三国志の世界でいい人な偉人と言えば、魯粛ではないでしょうか。
呉のイケメン軍師周瑜が、勢力拡大出来たのも魯粛の援助あってのことでしょう。魯粛は、今でいうスポンサーみたいな存在でしょう。
そして魯粛は、ただのいい人な性格ではなく、孫権たちの未来もしっかり考えていたのです。孫権も、曹操や劉備並に、有能な人材を揃えていたということでしょう。
あの天才軍師諸葛亮孔明も、魯粛と知り合いでした。諸葛亮の凄い弁舌は、魯粛に幸をもたらしたのでしょうか。
また、魯粛は風雲児な性格も持っていました。風雲児であればこそ、呉で大活躍し、歴史書に名を残せたのでしょう。
三國志の魯粛を詳しく解説していきます!
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目次
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経済能力で周瑜にも援助し飛躍した魯粛
三国志の魯粛は、経済的に豊かであったため、人々を援助したり賢者と交際したり出来たのです。
将来に役立つことに利用してこそ、財産が輝くのでしょう。
そして周瑜も、魯粛のいい人な性格と経済能力を聞きつけたのです。すると魯粛は、気前よく倉をひとつあげました。
なかなか出来る事ではないと同時に、周瑜が後に大人物になってくれて、魯粛も助かったでしょう。
ちなみに、呂不韋という大商人も、秦の王子に経済的に援助することで、秦で絶大な権力を得ていました。
呂不韋は権力が目的でしたが、魯粛は人助けや有能な武将のバックアップが目的でした。
呂不韋は、後の始皇帝から警戒され自害に追い込まれ、魯粛は呉の君主や偉人から称えられ亡くなったのです。
魯粛は経済能力で、評判を博し、美周郎周瑜公瑾(しゅうゆこうきん)からも高評価でした。
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周瑜の後継者は魯粛、魯粛の後継者は呂蒙
赤壁の戦いで、謀略と火攻めにより曹操を打ち負かした周瑜の後継者が、魯粛で、魯粛の後継者は勉強熱心な呂蒙将軍です。
魯粛が悩んでいた荊州を周瑜も取り組んだのですが、劉備に諸葛亮孔明がいたことでことごとく、対処されてしまいました。
そして呂蒙子明(りょもうしめい)は、関羽が荊州地域を統括していたため、一旦油断させ軍勢の多くが曹操軍に向かってから、荊州を軍事的に制圧したのです。
魯粛が死去した後に、荊州は呉の君主孫権が所有するところとなりましたが、劉備陣営との亀裂が決定的なものとなってしまいました。
魯粛は周瑜の後継者として呉に貢献し、呂蒙は魯粛も解決出来なかった荊州案件を攻略したのです。
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呉の君主孫権が皇帝になるべきことを見通していた有能な魯粛
三国志の魯粛は、後漢皇帝の没落と実力者曹操の興隆から、孫権も皇帝を目指すべきという名言を述べていました。
まるで、諸葛亮孔明が述べているかのようでしょう。
そして、曹操と孫権で天下を分ける事を天下二分の計と呼びます。
劉備陣営を上手く呉に取り込むことが出来れば、天下二分の計は成功したでしょう。
劉備を上手く翻弄しながら、益州や涼州を押さえられればあるいは・・・
諸葛亮がいる前の劉備は天下を放浪していたため、諸葛亮を先に魯粛たちが確保していれば、良かったかもしれません。
強大な曹操に対抗しながら、実力ある劉備たちと連携するには、天下三分の計しかなかったのでしょう。
魯粛は、孫権を中心とした中華秩序を創り出すことで、曹操たちに対抗しようとしました。
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魯粛の妻は明確な記録はないですが息子は魯淑(ろしゅく)
三国志の魯粛には、魯淑という子供がいました。
呉には江東のニ張な張昭という大政治家がいたのですが、子供の張承が魯淑の出世を予言したのです。
実力による出世なのでしょうか、呉の功労者魯粛の息子だからでしょうか。
