項荘は、鴻門之会で亜父范増に命じられ、剣舞で劉邦に最後を与えようとしました。
鴻門之会という千載一遇の機会で、項荘は劉邦を仕留め損ねたのです。すでに天下は、項羽の手中から劉邦へと、移りつつあったのでしょう。
そして、勘の良い張良が、劉邦の腹心樊噲を鴻門之会に呼んだのです。項荘と樊噲が剣舞した場合、項荘は迫力負けした可能性もあるでしょう。
また鴻門之会は、司馬遷が作者の史記で力説されているのです。項荘が劉邦を斬っていれば、史記でも、項荘の活躍の解説が増えたでしょう。
他にも、鴻門之会では劉邦陣営から裏切り者がいたので、チャンスが到来していたのです。項荘が無理に劉邦を斬っても、後の批判は難しかったでしょう。
項荘を詳しく解説していきます!
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目次
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西楚の覇王項羽のいとこの項荘はここぞという正念場である鴻門之会で失敗する性格でした
項荘は、亜父范増から信任され、鴻門之会で剣舞を行う流れで、劉邦に最期をもたらす大役を命じられていたのです。
そして劉邦は、項羽に先んじて秦を統括したことで、項羽からも悪印象だったので、無抵抗なまま項荘が討てる予定でした。
しかし項羽には叔父に項伯がおり、項伯は劉邦の軍師張良から助けてもらったことがある人物、だったのです。
ちなみに項伯は、前漢の初代皇帝劉邦を何度も援助したことが評価され、楚漢戦争が終わると、劉邦から劉の姓まで獲得しました。
項荘は、西楚の覇王項羽に刃向かった劉邦(りゅうほう)に、鴻門之会(こうもんのかい)の剣舞中に最後を与え損ねる、性格を持っていたのです。
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慈悲深い性格の西楚の覇王項羽の代わりに亜父范増は項荘を剣舞役に指名したのです
項荘は、鴻門之会で主君項羽の代わりに、手を汚す大任を亜父范増から指示されました。
もしも項羽が劉邦を、急に手討ちにした場合、他の諸将からの信頼を失ってしまう危険性が、あるのではないでしょうか。
やはり組織のトップは、クリーンなイメージで、人望を集め人徳のある武将が、楚漢戦争の際も好まれたのでしょう。
ただ項羽は、有能な人材の待遇に失敗し、国士無双韓信や彭越や陳平を、劉邦に付かせてしまったのです。
また劉邦も、楚漢戦争が終結すると、優秀で危険な彭越や韓信を粛清していきました。
項荘は、西楚の覇王項羽(こうう)の親族として、項羽が実行し難い剣舞暗殺を鴻門之会で行うことを、亜父范増(はんぞう)から任命されたのです。
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亜父范増の命で項荘が剣舞をし始めると前漢の三傑張良が危惧し鴻門之会に樊噲を招いたのです
項荘は、鴻門之会の酒食のお供に、剣舞を披露しましたが、劉邦の軍師張良は、不可解な言動を見抜いていました。
ですので、劉邦の親衛隊の樊噲を呼び寄せ、樊噲は、周囲を威圧する頭髪上指す大迫力を見せたのです。
そして、急に大迫力な樊噲が現れたので、項羽も興味を抱き、大酒とたっぷりな生肉を提供しました。
樊噲は、大酒を一気に飲み、力強く生肉を食べると、主君が秦に侵入した後の経緯を劉邦の弁護と共に、解説したのです。
項荘は、剣舞の流れで劉邦に最後をもたらす寸前でしたが、前漢の三傑張良子房(ちょうりょうしぼう)に見通され、鴻門之会に頭髪上指す樊噲(はんかい)が訪れ、項羽に気に入られたことで、頓挫しました。
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鴻門之会で項伯が項荘の剣舞から沛公を守った理由は前漢の三傑張良への恩返しのためだったのです
項荘は、亜父范増と密談の上、鴻門之会で剣舞を行いましたが、項王の叔父の項伯は異なる考えで動いていました。
項伯は、かつて重罪を犯した際に、張良に守護してもらったことがあり、大恩に感じていたのです。
ですので項伯は、鴻門之会で項荘と剣舞し、沛公こと劉邦を守ることで、張良の恩に報いようとしました。
