楽毅と諸葛亮!最強評価、三国志孔明、名言、管仲、白起将軍も解説

三国志の諸葛亮は、劉備に三顧の礼で招かれ、楽毅を尊敬してもいたのです。

諸葛亮は、徐庶から楽毅クラスの才能がある、と言われていました。楽毅は弱燕を助けた救国の英雄なので、諸葛亮の北伐を彷彿とさせるでしょう。

そして、諸葛亮が劉備から三顧の礼で呼ばれたように、楽毅は燕の昭王から隗より始めよで招かれました。

有能な人材を採用したければ、まずはそれにふさわしい待遇を用意すべきなのでしょう。

また、諸葛亮は北伐の際の出師の表が有名ですが、楽毅は燕の恵王に報ずるの書が知られています。名文を書けてこそ、素晴らしい偉人であることを示せるのでしょう。

楽毅と三國志の諸葛亮を詳しく解説していきます!

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徐庶は若い頃の諸葛亮を最強な楽毅クラスと評価していました

三国志の諸葛亮は、徐庶から楽毅レベルの大人物である、と述べられていたのです。

諸葛亮は、後々には天才軍師として評判になりますが、青年期には、楽毅ほどの才能があると認める者はあまりいませんでした。

そして徐庶は、乱世の奸雄曹操の部下で名将の曹仁の八門金鎖の陣を、突破出来たほどの軍師だったのです。

しかし能力を見せ過ぎたため、曹操に警戒され、曹操の軍師程昱の策で、母親を利用され劉備の元を去りました。

また徐庶は、劉備の元を去る際に、諸葛亮を推薦したのです。

曹仁子孝(そうじんしこう)の八門金鎖の陣に勝利した徐庶は、諸葛亮を楽毅クラスの能力を持っていると語っていたのですが、曹操の軍師程昱仲徳(ていいくちゅうとく)の策で劉備の軍師を辞めさせられました。

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諸葛亮は楽毅に近いだけでなく徐庶からは管仲レベルの能力を有しているとも述べられていたのです


三国志の諸葛亮は、斉の桓公を春秋の五覇たらしめた、管仲クラスの能力を秘めている、と徐庶から評価されていました。

管仲と鮑叔は、管鮑の交わりと呼ばれるほどの仲であり、鮑叔は管仲なら、斉の桓公を覇者と出来ると考えていたのです。

そして、劉邦と覇王項羽が戦っていた際、前漢の三傑のひとりの蕭何が、国士無双韓信を大将軍としてこそ、天下が獲得出来ると主張していました。

諸葛亮がいたからこそ、弱い蜀漢でも劉備の北伐が実現したので、孔明は管仲や韓信と並ぶ人材と言えるでしょう。

徐庶元直(じょしょげんちょく)から、管仲クラスの偉人と称せられていた諸葛亮は、国士無双韓信とも近い存在ではないでしょうか。

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楽毅と燕の昭王は諸葛亮と劉備の三顧の礼のように敬い合う関係だったのです

三国志の劉備は、臥龍で評判だった大賢者諸葛亮を招くために、三顧の礼を行いました。

そして楽毅は、燕の昭王が、まず隗より始めよで招いた大将軍です。

昭王は、燕国がかつて斉国から蹂躙されたことで、復讐のチャンスをうかがっていました。

昭王は、郭隗の人材採用法で、大賢者を呼ぶために郭隗から優遇したのです。

また、燕の昭王の隗より始めよで採用された人材の中には、劇辛もいました。

劇辛は、楽毅が趙に亡命した後も燕に留まり、趙の龐煖に簡単に勝てると豪語していたのですが、逆に大敗したのです。

劉備玄徳(りゅうびげんとく)が、三顧の礼で厚遇した諸葛亮のように、燕の昭王はまず隗より始めよで楽毅を厚遇しました。

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諸葛亮は楽毅が燕の昭王のために斉を破ったように出師の表で魏に勝つ意気込みを語ったのです