そして、孫権の前の呉の主君は孫策なのですが、張昭は非常に信頼されていたため、孫権が能力不足なら張昭に政をと述べていたのです。
劉備も最後を迎える際に、諸葛亮に同じような発言をしているため、一種の儀礼的な話とも言えるでしょう。
張昭も諸葛亮も、主君に取って代わらなかったので、釘を刺す発言にもなったのかもしれません。
魯淑は魯粛の息子で、張昭の子供の張承から、重要な地位に就ける事を予見されていました。
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魯粛と諸葛亮の弁舌で赤壁の戦いへ
三国志の呉の武将たちは、あまりにも曹操が強大なので、曹操に降伏する意見が多数だったのですが、魯粛らが主戦派に変えていった。
曹操と戦う実力者として劉備玄徳がいますが、天才諸葛亮孔明も劉備陣営でした。
そして、諸葛亮孔明は、かつて蘇秦が強大な秦国に対抗するために、巧みな話術で六国の宰相を同時に兼任したように、呉を曹操との対決にまとめあげたのです。
また、他の呉の武将たちは曹操に降伏しても、しかるべき地位を得られる可能性がありました。
ですが、呉の主君孫権は呉の復活を恐れる曹操から、処分される可能性が高いのです。
魯粛は、諸葛亮の巧みな弁舌と孫権の立場を利用する事で、曹操対抗を確固たるものにしていきました。
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魯粛は風雲児な性格です
三国志の魯粛は、世の中が物騒になってきたため、武芸に励み軍事演習を行っていたのです。
ただ、周りの人々からはその深い意図が理解されず、変り者な性格と思われていました。
魯粛は結局は、三国志の歴史書に名前が残るほどの偉人になったため、魯粛の方が正しかったのでしょう。
今周りから誤解されている人も、時代の潮流を実は捉えていることもあるのでは?
そして、最初のころは名門の袁術に仕えていたのです。ですが、袁術の一貫性のない態度に失望し、周瑜たちと組むようになっていきました。
魯粛は、時代や人物に対する先見の明があった、と言えるでしょう。
魯粛は、周りから変り者な性格と見なされながらも、乱世に対処するためにスキルアップを行った風雲児な性格です。
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魯粛は45歳くらいで亡くなりました
三国志の魯粛は、荊州問題で頭を悩ませながら亡くなりました。
皆に経済援助をしてきたいい人な性格の魯粛は、殺害が死因ではないのです。
赤壁の戦いで協力し曹操を撃退した孫権と劉備も、荊州問題でいさかいを起こしていました。
一旦は、孫権が劉備に荊州を貸すことで落ち着くのですが、いつまでも返さないので、再燃したのです。
劉備もいい人な性格の偉人として知られていますが、諸葛亮孔明という天才軍師を獲得したあたりから、ずる賢さが結構出て来ます。
最終的に劉備は、蜀漢皇帝に就任するため、劉備にとって諸葛亮ゲットは良策だったのでしょう。
魯粛は、呉の孫権の勢力拡大に貢献しましたが、荊州問題にハッキリとした解決策は示せずに、死去しました。
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まとめ:三国志の魯粛子敬(ろしゅくしけい)は経済でも有能でいい人な性格
三國志の魯粛のいい人で奇抜な活躍を論じてきました。いい人な性格で凄い人になりたい人の参考になるでしょう。
魯粛が経済能力をバックにして、社会貢献と実力者のスポンサーをしていたことも解説しました。
今経済能力がある人は、これはという人を見つけて援助しておくと、倍以上になって帰って来るかもしれません。
魯粛が、赤壁の戦いの英雄周瑜の後継者であったことも述べました。魯粛が、周瑜クラスの凄腕武将ということでしょう。
魯粛の前に立ちはだかった偉人の一人として、諸葛亮孔明も説明しました。いい人な性格だけでは、諸葛亮を味方に出来なかったのでしょうか。
三国志という乱世で、いい人と経済で成功した魯粛から、あなたは何を学びますか?