西楚の覇王項羽の部下の鍾離眜は、大将軍姜維を味方とし蜀漢滅亡の功労者でもあった、鍾会の祖先なのです。
亜父の范増と部下の鍾離眜は、項羽軍の主力でしたが、陳平の策に翻弄されました。項羽が劉邦に敗北したのは、陳平のような策士が少なかったからでしょう。
そして鍾離眜は、劉邦と項羽の最終戦の垓下の戦いで、生き残りました。項羽から疎んじられ始めていたため、鍾離眜の項羽への忠誠心も、薄れていたのでしょう。
また国士無双韓信が、鍾離眜を劉邦から保護していたことも説明していきます。戦では百戦錬磨な韓信ですが、政治や謀略面の才能は高かったのでしょうか。
ちなみに、鍾離眜の読み方は、しょうりばつです。
鍾離眜と三國志を詳しく解説していきます!
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目次
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陳平が覇王項羽を見限り離間の計を展開したことで鍾離眜と范増は窮地に陥りました
鍾離眜は、項羽の腹心と呼べるほどの武将でしたが、陳平が疑心暗鬼を操ったので、項羽陣営で不利になっていったのです。
陳平は、戦国四君の信陵君の子孫の魏無知から、高評価されていましたが、元々は項羽の部下でした。
そして、項羽陣営の内情を深く把握していたからこそ、陳平は離間の計が可能である、と見通していたのです。
また陳平だけでなく、劉邦の大将軍の国士無双韓信も、元は項羽の配下でした。
項羽は、部下を親しいかどうかで重用するか決定するので、有能な者でも仲が良くなければ、離反していったのです。
鍾離眜は、覇王項羽から重用されていましたが、劉邦に鞍替えした陳平(ちんぺい)が離間の計で項羽の猜疑心を強めたので、范増(はんぞう)と共に遠ざけられていきました。
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季布と鍾離眜は西楚の覇王項羽と共に墓場に行かず垓下の戦いで逃亡しました
鍾離眜は、項羽の重臣でしたが、劉邦との垓下の戦いで項羽と心中せずに、退却したのです。
垓下の戦いで劉邦は、項羽を心理的に追い詰めるために、四面楚歌を行いました。
そして、楚の人々からも見放されたと悟った項羽は、愛妻の虞美人とも別れを告げ、自害したのです。
劉邦は、項羽の部下だった者たちの心を掴むために、項羽を丁重に葬りました。
また垓下の戦いは、劉邦にとっても楽な戦ではなく、韓信や彭越が後々を考えなかなか来ないため、きっちり恩賞を確約しなければならかったのです。
鍾離眜は、垓下の戦いから生還しましたが、西楚の覇王項羽(こうう)は四面楚歌で追い込まれ、最後が来ました。
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三国志の夏侯淵と夏侯惇の祖先の夏侯嬰は鍾離眜の仲間の季布を助けました
鍾離眜は、韓信を頼りましたが、季布は劉邦の腹心の夏侯嬰に付いたのです。
韓信は、劉邦の大将軍だったのですが、劉邦の昔馴染みとは言えない関係でした。
そして季布は、鍾離眜が韓信から最後を与えられたのと反対に、劉邦から厚遇されていったのです。
また、冒頓単于が劉邦の妻の呂雉をからかった際も、季布は樊噲を批判し、匈奴討伐に反対しました。
季布は、冒頓単于の件に代表されるように、発言に重みがあるため、季布の一諾は大金よりも値打ちがある、とまで言われていたのです。
鍾離眜は、頼る者を間違え韓信と共に滅び、季布(きふ)は三国志の夏侯惇と夏侯淵の祖先から保護され、劉邦の妻呂雉(りょち)に諫言して匈奴の攻撃を防ぎました。
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前漢の三傑の国士無双韓信の元に匿われていた鍾離眜にも最後が訪れました
鍾離眜は、劉邦の部下の国士無双韓信に守られていたのですが、韓信は劉邦を恐れていたのです。
劉邦は、楚漢戦争で鍾離眜から苦戦させられていたため、鍾離眜を始末しようとしていました。
そして韓信は、劉邦から謀反を疑われていたので、嫌疑を晴らすために、鍾離眜を利用しようと企んだのです。
