三国志で白馬を巧みに利用した将軍と言えば、公孫瓚でしょう。
公孫瓚は、歴史に名前を残しているため、若い頃から能力を秘めていたのです。この若い頃のまま生きていれば、公孫瓚は劉備を超える仁義の士だったかもしれません。
そして、公孫瓚は劉虞と言う皇帝一族を知っていたので、皇帝にしようと目論んでいました。成功していれば、公孫瓚が曹操のような立ち位置だったのでしょうか。
また、公孫瓚は名族袁紹とも戦っていました。公孫瓚は易京を凄く防御し、袁紹も苦戦したのですが、結果はどうなったのでしょうか。
他にも、公孫瓚の敵袁紹には、部下に飛将呂布奉先もいました。呂布奉先を上手く活用して、公孫瓚の作戦に大打撃を与えたのです。
三國志の公孫瓚を詳しく解説していきます!
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目次
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優等生な能力で感動された公孫瓚
三国志の公孫瓚は、いろいろなことをそつなくこなす若者でした。
- 劉備玄徳と学友だった白馬将軍公孫瓚と部下の趙雲
- 公孫瓚の商業能力と人材登用
公孫瓚は太守から将来性を評価され、勉学の機会を与えられただけでなく、妻ももらったのです。
そして、別の太守が法律違反となった際に、公孫瓚は手厚く先祖を祀ったため、皆を感動させました。
公孫瓚の祈りが通じたのか、その別の太守は結局セーフとなったのです。
また、公孫瓚は異民族との戦いにも長けており、何度も撃破していました。愛用の白馬軍団は、異民族の精鋭を集めた部隊だったのです。
もっとどんどん公孫瓚が、異民族と戦っていれば、異民族王公孫瓚と成れたのでしょうか。
公孫瓚は、優秀な若者として知られ、皆に認められるほどの人物でした。
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劉備玄徳と学友だった白馬将軍公孫瓚と部下の趙雲
三国志の公孫瓚は、仁義と漢帝室再興の大志を抱いた劉備と共に、勉強したのです。
公孫瓚は、名門袁紹に敗れ最後となりますが、劉備の将来性を見通していれば、長生き出来たでしょう。
そして、公孫瓚の元には、後の蜀漢の五虎大将軍趙雲もいました。
趙雲は、劉備が大志を持っており人徳があるため、劉備に鞍替えしたのです。
趙雲は今の時代でも英雄とされているだけあって、劉備と公孫瓚の本質の違いに、気付いていたのでしょう。
ちなみに、趙雲は名族袁紹にも見切りを付けています。上辺だけの人物と本物を見極めてこそ、偉人なのでしょう。
公孫瓚は、能力の高い劉備玄徳(りゅうびげんとく)趙雲子龍(ちょううんしりゅう)と出会っていながら、配下には出来なかったのです。
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公孫瓚の商業能力と人材登用
三国志の公孫瓚は、商人を優遇する能力はありましたが、能力のある人材を攻撃する短所も、持ち合わせていました。
公孫瓚は、能力の高い者に恩を与えても、自分の能力が理由であると思うため、恩義を深く感じる普通以下の人物を利用していたのです。
また、能力のある者を評価しないだけでなく、被害も与えたので、公孫瓚を攻撃したい有能な者も、どんどん増えてしまいました。
そして商人は今の時代だと、良い意味に思う人もいますが、公孫瓚の時代は、地位の低い職業だったのです。
公孫瓚は自らの人材登用術を活用し、虐げられている商人に恩を施して、経済能力は味方としました。
公孫瓚は、特殊な人材採用方法で、結果的に優れた商業能力を獲得したのです。
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後漢皇帝の一族劉虞と公孫瓚公孫越の誤算
三国志の公孫瓚は、皇族のひとりである劉虞の皇帝就任に失敗し、最終的には劉虞に最期を訪れさせました。
劉虞は、後漢皇帝献帝を支えようとしており、献帝の元に袁術を伴おうとしていたのです。
ですが、袁術は邪な考えを持っていたため、公孫瓚は劉虞に進言したのですが、聞き入れられなかったので、劉虞を強引に義兄弟公孫越に確保させました。