三国志の諸葛亮は、劉備が夷陵の戦いで大敗した後も、劉備の大志を忘れておらず、出師の表を劉禅に提出し、北伐を行いました。

出師の表で諸葛亮は、劉備から三顧の礼を受けているので、大恩に報いるために、北伐を起こすことが書かれているのです。

楽毅も隗より始めよで、燕の昭王から重用されていためので、状況がかなり似ているでしょう。

そして楽毅は、斉の周辺国と連合することで、燕の昭王の悲願を成就させました。

ちなみに、燕の昭王のように忍耐強くチャンスを待った偉人には、春秋の五覇の越王勾践がいます。

燕の昭王の長年の悲願だった斉攻略を、楽毅が実現させたように、諸葛亮は出師の表に、魏北伐の決死の覚悟を記載したのです。

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田単は楽毅により滅亡寸前に陥った斉を復活させたので諸葛亮のライバル軍師司馬懿に近い存在でしょう


三国志の諸葛亮は、北伐の際、いつも司馬懿の軍略に妨害されていました。

そして、楽毅は燕の昭王のために、斉に勝利しましたが、わずかに残った城が田単の指揮により、持ち堪えていたのです。

楽毅は昭王とは良好な関係でしたが、息子の恵王は、楽毅を快く思っていませんでした。

田単は、楽毅が斉を一気に攻略しないのは、別の思惑があるからだという噂を流したのです。

また、楽毅の後に援軍の将軍に就任した騎劫を策で翻弄し、最終的には火牛の計で倒しました。

楽毅は斉に大勝利し、燕の昭王の夢を叶えましたが、諸葛亮が北伐を司馬懿仲達(しばいちゅうたつ)に邪魔されたように、息子の恵王と仲が悪かったことを田単(でんたん)に利用されたのです。

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楽毅は名言な燕の恵王に報ずるの書により昭王の大恩への感謝を示したのです

三国志の諸葛亮が、劉備からの厚遇に感謝していたように、楽毅は昭王に大恩を感じていました。

楽毅は、燕の昭王の子供の恵王に、疑われ趙に亡命しましたが、文書で弁明したのです。

そして楽毅は、報ずるの書の中で、自分が処罰を受けると、昭王まで貶められかねないと述べました。

すると恵王は、楽毅への疑いを解き、楽毅の息子に地位を与えたのです。

楽毅は大将軍として優秀だっただけでなく、主君への対応にも長けていたので、強斉に勝利し弱燕を救うことが出来たのでしょう。

諸葛亮が劉備の死後も、厚遇に感謝して北伐を決行したように、楽毅は昭王の死後も厚恩を忘れていなかったので、燕の恵王の疑心を無くすことに成功しました。

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望諸君楽毅は燕の恵王から疑われた際すぐに亡命したことで白起の二の舞にならずに済みました


三国志の諸葛亮も尊敬していた楽毅は、身の引き際を見極めたことで、大将軍白起のような最後にならなかったのです。

武安君白起は、春秋戦国時代に秦の大将軍を務め、連戦連勝でした。

そして白起は、長平の戦いで大戦果を上げたことで、秦の宰相范雎から警戒され、左遷されたのです。

白起は、その後も范雎の対応を批判し抵抗し続けたことで、最期を与えられました。

対する楽毅は、燕の恵王と不仲であることから、疑心が増加した途端に趙に亡命したのです。

武安君白起は大戦果を上げ、大将軍な自負心があったことから、宰相范雎に対抗してしまいあえない最期を迎えましたが、諸葛亮が憧れた楽毅は、燕の恵王の疑心を察し身を引き、生き永らえました。

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まとめ:最強な楽毅(がくき)将軍と三国志諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)の評価

三國志の諸葛亮が、最強将軍な楽毅とどれくらい似ているかを、解説してきました。あなたも歴史書で、似ている偉人を探してみると、生きる参考に出来るでしょう。

そして諸葛亮が、徐庶からは、楽毅だけでなく管仲にも比肩する、と言われていたことも説明してきました。

諸葛亮の若い頃から才能を見抜いていた徐庶も、大賢者と述べられるでしょう。

また、諸葛亮のライバルの司馬懿が、楽毅の敵の田単に匹敵することも記載してきました。

優れた偉人には、優秀なライバルがいるもので、そのライバルに勝利してこそ、真の偉人になれるのではないでしょうか。

諸葛亮は、伝説的な最強将軍楽毅に比肩する大軍師、と言えるでしょう。

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