かじゅう三国志!賈充、ようこ、魏呉滅亡、崩壊結末、きょういも解説

三国志の魏王朝末期の軍師には、賈充もいます。

賈充は、主君司馬昭に抵抗した魏王朝の皇帝を葬ったのです。司馬昭も賈充がいたからこそ、天下を掌握出来たのでしょう。

そして賈充は、魏皇帝曹髦を倒す際に、部下を上手く利用しました。皇帝排除の責任を巧みに配下の責任とした賈充は、無事で済んだのでしょうか。

また賈充は、政敵からのアタックを結婚で上手く避けました。賈充には、良い軍師が味方したのでしょうか。

他にも、賈充以外に呉滅亡に貢献した羊祜も、説明していきます。羊祜は、かなりの高評価な人物で、あの天才軍師諸葛亮クラスと言われていました。

三國志の賈充を詳しく解説していきます!

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司馬懿の息子の権力に対抗した曹髦皇帝に最後を与えた賈充

三国志の賈充は、司馬懿の子供司馬昭に仕え、魏王朝皇帝を始末する役割を担いました。

曹髦は野心家の鍾会から、曹植や曹操に似ていると高評価だったのです。

曹植は、魏の初代皇帝曹丕と後継者争いをしたほどの人物で、詩の達人でもありました。

曹操は、乱世の奸雄であり時代を超えた英雄と言われているほどの偉人です。

そして鍾会は、蜀漢を滅亡させた功労者ですが、後には司馬昭に対抗し、最後を迎えました。

曹髦は鍾会と似ているからこそ、鍾会から高評判で、司馬昭から最期を与えられる運命だったのでしょうか。

賈充は、司馬昭の権力掌握のために、魏皇帝曹髦彦士(そうぼうげんし)を始末しました。

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賈充は皇帝処刑を配下の成済の全責任にしました

三国志の賈充は、司馬昭のために曹髦皇帝を成済に討たせたのですが、成済に責任転嫁したのです。

司馬昭が権力を有しているとはいえ、立場上は曹髦は皇帝であるため、賈充の部下たちも斬るのをためらっていました。

賈充は、成済に曹髦皇帝を討っても不問であると述べたにも関わらず、後に皇帝殺しの責任を成済に求めたのです。

そして成済は、処刑されそうになった際に、賈充たちの批判をかなりしたのですが、結局処刑されました。

皇帝という重要な存在を討つというのは、それほどに重大なことなのでしょう。

賈充は、司馬昭が権力を拡大するために、部下の成済(せいさい)に魏皇帝曹髦を斬らせ、全てを成済の責任としたのです。

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荀勗の進言で政敵から逃れるために司馬衷と縁戚となった賈充

三国志の賈充は、政敵から敵軍の制圧要請を受けましたが、司馬一族と娘が婚姻することでセーフでした。

賈充に、婚姻の知恵を授けたのは荀勗で、乱世の奸雄曹操の軍師荀彧の親戚です。

そして荀彧は、曹操から我が子房とも評価されていました。

子房とは前漢の三傑の張良のことで、曹操は荀彧を張良のような大賢者と述べているのです。

また名将羊祜も賈充が、外に行かされることを反対していました。

羊祜は、政治闘争に軍事力が使われることが、人として許せなかったのでしょう。

賈充は、政敵からの攻撃を荀勗公曾(じゅんきょくこうそう)からの献策で、司馬一族との結び付きを強める事により、回避しました。

⇒我が子房荀彧!意味、曹操、軍師張良、美人、最後、郭嘉諸葛亮も解説

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呉滅亡の総指揮を行った賈充は実は呉攻略を慎重にすべきと考えていたのです