そして、項羽の叔父が項伯なので、亜父范増や項荘では、強くは注意出来ず、劉邦暗殺は失敗したのです。
また、劉邦が張良のような奇才を味方にしていることは、後々の楚漢戦争の勝敗すらも、左右していきました。
項荘は、項王のために鴻門之会で剣舞し、亜父范増の密命も帯びていましたが、張良に大恩ある項伯(こうはく)も剣舞したので、沛公に最後をもたらせなかったのです。
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史記の作者司馬遷は項羽本紀に鴻門之会の項荘の剣舞と前後関係をわかりやすく解説しています
項荘が、どのような経緯で鴻門之会で剣舞したかは、司馬遷の史記の項羽本紀に、詳しく書かれているのです。
そして司馬遷は、劉邦が建国した前漢に仕えていた人物であるにも関わらず、楚漢戦争で劉邦の敵だった項羽を本紀で取り扱っています。
ですので史記は、古代中国の歴史において、重大な影響を及ぼした偉人を、後世からしっかり学べる本に仕上がっているのです。
また班固の漢書は、司馬遷の史記と並び称されるほどの名著なので、史記に興味のある人は必見と言えます。
項荘がなぜ、鴻門之会で剣舞を実行したかは、司馬遷(しばせん)が作者の史記の項羽本紀に記載されており、司馬遷は前漢の敵だった武将にも高評価を加えているのです。
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劉邦が前漢の初代皇帝高祖となることを見通していた亜父范増は鴻門之会を台無しにした項荘と項羽を非難しました
項荘は、項伯に剣舞を防がれてしまい、項羽も劉邦への慈愛を優先したことで、鴻門之会はただの会談で終わったのです。
范増は、項荘と項羽では、天下を維持出来ないことを悟り、後には項羽から疎んじられて生涯を終えました。
また、三国志でも鳳雛龐統が、劉備に益州を獲得させるために、魏延に項荘のように剣舞させるシーンがあります。
龐統と魏延も、范増と項荘のようにその場では上手くいきませんでしたが、劉備は後に益州を得たのです。
項荘と亜父范増は、三国志の魏延文長(ぎえんぶんちょう)と鳳雛龐統士元(ほうとうしげん)のように、剣舞謀略を展開しましたが、不成功に終わり、范増の項羽に対する予言は的中し、劉邦が前漢の初代皇帝に即位していきました。
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曹無傷が劉邦の項羽への裏切りを密告していたので亜父范増は項荘ではなく項王に最後を与えさせるつもりだったのです
項荘は、剣舞を鴻門之会で見せましたが、曹無傷が劉邦の悪事を亜父范増に報告していたため、そもそもは項羽が直々に劉邦を斬る予定でした。
項羽は、楚漢戦争の際も、劉邦に止めを刺さず、生かすことが多かったので、項羽の性格が災いしたのでしょう。
それに項羽は、祖父項燕と叔父項梁を奪った秦への憎しみは深かったのですが、劉邦へはそこまで恨みが無かったのではないでしょうか。
また曹無傷は、告げ口したことが露見したので、鴻門之会の後に、劉邦から最期を送られました。
項荘は、項羽が曹無傷(そうむしょう)の報告で劉邦を討っていれば、鴻門之会で剣舞する必要が無く、項羽の天下も安泰だった可能性も高いのです。
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まとめ:項荘(こうそう)の剣舞とは?項伯樊噲張良と鴻門之会作者と項王性格
項荘が、亜父范増から、どのように鴻門之会で剣舞させられたかを解説してきました。范増は的確な策を提示しますが、項羽や項荘は、上手く活かせない武将だったのです。
そして項羽が、劉邦を始末し難い性格だったため、范増は項荘を使ったことも説明してきました。項王は器が大きいので、一時的には中華を掌握したのでしょう。
また、味方であるはずの項伯が、項荘の剣舞を妨げたことも記載してきました。項羽や項荘が、張良より大きい恩を項伯に売っておけば、結果は変わったのではないでしょうか。
項荘は、鴻門之会で劉邦に剣舞する、重要な役割を亜父范増から与えられながら成功しなかったので、項羽の先行きの暗さを示してしまった武将だったのです。