たちは司馬懿を統御出来なくなったのです。

曹丕は、後漢の皇帝劉協伯和(りゅうきょうはくわ)から禅譲を受けましたが、劉備や孫権も皇帝に就任し、大賢者司馬懿もいたので、魏王朝は安泰ではありませんでした。

⇒漢王朝最後の皇帝!劉協、献帝、末裔、曹操司馬懿、滅亡、皇后も解説

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まとめ:三国志の曹丕子桓(そうひしかん)の兄弟と評価と逸話

三國志の曹丕とその兄弟が、どのような人物かを解説してきました。兄弟への対処を誤れば、曹丕も最悪、生きていなかった可能性はあるでしょう。

そして曹丕が後継者になると、劉備が近付いて来たことも説明してきました。劉備は曹操でも苦労した人物なので、あまり近寄らせなかった曹丕は、正解だったのかもしれません。

また曹丕の元に、劉備配下の孟達が訪れたことも、記載してきました。孟達を上手く待遇したことで、曹丕は劉備に匹敵する器量があることを天下に示したのでしょう。

他にも、曹丕の妻甄姫が、元は袁煕の嫁だったことも書いてきました。

複雑な異性関係があると、そちらにエネルギーが奪われるので、曹丕が結婚していない女性を側室にしておけば・・・

曹丕は、まさに乱世の奸雄曹操の息子と言える、曲者な皇帝でしょう。

⇒曹叡有能!死因、後継者養子、側近、母甄姫、卑弥呼、曹丕袁煕も解説

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