また、劉邦は韓信にとって、大将軍に大出世させてくれた大恩人なので、友人の鍾離眜よりも大切な存在だったのではないでしょうか。
しかし、天下三分の計を進言した蒯通と鍾離眜の予測通り、韓信は劉邦から能力の高さを警戒され謀反し、失敗して終わったのです。
鍾離眜の最期を劉邦に献上した韓信(かんしん)は、淮陰侯にさせられましたが、生き残ることに一旦成功しました。
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英布に勝った龍且は鍾離眜の友人の韓信を股くぐりに過ぎないと見下していましたが水攻めで敗れたのです
鍾離眜と共に項羽を支えていた龍且は、猛将でしたが、韓信の能力を見抜けませんでした。
しかし龍且は、黥面賊の九江王英布が項羽と対立したので、攻撃し撃破したほどの名将だったのです。
そして韓信は、一見弱く見せておきながら、奇策を展開し章邯や陳余に勝ったため、龍且も股くぐりとして侮ったのは危険でした。
龍且が気付かない内に、国士無双韓信は、水を貯めておき、龍且軍が水の通り道に来た途端、水を放出したのです。
ちなみに、英布は初めは劉邦から厚遇されていましたが、韓信や彭越が粛清されていったため、謀反を行い玉砕しました。
鍾離眜の友達の韓信を軽んじていた龍且(りゅうしょ)は、陳余(ちんよ)や章邯(しょうかん)と同様に奇計に敗北し、最後を迎えたのです。
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三国志の鍾会は劉邦の子孫の劉禅を攻めることで祖先の鍾離眜の無念も晴らしたのです
鍾離眜は、楚漢戦争で劉邦の恨みを買っていたので、あえない最期が来ましたが、子孫の鍾会は蜀漢に大勝利しました。
そして鍾会は、蜀漢の大将軍姜維と連携し、独立勢力を創設しようとしたのです。
姜維の策謀で鍾会は、ライバルで劉禅を降伏させた鄧艾の排除にも成功しました。
ですが、鍾会の部下たちは帰郷を望み、姜維の配下は自信を喪失していたのです。
ちなみに鄧艾は、鍾会が反乱に失敗したので、部下に助けてもらえたのですが、逮捕した衛瓘が後の災いを恐れ、鄧艾を無理に討ちました。
鍾離眜の子孫の鍾会士季(しょうかいしき)は、鄧艾士載(とうがいしさい)と共に蜀漢滅亡に貢献しましたが、姜維伯約(きょういはくやく)と画策した反乱で自滅し、最期がもたらされたのです。
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鍾離眜に最期を与えた劉邦には心の広さと勢力認識と好き嫌いを上手く操れる特徴があったのです
鍾離眜は、韓信に追い詰められましたが、劉邦は敵を受け入れ活かす度量も有していました。
前漢の三傑の蕭何に評価されていたとはいえ、韓信は元々覇王項羽の配下だったのです。
そして劉邦は、韓信と鍾離眜が提携し、刃向かう危険性も分かっていました。
ですので、韓信に鍾離眜を討たせる流れを創り出し、劉邦は難敵を巧みに減らしたのではないでしょうか。
また、大粛清に成功した劉邦でしたが、匈奴の冒頓単于との戦で苦労する原因も、作り出してしまったのです。
鍾離眜は、国士無双韓信との親しさを信じていましたが、前漢の初代皇帝高祖劉邦の特徴を深くは知らなかったので、残念な末路となりました。
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まとめ:鍾離眜(しょうりばつ)と三国志と龍且季布と陳平韓信逸話
鍾離眜が、覇王項羽からどういう対応を受け、どのような最期だったかを解説してきました。
仕えている主君が敗れながら、生きていたので、そもそも長生きするのは難しかったのではないでしょうか。
そして、季布が鍾離眜と異なり、上手く劉邦に鞍替えしたことも説明してきました。季布の発言で前漢は救われるため、劉邦の見る目も称賛すべきでしょう。
また、鍾離眜の子孫の鍾会が、先祖の敵討ちを成し遂げたことも述べてきました。鍾会は野心に満ちあふれていたので、野心の結果、祖先に貢献したのです。
鍾離眜は、項羽から認められるほどの能力がありながら、友のはずの韓信から追い込まれたので、最後の選択を間違った勇将と言えるでしょう。