三国志の劉琦は、諸葛亮に助言を求め、重耳のように外遊すると安全を保てると述べられました。
重耳の流浪は困窮してし、食べ物不足となり、農民から土を提供されたのです。土は食べられないので、重耳は怒ったのですが、賢者な部下は深い意味に気付いていました。
そして、楚の成王と城濮の戦いで対決した際に、重耳は歓迎のお礼を行ったのです。重耳がお礼をしたにも関わらず、楚の子玉は敗れたので、重耳は天に選ばれた武将だったのではないでしょうか。
また、重耳の有能な部下の趙衰と狐偃も、説明していきます。重耳が春秋の五覇と成り得たのは、優秀な配下がいたからこそではないでしょうか。
重耳と三國志を詳しく解説していきます!
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目次
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晋から亡命している際に食糧不足に陥り重耳と趙衰は農民から土を与えられたのです
重耳は、衛の文公から厚遇してもらえなかったので、飢えに苦しみ、農民から土をもらいました。
初め重耳は、ふざけていると考え農民に激怒したのですが、部下の趙衰と狐偃から、土が来るということは土地を獲得を意味する、と説得されたのです。
そして楚の成王は、衛の文公とは反対に、重耳の将来性を見通し歓迎しました。
春秋戦国時代は、人への対応で、その人物の技量が分かるのではないでしょうか。
また、重耳の部下の趙衰は、礼儀作法にも精通していたため、重耳が楚の成王の前で失敗しないように指導したのです。
重耳は、賢者な趙衰(ちょうすい)のおかげで、農民から土を提供されることが土地を得る前兆と把握出来ただけでなく、楚の成王の厚遇にも失礼せずに済みました。
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春秋の五覇の穆公の元から懐公が無許可で逃亡したため重耳の晋入国が望まれたのです
重耳は、楚に滞在していましたが、懐公の態度に怒った秦の穆公から乞われて、晋への帰国に成功しました。
懐公は、春秋の五覇穆公から睨まれる程度の人物なので、重耳が晋に来ると、多くの武将が重耳に付いたのです。
そして秦の穆公は、かつて晋の恵公にも裏切られたことがあり、韓原の戦いで勝利しました。
穆公は異民族に馬を食べられた際に、処罰せずに酒を与えたのですが、韓原の戦いで穆公はその異民族に助けてもらえたと伝わっているのです。
また、秦では始皇帝の偉業が知られていますが、始皇帝以前に穆公がいたからこそ、秦が強国化する基盤があったのでしょう。
重耳は、韓原の戦いで勝ち、恵公と懐公に恨みのある秦の穆公の援助で、念願の晋入国を成し遂げました。
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城濮の戦い(じょうぼくのたたかい)で晋の文公重耳は楚の成王の厚遇へのお礼に軍を一旦退却させたのです
重耳は、かつて流浪していた際に、楚の成王に礼遇してもらえたので、城濮の戦いで厚恩に報いました。
そして楚の成王は、重耳が衛での恨みを晴らし、他の列国も味方しているため、戦を回避しようとしたのです。
しかし楚の成王の部下の子玉は、負けず嫌いなので、軍勢を率いらせるのは危険と見なされていたにも関わらず、強いて大戦を希望しました。
結局子玉は、重耳の軍勢に敗れ、楚の成王からも敗戦の責任を強く追及されたため、強気な性格もあって最後が来たのです。
重耳は、春秋の五覇晋の文公にふさわしく、かつての楚の成王の歓待に貢献し、城濮の戦いで軍を一旦退かせた上、成得臣子玉(せいとくしんしぎょく)の軍勢を打ち負かしました。
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斉の桓公からあまりにも歓迎されていたせいで重耳は大志を忘れていたため趙衰と狐偃は無理に出国させたのです
重耳は、斉姜と共に楽しく過ごしていたため、いつの間にか何のために斉に来たのか、思い出せなくなっていました。
また、斉の桓公以後後継者争いが発生し、重耳が国外脱出しなければ、巻き込まれる危険性もあったのです。
