三国志の虎牢関の戦いでは、三英雄と呂布の名場面が、見られるのです。
呂布は、虎牢関の戦いで、劉備関羽張飛の三人が攻めて来ても、上手く対処したとされています。呂布が虎牢関の戦いでもっと本気を出していた場合、董卓の天下が長引いたかもしれません。
そして、虎牢関の戦いの前夜に、董卓配下の猛将華雄が、呂布クラスの活躍をしたことも説明していきます。
董卓が悪を続けられたのは、猛将をたくさん揃えていたからでしょう。
また、虎牢関の戦いで呂布でも、反董卓連合軍に勝てなかったので、董卓は衝撃を受けたのです。董卓は、以後も悪を継続するために、長安遷都を行いました。
三國志の虎牢関の戦いを詳しく解説していきます!
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目次
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人中の呂布馬中の赤兎に虎牢関の戦いで一騎打ちを仕掛けた劉備と関羽と張飛
三国志の虎牢関の戦いでは、ずば抜けた武勇を誇っていた呂布に一騎打ちでは難しいので、三英雄で一気に攻めたのです。
関羽は、武神と言われることがあるほどの武力を持っており、後に官渡の戦いでは、手強い顔良と文醜に最後を与えました。
張飛は長坂の戦いで、仁王立ちし、乱世の奸雄曹操の大軍を威嚇したほどの勇将です。
そして劉備は、関羽と張飛の義兄弟で、仁義で知られていました。
また呂布は、やはり猛将だったので、三英雄が同時攻撃しても倒せなかったのです。
虎牢関の戦いで、劉備玄徳(りゅうびげんとく)と関羽と張飛益徳(ちょうひえきとく)の三英雄は、勇猛な呂布に三人一緒に攻めかかりましたが、勝てずに終わりました。
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陽人の戦いでは江東の虎孫堅が虎牢関の戦いの猛将呂布を撤退させました
三国志の虎牢関の戦いで、優れた武勇を発揮した呂布も、江東の虎孫堅には勝てなかったのです。
しかし、呂布が本気を出して、孫堅と勝負したわけではありませんでした。
呂布は味方の胡軫を嫌っており、孫堅の防御が崩れているかのような嘘情報を胡軫に流したのです。
ただでさえ強い孫堅が、油断して攻めて来た胡軫に敗れるわけがなく、胡軫は最後を迎えました。
呂布は、義理の父親を裏切ったことで知られていますが、陽人の戦いでも遺憾なく性格を発揮したのでしょう。
虎牢関の戦いの勇者呂布は、裏切りな性格を持っており、陽人の戦いで敵の孫堅文台(そんけんぶんだい)を勝利させてでも、胡軫を裏切り自己利益を獲得しました。
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虎牢関の戦いの前哨戦な汜水関の戦いで華雄は反董卓連合軍の十八路諸侯配下の猛将に最後を送ったのです
三国志の虎牢関の戦いの前夜、華雄は十八路諸侯の部下の勇将たちを、ことごとく斬りました。
華雄があまりにも一騎打ちで活躍するので、反董卓連合軍の代表である袁紹は、猛将の顔良と文醜の不在を嘆いたのです。
しかし反董卓連合軍には、当時無名だった武神関羽も参加しており、華雄との一騎打ちに名乗りを上げました。
景気付けに、関羽はお酒を振舞われたのですが、一旦保留しすぐに華雄を討った後に、温かいままのお酒を受け取ったのです。
猛将華雄(かゆう)は、虎牢関の戦いの前の汜水関の戦いで、呂布の代わりに一騎打ちを行い、袁紹を驚嘆させましたが、武神関羽雲長(かんううんちょう)に簡単に最後を与えられました。
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呂布が三英雄と互角以上に一騎打ちを行った虎牢関の戦いは皆にトラウマを植え付けたのです
三国志の虎牢関の戦いで、関羽と張飛すら勝てない呂布の一騎打ちが強過ぎて、トラウマに感じた人もいます。
そして後に呂布は、義理の父親董卓を見限って斬り、袁紹の味方となっていました。
袁紹は張燕の黒山賊に悩まされており、呂布が出陣したところ、何度も突撃しすぐに崩壊させたのです。
あまりにも華麗な武勇だったので、人中の呂布馬中の赤兎という名言も、唱えられました。
