でんぽう三国志!田豊軍師能力、えんしょう、きょゆう寝返りも解説

三国志の名門四世三公袁紹の権謀機変な軍師には、田豊もいます。

田豊は、袁紹配下の沮授と共に、後漢皇帝を保持すべきと述べていたのです。曹操が後に大勢力になるのは、後漢皇帝の権威によるところが大きいでしょう。

そして田豊が、強い信念を持った軍師だったことも、説明していきます。田豊の強い考えは、果たして何をもたらすのでしょうか。

また田豊は、曹操との官渡の戦いを避ける事を袁紹に希望していました。田豊が述べていたことは、果たして正しい考えだったのでしょうか。

他にも、田豊と共に袁紹に仕えながらも、曹操に寝返った許攸も記載していきます。許攸のせいで田豊たち袁紹軍は、どうなってしまったのでしょうか。

三國志の田豊を詳しく解説していきます!

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後漢皇帝の献帝劉協を袁紹が確保すべきと主張していた田豊と沮授(そじゅ)

三国志の田豊は、袁紹が献帝劉協を保護することで、他の諸侯に号令をかけられると述べました。

  • 固い信念を持っていた田豊は韓馥から遠ざけられました
  • 白馬将軍公孫瓚に追い詰められた名家の袁紹を気遣った田豊

ですが、袁紹は自らが曹操よりも大勢力であり、献帝劉協が煩わしいため、田豊の献策を聞かなかったのです。

乱世の奸雄曹操は、当初は確かに小規模な勢力でしたが、存分に献帝劉協の権力を利用し、どんどん勢力をアップさせました。

そして、袁紹の軍師の沮授も、田豊と同じく、献帝劉協を確保した方が良いと考えていたのです。

また、田豊と沮授は、前漢初代皇帝劉邦の軍師の張良と陳平レベルと言われています。

しっかり沮授と田豊の話を聞けば、袁紹が中国統一を行うのは、容易かったでしょう。

田豊は、軍師沮授(そじゅ)と共に、後漢皇帝劉協を利用しようとしましたが、袁紹に受け入れられませんでした。

⇒漢王朝最後の皇帝!劉協、献帝、末裔、曹操司馬懿、滅亡、皇后も解説

固い信念を持っていた田豊は韓馥から遠ざけられました

三国志の田豊は、正しい事を頑強に主張する性格だったので、韓馥から煙たがられたのです。

三國志の時代も現代も、ただ単に正義の人は、人をかなり選ぶのでしょう。

そして、韓馥に強く発言する性格で敬遠された人物に、審配もいます。

審配は、袁紹が曹操と官渡の戦いを行う際に、すぐに決戦することが良い、と考えていたのです。

この主張は、田豊の持久作戦と対立するものでした。

袁紹は、田豊と審配という強い発言者を抱える事で、内部崩壊の兆しがあったのです。

袁紹は、有能な人材を集めましたが、統制力に問題があった、とも言えるでしょう。

田豊は、自分が正解だと思うことを苛烈に述べる人物でした。

⇒三国志そじゅ!沮授袁紹、ほうき、でんぽう、かくと、許攸烏巣も解説

白馬将軍公孫瓚に追い詰められた名家の袁紹を気遣った田豊

三国志の田豊の主君袁紹は、河北で大勢力となるために、白馬将軍公孫瓚と激突しました。

公孫瓚は異民族の白馬軍団で、田豊たちを圧迫しましたが、異民族のやり方に精通した麹義に撃破されたのです。

そして、麹義が公孫瓚に勝ったので、気が緩んでいると、残党が袁紹を攻撃したため、田豊は袁紹をかばいました。

そしてこのまま、公孫瓚が終わりかと思ったら、公孫瓚は易京で防御を固め、麹義を倒したのです。

戦に強い麹義も、易京という城攻めは、得意でなかったのでしょう。

袁紹は、最後は公孫瓚に勝ちますが、一筋縄でいく相手ではなかったのです。

田豊と袁紹は、河北の雌雄を決するために、白馬将軍公孫瓚伯珪(こうそんさんはくけい)と戦い、易京まで追い詰めました。

⇒公孫瓚!白馬将軍、配下能力、易京、劉虞、袁紹呂布、劉備趙雲も解説

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田豊は袁紹が曹操との官渡の戦いを行わず静をもって動を制することを求めたのです