公孫瓚からすると深い意図があったのですが、劉虞に理解されず亀裂が増加したのです。
結局戦となり公孫瓚は劉虞に勝利し、皇族につらなる劉虞を処刑したため、公孫瓚の名声は失墜しました。
劉虞(りゅうぐ)は、公孫瓚と協力出来なかったため最後を迎えましたが、公孫瓚を外道に落としたのです。
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公孫瓚は白馬軍団で黄巾の乱の大軍を撃破し名門袁紹に対抗しました
三国志の公孫瓚は、黄巾の乱の数十万の軍勢を打ち負かし、四世三公の名族袁紹とも戦いました。
- 黒山賊張燕と息子の公孫続で袁紹と呂布に勝とうとした易京の公孫瓚
- 公孫瓚の配下軍師関靖の短絡的な発想
袁紹は、公孫瓚の勢いをなだめるために、公孫瓚の義兄弟の公孫範に印綬をあげたのです。
するとなんと、公孫範は周辺の勢力を味方として、公孫瓚陣営に加わってしまいました。
袁紹と公孫瓚の界橋の戦いは、一進一退の攻防が続いたのですが、公孫瓚の敗北で幕を閉じたのです。
公孫瓚が、袁紹への恩に背いた公孫範を味方としたため、天罰が下ったのでしょうか。
どういう状況でも、何かの恩義を与えておくと、意味があるのかもしれません。
袁紹本初(えんしょうほんしょ)は、公孫瓚の義兄弟に見限られましたが、戦では勝利しました。
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黒山賊張燕と息子の公孫続で袁紹と呂布に勝とうとした易京の公孫瓚
三国志の公孫瓚は、犯罪者の大軍である黒山賊張燕の元に、子供の公孫続を派遣し、名門袁紹と呂布奉先に抵抗しました。
袁紹は有能な武将を重用していたため、人中の呂布馬中の赤兎と呼ばれていた呂布奉先がいたのです。
呂布は自慢の武勇を発揮して、犯罪者集団の張燕(ちょうえん)を一蹴しました。
ただの犯罪者の集まりでは、いにしえの飛将軍に例えられた呂布には、通用しなかったのでしょう。
そして、公孫瓚は堅城である易京におり、張燕公孫続と連携するために、文書を送ったのですが、袁紹側に奪われたのです。
袁紹は偽の文書を偽装し、だまされた公孫瓚は打ち負かされ、最後が訪れていきました。
公孫瓚は、息子の公孫続(こうそんしょく)と張燕を利用して、呂布と袁紹に善戦しましたが、最期が来たのです。
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公孫瓚の配下軍師関靖の短絡的な発想
三国志の公孫瓚は、易京で厳重な防御を整えているだけでなく、充分な兵糧と軍勢も確保していたため、軍師関靖は、袁紹が長期戦に耐えられないと、考えていました。
公孫瓚の防御はかなり完璧だったのですが、袁紹は地下道を作り出すという奇策を用いて、易京を攻略したのです。
それに、公孫瓚は部下が敵から攻撃を受けても助けないことで、死力を尽くすと思っていました。
ですが、実際はどれだけ頑張っても助けが来ないので、さっさと降伏したり逃げたりしたのです。
机上の空論という言葉がありますが、公孫瓚の思考を述べたものなのでしょうか。
公孫瓚の部下関靖(かんせい)は、袁紹の奇計に気付けず、籠城戦を主張したため、最後が来訪しました。
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まとめ:三国志の公孫瓚伯珪(こうそんさんはくけい)は易京の白馬将軍
公孫瓚は強力な白馬軍を使い、三國志の世界で勢力を拡大しました。公孫瓚はあえない最期が来たため、自らがトップになるのではなく、良き主君に出会うべきだったのかもしれません。
劉備や趙雲などの名立たる英雄と知り合っていながら、配下に無理にでもしなかったことが、公孫瓚の限界だったのでしょう。
公孫瓚がもっと有能な人物であれば、普通以下の能力の者たちでも、天下を取れたのでしょうか。
そして、公孫瓚は袁紹を犯罪者の集まりの黒山賊で、倒そうとしたことも記載しました。乱世の時代は、なりふり構っていられないのでしょうか。
商業能力を身に付けたり、美しい白馬に興味があったりするなら、公孫瓚を知るべきでしょう。