季布は、楚漢戦争で西楚の覇王項羽の腹心でありながら、後に劉邦に仕え、前漢の危機を救いました。
楚漢戦争で活躍した季布には、ことわざの季布一諾や一諾千金も、あります。季布をもっと上手く使いこなしていれば、項羽が劉邦に勝てたのではないでしょうか。
そして季布は、冒頓単于の非礼で血気に逸る樊噲たちに、しっかり警告を行いました。この時にもしも季布がいなければ、前漢が匈奴に制圧された危険性も、あるのではないでしょうか。
また、大侠客朱家と夏侯嬰の保護で、季布が生き残れたことも、説明していきます。季布には、人が助けたくなるような魅力が、備わっていたのでしょう。
季布を詳しく解説していきます!
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目次
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黄金百斤を得るは季布の一諾を得るに如かずとまで季布の一諾は高評価されていたのです
季布は、律儀な人柄で評判であり、能力も高かったため、季布の一諾ということわざまで誕生しました。
そして、季布の一諾が前漢で皆が知るようになったのは、曹丘生の弁舌のおかげだったのです。
ですが、初めは季布は、曹丘生の巧みな話術を嫌っていました。
しかしそれは、季布が一諾を重視する剛直な性格、だったからでしょう。
ちなみに、春秋戦国時代には、高い弁舌能力を有する縦横家の張儀と蘇秦もいますが、おそらく季布とは反りが合わないのではないでしょうか。
季布は、黄金百斤よりも大事な一諾、と称されるほど、発言に重みがありましたが、曹丘生(そうきゅうせい)の巧みな宣伝のおかげだったのです。
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季布の一諾と共に並び称されたのが戦国四君の信陵君の食客侯嬴の節義です
季布は、一諾千金と高評価され、侯嬴も信陵君への一言の約束通り自刃した武将でした。
侯嬴は、信陵君の食客であり、信陵君は同じく戦国四君の平原君を、秦軍から助けようとしていたのです。
そして平原君の趙は、趙括が白起に長平の戦いで大敗北してしまい、都の邯鄲を秦に攻め立てられていました。
また一応魏も晋鄙が派遣されていたのですが、秦からの脅しもあり、趙を救うのは難しかったのです。
ですが侯嬴は、信陵君に恩を感じていた魏王が寵愛する如姫を利用し、兵符を確保させ、自らの命も捧げました。
季布は、大金以上の一諾と評判であり、侯嬴(こうえい)も、発言一つで身を捧げ、信陵君魏無忌(しんりょうくんぎむき)の必勝を祈願した食客だったのです。
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匈奴の冒頓単于の無礼な文書に報復したがっていた呂雉と樊噲を季布は諫めました
季布は、劉邦の妻の呂雉皇后を畏怖して、樊噲たちが、無謀な攻撃を匈奴に行おうとしている中、強く批判したのです。
かつて前漢の初代皇帝高祖劉邦が、匈奴の冒頓単于と白登山の戦いで、大軍を率いて激突したにも関わらず、大敗してしまいました。
ですので、今回樊噲が冒頓単于の文書に怒って、匈奴を攻撃したとしても、敗れるのは目に見えているのです。
ちなみに、劉邦が冒頓単于に負けてから、前漢は匈奴に劣勢でしたが、武帝は衛青と霍去病に、匈奴を討伐させることに成功しました。
季布は、冒頓単于(ぼくとつぜんう)からの呂雉(りょち)への失礼な文書で、劉邦すら勝てなかった、匈奴を攻めようとした樊噲(はんかい)を強く非難し、前漢を守護したのです。
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楚漢戦争で劉邦を苦戦させ恨まれていた季布は朱家に匿われ夏侯嬰に擁護してもらいました
季布は、劉邦が自らに多額の懸賞金を提示し、厳罰を行うことを明示していたため、大侠客朱家に保護を求めたのです。
朱家は、自分が豊かになることよりも、困窮した人々を助けることを大事にしていました。
ですので、楚漢戦争の項羽の部下の将軍季布が、最後を与えられる寸前であることを、見過ごせなかったのです。