三国志の賈充は、かつて司馬昭が蜀漢攻略を推進したようには、呉攻略を望んでいませんでした。

呉には、長江という自然の強力な防御があり、赤壁の戦いを含め、何度も北からの攻撃を跳ね返した実績もあります。

それに賈充は、将軍というよりも軍師で政治家な人物なので、滅亡させられない可能性もある呉攻撃を嫌っていたのでしょう。

そして呉の皇帝孫晧は、酒色におぼれ悪政を行っていたので、賈充以外の武将の中には、すぐに軍勢を向けるべきという意見も多かったのです。

賈充の呉討伐軍は、結果的に上手くいき、長年の悲願であった中国統一を成功させました。

賈充は、呉攻略に反対でしたが、成り行きで呉を滅亡させることが出来たのです。

⇒張昭!能力、赤壁の戦い降伏、逸話、孫策孫権、周瑜魯粛、別名も解説

皇帝司馬炎に呉滅亡を願い出ていた羊祜(ようこ)は顔回で楽毅で諸葛亮な武将

三国志の羊祜は、賈充が呉攻撃を批判する中、呉を滅亡させるチャンスを主張していました。

羊祜は、徳を大事にしていたので、論語の聖人孔子も尊敬していた顔回のようである、と高評価だったのです。

そして、敵の呉の名将陸抗も、羊祜に好印象で、諸葛亮や楽毅以上の能力と述べました。

ただ、楽毅と諸葛亮は、小国を統治して後世から称賛されているので、大国にいた羊祜とは、置かれている状況が異なるのです。

また、楽毅と諸葛亮が大国にいた場合、楽毅と諸葛亮らしさが失われ、あまり活躍出来ていなかった可能性もあるでしょう。

楽毅と諸葛亮と顔回な羊祜叔子(ようこしゅくし)は、賈充よりも呉の内情を把握しており、呉を滅亡させられると考えていました。

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蜀漢が崩壊し大将軍姜維(きょうい)と反乱した鍾会を討伐した賈充

三国志の賈充は、司馬昭が予見した鍾会と姜維の乱を、鎮圧する軍勢を統括していました。

司馬昭は蜀漢を攻略したかったのですが、周りの家臣はあまり良い意見を述べなかったのです。

しかし、鍾会は策略に長けており、蜀漢撃破が可能であると主張しました。

そして鍾会には、大きな野望があったので大軍を与えた場合、反乱を起こす危険性が高かったのです。

司馬昭と賈充は、鍾会に備えて軍勢を用意しており、鍾会と蜀漢の大将軍姜維が反乱しましたが、見事自滅させることに成功しました。

蜀漢が滅亡した際に、鍾会士季(しょうかいしき)と姜維伯約(きょういはくやく)が反乱したのですが、賈充は司馬昭の大軍で威圧するだけで勝利したのです。

⇒きょうい三国志!鍾会、鄧艾、趙雲一騎打ち、魏延、劉禅、最期も解説

賈充は蜀漢だけでなく魏と呉が滅亡した結末も目の当たりにしました

三国志の賈充は、かつての大国が崩壊してしまう有様を見る事が出来たのです。

そして、晋の初代皇帝司馬炎が、魏と呉と蜀を統一しました。

呉と蜀漢は戦によって統一されたのですが、魏は皇帝が司馬炎に禅譲することで、滅亡したのです。

司馬炎は、名君で有名な前漢の文帝クラスの皇帝と言われてもいます。

また賈充の娘賈南風は、晋の2代目皇帝の妻だったのですが、賈一族衰退の要因となりました。

賈南風は八王の乱を引き起こしてしまい、賈一族は闘争に敗れ多くが処刑されたのです。

かつて賈充が、魏皇帝曹髦を斬らせたことの因果なのでしょうか。

賈充は、魏と呉と蜀が崩壊する結末を見届けましたが、後に子孫も滅亡してしまいました。

⇒三国志司馬炎!能力、評価、晋武帝、司馬懿孫、父司馬昭、曹操も解説

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まとめ:三国志の賈充公閭(かじゅうこうりょ)と魏呉蜀の滅亡崩壊の結末

三國志の賈充が、魏と呉と蜀が滅亡した際に深く関わっていたことを解説してきました。

3つもの国の崩壊を観察した賈充は、ある意味恵まれた人物だったのではないでしょうか。

そして賈充が、皇帝を討つという大事件を起こしながら、自らは不問とされたことも説明しました。この辺が、賈充の処世術で重要なポイントでしょう。

また、賈充が実は、呉を攻撃し滅亡させることを望んでいなかったことも記載しました。結果的には呉崩壊の功労者とされているので、本当に世渡り上手と言えるでしょう。

他にも、賈充が蜀漢の最後の抵抗である鍾会と姜維の乱も、間接的に制圧したことを書きました。直接賈充と鍾会姜維が激突した場合、果たして簡単に生き残れたのでしょうか。

賈充は、司馬昭に上手く仕えどんどん出世したので、巧みに生きる上での参考になるでしょう。

⇒漢王朝最後の皇帝!劉協、献帝、末裔、曹操司馬懿、滅亡、皇后も解説

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