藺相如と三国志!完璧故事、実在どんな人?廉頗刎頸の交わりも解説

三国志の高堂隆は、主君が呼び捨てにされたので、藺相如のように楽器を叩かせようとしました。

藺相如は、秦王から無理難題が持ち込まれた際に、勇気を奮ったのです。春秋戦国時代には、縦横家として蘇秦や張儀がいますが、藺相如は性格上の気高さを弁舌で示しました。

そして、廉頗将軍に誤解されていた藺相如は、趙での内乱を避けていたのです。藺相如の賢明さが無ければ、廉頗のせいで、趙が秦にすぐに併合された可能性もあるでしょう。

また、史記の司馬遷は、藺相如を勇敢なだけでなく賢者でもある、と評価していました。様々な偉人を論評した司馬遷からの好印象は、絶大な意味を有しているでしょう。

ちなみに、藺相如の読み方は、りんしょうじょです。

藺相如と三國志を詳しく解説していきます!

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強大な秦の昭襄王から和氏の璧をしっかり持ち帰ったことで藺相如は完璧の故事成語を誕生させました

藺相如は、皆が嫌がる昭襄王との交渉を、巧みな話術で成し遂げたのです。

そもそも秦の昭襄王が、宝物である和氏の璧と秦の15の城を交換したい、と趙に提案してきました。

本当に和氏の璧で15もの城が手に入るなら、良いトレードですが、秦は強国なので一方的に反故にし、璧も奪われる危険性があったのです。

そして藺相如は、趙の恵文王から賢者だと思われていたので、和氏の璧と15城の交換のために秦を訪れたのですが、案の定昭襄王は約束を破棄しました。

藺相如は、秦の昭襄王が15城と和氏の璧の交換を反故にしたため、巧みな弁舌でまくしたて、和氏の璧と自分自身を安全に帰国させたので、完璧と称されたのです。

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繆賢は藺相如のおかげで恵文王から罪を許されたので和氏の璧の使者に藺相如を推薦しました

藺相如は、主君の繆賢が恵文王から刑罰を受けそうになった際に、良い献策を行うことで、助けたのです。

そして繆賢は、趙王から処罰されそうになったので、燕に逃亡しようとしていました。

すると藺相如は、燕王は趙王から重用されているからこそ、繆賢と親しくしていたに過ぎないと述べたのです。

ですので、繆賢は自分から趙王に処罰を求めたところ、恵文王は正直であるとして放免しました。

もしも繆賢が、そのまま燕王の元に訪れていたら、燕王に逆に批判され送り返されるだけでなく、そのまま処刑の憂き目に遭っていたかもしれません。

藺相如は、恵文王から罪を与えられそうになっていた繆賢(びゅうけん)に、燕王と趙王の利害得失を示すことで、救出に成功したのです。

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廉頗は優れた弁舌で藺相如が昇進したことを妬んでいましたが誤解が解け親密になったことが刎頸の交わりの由来です

藺相如は、和氏の璧持ち帰りと趙王秦王の会談成功の功績で、廉頗よりも出世しました。

廉頗は、将軍として功績を獲得してきたため、藺相如を口達者な人物に過ぎないと見下していたのです。

そして藺相如は、廉頗と鉢合わせになることを避け、時には物陰に隠れました。

あまりにも卑屈なので、藺相如の部下は怒ったところ、藺相如は趙のために廉頗と戦うことを避けていた、と語ったのです。

すると廉頗は、自ら藺相如の元を訪れ、謝罪し処罰を求めて来たので、藺相如は許し深い間柄に発展しました。

藺相如は、廉頗(れんぱ)から嫉妬されていたため、争いを避けていましたが、本心を述べることで、廉頗と刎頸の交わり関係となれたのです。

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藺相如は病が重くなり最後を迎え趙括が長平の戦いで敗北した後に廉頗も亡命したのです