三国志の田豊は、袁紹が大軍を頼みに曹操と戦わずに、大勢力を拡大していくべき、と主張しました。

袁紹は曹操が、献帝劉協を活用し天下に号令をかけていることを嫌っており、名門で大勢力な自分こそが、すぐに天下の主となるべき、と思っていたのです。

それに、田豊以外の軍師郭図も、袁紹と同じく、即座に大軍で曹操を押し潰せる、と考えていました。

対する曹操にも有能な軍師がおり、郭嘉は官渡の戦いが起きた場合、袁紹の10敗で曹操の10勝と述べています。

田豊は、袁紹本初(えんしょうほんしょ)が曹操に勝利する方法は、静かに勢力を大きくすることであり、官渡の戦いではないと発言していました。

⇒えんしょう三国志!袁紹性格、有能軍師、官渡の戦い曹操、袁術も解説

劉備が曹操に抵抗していたので袁紹に援助を要請した田豊

三国志の田豊は、劉備の軍勢に味方すると、袁紹が一気に曹操を制圧出来ると述べました。

劉備は曹操軍にいたこともありますが、結局後漢再興のために、曹操と敵対したのです。

劉備の部下には、関羽張飛などの武勇に秀でた猛将も多いので、袁紹が積極的に援軍すれば、曹操を討つことも可能でした。

ですが、袁紹は息子の健康状態が悪化したため、曹操を倒すチャンスを逃したのです。

袁紹は、曹操よりも大勢力なので、本気を出せば、曹操に簡単に勝てる、と考えていたのでしょう。

田豊は、袁紹が曹操に勝利するために、劉備玄徳(りゅうびげんとく)というチャンスを利用すべきと思いましたが、袁紹は活かせませんでした。

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田豊は袁紹(えんしょう)の官渡の戦いを強く批判したため投獄され最後が来たのです

三国志の田豊は、あまりにも袁紹を非難し過ぎて、結局投獄されてしまい、官渡の戦いで敗北した袁紹に、最期を与えられました。

曹操の軍師荀彧は、田豊のことを主君にも徹底的に正しさを主張してしまう、と述べていたのです。

荀彧の思惑通り、田豊は袁紹の考えよりも自らの正解を優先し、投獄となりました。

そして、田豊が予想した通り、袁紹が官渡の戦いで負けたため、牢屋の番人は、田豊が袁紹から再び登用されると思ったのです。

ですが、田豊は袁紹の過ちを明らかとしてしまったため、処刑されました。

田豊は袁紹が、最終的に勝利者となるための正しい献策を行いましたが、裏目に出てしまい最後が訪れたのです。

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許攸(きょゆう)が曹操軍が寝返り郭図(かくと)が策を誤ったことで官渡の戦いの趨勢が決定しました

三国志田豊の同僚の許攸は、親族の罪を追求されたため、曹操に寝返り、郭図は袁紹軍の食糧庫ではなく曹操の本陣を攻撃したことで、袁紹敗北となりました。

許攸は曹操に、袁紹軍の食糧が集められている烏巣の場所を教えたのです。

曹操も許攸を疑っていたのですが、このチャンスしかないと判断し、精鋭で烏巣を襲いました。

そして、袁紹の側近の郭図は、烏巣への援軍よりも曹操の本陣進軍が、曹操かく乱になると述べたのです。

しかし曹操は、惑わされることなく、曹操本陣も攻略出来ず、官渡の戦いは袁紹敗北となりました。

田豊と同じく袁紹の軍師だったはずの許攸(きょゆう)は、曹操に寝返り機密情報を漏洩させ、郭図(かくと)も対処を間違えたのです。

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まとめ:三国志の田豊元皓(でんぽうげんこう)の軍師能力と河北名家の官渡の戦い

三國志の田豊が、凄い軍師能力で、袁紹を河北の覇者に導いたことを解説してきました。

田豊は、袁紹の元で力を発揮したからこそ、最終的に破滅を招いたのでしょう。

そして田豊は、袁紹に曹操に勝つチャンスである劉備軍の存在も、述べました。袁紹は決断力に乏しいとされていますが、劉備の件で、露骨に出てしまったのです。

また田豊が、袁紹の勝利を考えるあまり強訴し、逆に投獄されてしまったことも書きました。

曹操のような名君であれば、田豊の強訴を上手く活用出来たのでしょうか。

自分が有能なだけでなく、将来性のある主君を見つけることも、軍師の手腕と言えます。

田豊は、素晴らしい能力を持ちながらも、主君を見通せずに、悲劇を迎えた軍師でしょう。

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