また呂布は、圧倒的な武力を有していましたが、性格が歪んでいたため、勢力を拡大出来ず終わりを迎えたのです。
虎牢関の戦いの影響で、董卓が長安に遷都しましたが、呂布が人中の呂布馬中の赤兎な一騎打ちで、トラウマ級の活躍をしてもいました。
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江東の虎孫堅は虎牢関の戦い後に伝国の玉璽を発見したとされています
三国志の虎牢関の戦いで董卓は、期待していた呂布すら勝てなかったので、長安に遷都し、孫堅は玉璽を見つけたのです。
玉璽とは、持っている者が皇帝である証、と言えるものでした。
ですので、当然皆が欲しがるため、孫堅は反董卓連合軍の代表袁紹を騙して、帰ったのです。
袁紹は、孫堅が玉璽を所有していることを確信していたため、味方の荊州の八俊劉表に、孫堅を襲わせました。
結局孫堅は、伝国の玉璽の魔力に押し潰されてしまい、陽人の戦いのような戦果は得られず、最後が来たのです。
虎牢関の戦いで、人中の呂布馬中の赤兎も退却したので、董卓は遷都を決行し、孫堅は伝国の玉璽を獲得したせいで、災いを招きました。
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董卓は頼みとしていた義理の息子の呂布が虎牢関の戦いで退けられたので長安に遷都したのです
三国志の虎牢関の戦いでは、呂布の武勇も示されたのですが、十八路諸侯は董卓を追い詰めることに成功しました。
そして董卓は長安では、心機一転したのか、後漢皇帝のような外観を好んだのです。
洛陽の頃の董卓は、まだ献帝劉協に遠慮があったのでしょうか。
また董卓は、経済も牛耳るために、新しい貨幣を作り出しました。しかし董卓の他のやり方と同じで、経済混乱を招いただけだったのです。
ちなみに、董卓の悪事に加担していたのが軍師李儒であり、呂布を董卓の味方とするために、赤兎馬を贈り物とすべきと述べました。
虎牢関の戦いで袁紹本初(えんしょうほんしょ)の十八路諸侯は、健闘し呂布奉先(りょふほうせん)を撤退させ、元凶な董卓仲穎(とうたくちゅうえい)を長安遷都に追い込んだのです。
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洛陽は虎牢関以外にも函谷関が防御陣として機能していたのです
三国志の虎牢関の戦いの舞台となった虎牢関は、後漢の首都洛陽を防備しており、函谷関と共に重要でした。
そして函谷関は、春秋戦国時代に、秦の難攻不落の砦と言われていたのです。
しかし、秦の始皇帝が最後を迎えた後の圧政に抵抗した、陳勝呉広の乱の軍勢に、函谷関は破られました。
また、虎牢関と函谷関以外に洛陽を防御していたのが、潼関です。
潼関では、西涼の錦馬超と乱世の奸雄曹操が激戦を行い、曹操が斬られる寸前となりました。
ちなみに、曹操の部下には、虎痴の許褚がおり、錦馬超と一騎打ち出来るレベルの武力だったのです。
許褚と、虎牢関の戦いの勇将呂布が、一騎打ちしたとしたら・・・
呂布と三英雄が一騎打ちした虎牢関以外で、後漢の献帝劉協伯和(りゅうきょうはくわ)の首都洛陽を守っていたのが、函谷関と潼関なのです。
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まとめ:三国志虎牢関の戦いの呂布一騎打ちと汜水関の戦い華雄と陽人の戦い孫堅
三國志の虎牢関の戦いが、呂布の主君董卓にとっても、重要な転機だったことを解説してきました。
董卓は虎牢関の戦いで、全力を投入して、何としてでも勝利すべきだったのではないでしょうか。
そして、反董卓連合軍の江東の虎孫堅が、勇者呂布に勝ったことも説明してきました。
孫堅勝利は、呂布の悪い性格によると言えるので、呂布は一騎打ちで、孫堅に勝つ可能性は充分にあるでしょう。
また、呂布の主君董卓は、虎牢関の戦いで苦戦したため、長安遷都を行ったことも述べてきました。
虎牢関の戦いは、董卓の悪を減らす良い機会に、なったのではないでしょうか。
呂布は特別な猛将で、英雄として有名な劉備関羽張飛と三人同時に一騎打ち出来、虎牢関の戦いで能力を発揮したのです。