藺相如は、趙が滅亡寸前に陥った長平の戦いの大敗を防げず、病が悪化し最期を迎えました。

秦は商鞅の法治主義で、大国化していましたが、趙は一人一人の武将の力量に頼るところが大きかったため、遅かれ早かれ秦に飲み込まれていたのではないでしょうか。

そして、藺相如が秦の昭襄王と和氏の璧で、会談した際に、秦王の対応に激怒し勇気を見せたので、怒髪天を衝くの故事成語も作られたのです。

ちなみに廉頗は、亡命後に趙に戻ることを希望していましたが、趙王から歳を取り過ぎたと思われ、再登用はされませんでした。

藺相如は、怒髪天を衝くを生み出しましたが重病で最後が訪れ、廉頗は趙王と不仲で亡命し、趙も趙括(ちょうかつ)の長平の戦いの大敗で衰退したのです。

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黽池の会で藺相如は秦が恵文王を家臣扱いしたため昭襄王に楽器を叩かせたのです

藺相如は、昭襄王が恵文王と会見したいと述べたので、決死の覚悟で趙王に同行しました。

万が一、秦王に恵文王が斬られたり抑留されたりした場合、新しい趙王を即位させることまで決めたのです。

そして黽池の会で、昭襄王は恵文王に楽器の演奏を強く求めました。

恵文王が演奏すると、秦王は趙王が秦のために弾いた、と記録したのです。

ですので、藺相如は昭襄王にも音楽の演奏を求め、拒否されたため、自分の血をかけましょうかと凄みました。

ちなみに、自らの血をかけるとは、藺相如が暗に秦王も討つという意味、とされています。

藺相如は黽池の会で、昭襄王に恵文王を部下扱いさせることを防ぎ、無事に帰国させる気迫を見せたのです。

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長平の戦いで藺相如は孝成王に廉頗から趙括に将軍を変更しないように求めました

藺相如は、趙王が歴戦の勇将廉頗よりも、兵法論で有名な趙括を重用しようとしていたため、非難したのです。

趙括の父趙奢は、閼与の戦いで強大な秦軍に勝ったこともあるほどの名将でした。

そして趙奢は、息子の趙括が軽々しく兵法を語っており、趙を滅亡させる危険性もあると述べていたのです。

結局孝成王は、廉頗から趙括に将軍を変え、趙括は白起の偽装退却を見通せずに、大敗しました。

趙括は、臨機応変の兵法を身に付けていない、という藺相如の読みが、残念ながら的中したのです。

藺相如は、趙括が将軍になった場合、廉頗よりも大損害を招くと孝成王に主張しましたが、聞き届けられず趙軍は長平の戦いで大敗北しました。

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古典史記の作者司馬遷は藺相如は智勇兼備の名将と高評価しています

藺相如は、秦の昭襄王を和氏の璧の件で、強く批判したので、処刑される恐れがありました。

しかし昭襄王は、藺相如を気骨のある人物と見なし、趙への帰国を許したのです。

そして藺相如は、強大な昭襄王を非難するほどの勇敢さがありながら、廉頗の傲慢さには趙国のために謙遜しました。

また司馬遷は、藺相如が勇気と謙虚さにより、封禅で有名な泰山よりも名声を獲得した、とまで記載しているのです。

ちなみに、趙は後に李牧が活躍するので、しばらく生き永らえます。

藺相如は昭襄王を、和氏の璧の無礼で非難するほどの豪傑でありながら、廉頗の不遜には謙遜した、泰山よりも大名声のある武将だったと古典史記の司馬遷(しばせん)は称賛しました。

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まとめ:藺相如(りんしょうじょ)は古典史記でどんな人?と三国志と廉頗刎頸の交わり由来と実在故事逸話

藺相如が、どれくらい立派な弁舌で、秦王に気力を示したかを解説してきました。趙が簡単には滅亡しなかったのは、藺相如のような英雄が次々に出現したからでしょう。

そして、趙王の部下の繆賢を罪から、藺相如が上手く保護し、完璧な使者をこなしたことも説明してきました。

秦王から難題が投げかけられたからこそ、藺相如は世に出られたとも言えるでしょう。

また、趙が大敗北した長平の戦いで、藺相如が趙括の将軍起用を警戒していたことも述べてきました。名将の意見が通らなくなった時が、国の滅亡の前兆なのかもしれません。

藺相如は、古典の史記でも高評価な大賢者なので、一度は業績を学ぶべきではないでしょうか。

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