そして朱家は、劉邦の部下の義理人情に厚い夏侯嬰を説得し、季布を劉邦からの処罰から救うことに成功しました。
ちなみに夏侯嬰は、定軍山の大敗で知られる夏侯淵と、曹操の腹心として有名な夏侯惇の祖先、とも伝わっています。
季布は、大侠客朱家と義理人情を大切にしている夏侯嬰(かこうえい)を、味方としたため、劉邦(りゅうほう)からの厳罰を免れたのです。
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季布の親戚の丁公は楚漢戦争で劉邦に最後をわざと与えませんでしたが後に最期を送られました
季布には、親戚に丁公がいましたが、劉邦を助けてあげたにも関わらず、劉邦から最後をもたらされたのです。
そして劉邦は、丁公が自分を見逃したことを、項羽が楚漢戦争に敗北した要因、と主張していました。
なので、丁公を処罰することで、劉邦は部下たちに忠誠心の重要性を示した、と伝わっています。
ちなみに劉邦は、西楚の覇王項羽の叔父でありながら、鴻門之会という大事な場面で項荘と剣舞し、劉邦を守った項伯は称賛しているのです。
季布の親族の丁公(ていこう)は、前漢の初代皇帝高祖劉邦の窮地を助けてあげましたが、後に西楚の覇王項羽(こうう)を裏切った武将として、見せしめに最期を与えられました。
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鍾離眜は季布と生き延び西楚の覇王項羽と共には最後を迎えず国士無双韓信に保護されたのです
季布は、鍾離眜と共に、項羽の腹心でしたが、最終的には項羽の元を離れ、鍾離眜は韓信に助けてもらいました。
しかし韓信は、能力の高い大将軍であり劉邦に恐れられていただけでなく、謀反の嫌疑もかけられたため、鍾離眜を生贄とすることで生き残ろうとしたのです。
そして国士無双韓信は、鍾離眜を犠牲とすることで、淮陰侯に下げられ、しばらくは生き永らえましたが、結局謀反が失敗し劉邦から最期を与えられました。
季布と一緒に、項羽の部下として活躍した鍾離眜(しょうりばつ)は、国士無双韓信(かんしん)に匿われていましたが、劉邦を畏怖したため最後に追い込まれ、韓信も謀反が上手くいかず最期を送られたのです。
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龍且は季布と共に覇王項羽の腹心でしたが鍾離眜を匿った韓信を見下していたため大敗したのです
季布は、楚漢戦争際に鍾離眜だけでなく龍且も味方におり、劉邦を苦しめましたが、龍且は韓信を蔑んでいたので大敗北を喫しました。
韓信は、若い頃のニート生活の時に、態度が大きいとして絡まれ、股くぐりをさせられたのです。
ですので龍且は、韓信を股くぐりとして、事あるごとに誹謗するばかりで、韓信の国士無双としての能力を見落としていました。
そして国士無双韓信は、三秦の章邯に勝利した際と同様に、龍且を水攻めにし、最後を送ったのです。
季布や鍾離眜と同じく、項羽の部下の猛将には、龍且(りゅうしょ)がいましたが、韓信を股くぐり武将として侮っていたため、水攻めで章邯(しょうかん)と似た末路に終わりました。
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まとめ:季布(きふ)の一諾能力と朱家と鍾離眜龍且と丁公
季布の一諾に、どれくらいの価値があり、どのような経緯で前漢に仕えたかを解説してきました。項羽に劉邦ほどの度量があれば、季布ももっと簡単に出世出来たのではないでしょうか。
そして、信陵君の食客の侯嬴の一言が、季布の一諾と同等の評価を得ていたことも、説明してきました。
綸言汗の如し、ということわざもあるため、立派な人物は、一度の発言を大事にするものなのでしょう。
また鍾離眜が、季布と異なり、頼みとする人物を見誤り、韓信から最期に追い詰められたことも述べてきました。
最終的に頼りになるのは、友人ではなく、自分自身の生き方なのかもしれません。
季布は、一諾が大評判になるほど、凄い生き方をしてきた偉人なので、楚漢戦争を生き延びる資格を有していたのでしょう。