重耳が楽しく酒に酔っている隙に、馬車に無理やり乗せたところ、重耳はかなり怒り部下の狐偃を食べるとまで述べました。
ですが狐偃は、もしも晋の文公になれなかった場合、狐偃もただでは済まないので、もう遅いでしょうと語ったのです。
重耳は、晋の文公に就任し春秋の五覇となる大志を忘れ、斉の動乱に巻き込まれそうになっていましたが、狐偃(こえん)の奇策で国外脱出に成功しました。
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春秋の五覇の桓公は重耳が亡命して来るとたくさんの褒美と妻の斉姜を提供したのです
重耳は、晋での内乱を避けるために、斉の桓公の元に訪れ大歓待を受けました。
斉の桓公は、管仲の補佐で春秋の五覇となり、管仲が最後を迎えていたので、有能な重耳を厚遇し人材を集めようとしたのです。
そもそも管仲は、桓公の敵だったのですが、鮑叔が管仲の才能を高評価していたため、桓公に仕えました。
鮑叔と管仲の仲の良さは、管鮑の交わりとも称されているのです。
また鮑叔が管仲に、宰相の立場だけでなく利益も分け与えていたため、民衆は鮑叔が人を見出す賢者であると称賛していました。
重耳は、名宰相管仲(かんちゅう)に最期が来ていたため、春秋の五覇の桓公から厚遇され、斉姜だけでなく他の贈り物ももらえたのです。
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周の襄王を救援することで春秋の五覇の貫禄を示した晋の文公重耳
重耳は、周という衰退しつつあった権威を助けることで、春秋の五覇の威厳を他の武将たちに見せつけました。
そして、重耳が放浪していた際に、同じく春秋の五覇の宋の襄公は、非常に丁寧に対応したのです。
また襄公は、大国楚を会談に招聘したこともあり、楚の成王の部下の子玉から、かなり見下された対応を受けました。
襄公は春秋の五覇の面子を守るために、楚を攻めましたが、戦でも仁義を重視し結局大敗したのです。
ちなみに、故事成語にも宋襄の仁とあるので、宋襄の失敗は皆の教訓とすべきでしょう。
晋の文公重耳は、春秋の五覇として周の襄王を補佐し、宋の襄公はかつて重耳を厚遇しましたが、礼儀に拘り宋襄の仁と揶揄されました。
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三国志の劉琦は劉表の息子だったため荊州の相続争いに翻弄されましたが諸葛亮の策で重耳を真似たのです
三国志の荊州では、八俊の劉表に最後が近付いていたため、部下の蔡瑁張允が暗躍し、劉琦に危機が迫っていました。
劉琦は、張允と蔡瑁を制圧する力が無かったので、劉備の軍師諸葛亮に相談し、重耳のように亡命することにしたのです。
そして蔡瑁と張允の策謀で、劉表の後継者は、劉琦ではなく劉琮となってしまいました。
曹操は官渡の戦いで名門の袁紹にも勝っており、大勢力に変貌していたため、荊州の武将たちも畏怖し、戦をせずに投降したのです。
晋の文公重耳が亡命し難を逃れたように、三国志の諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)の進言で、荊州の劉琦(りゅうき)も後継者争いを避け、曹操と戦う日に備えました。
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まとめ:晋の文公重耳(ちょうじ)の土の意味と三国志と中国の春秋の五覇
重耳が、長い亡命の果てに、どのようにして晋の文公になれたかを解説してきました。晋は後に衰退していくため、重耳が最盛期だったとも言えるでしょう。
そして、春秋の五覇の穆公から重耳が、高評価だったことも説明してきました。重耳は、多くの春秋の五覇からも好印象な、覇者中の覇者と述べられるでしょう。
また三国志の諸葛亮が、荊州八俊の劉表の息子の劉琦を助けるために、重耳の事例を教えたことも記載してきました。
諸葛亮の博識を称えるべきなのか、重耳が亡命の末に春秋の五覇となれたことを称賛すべきなのか。
重耳は、長い放浪の後に春秋の五覇として君臨したため、諦めないことの重要性も学べるでしょう。