かっこいい張遼が見られ、呉の君主孫権が九死に一生を得たのが、三国志の合肥の戦いでしょう。
合肥の戦いは、赤壁の戦いでの防戦から国力をアップさせた、呉の孫権の晴れ舞台でした。
超世の傑曹操が、赤壁の戦いで敗れたことで、孫権が力を付ける機会を与えてしまったのです。
そして合肥の戦いでは、曹操の部下張遼楽進李典が険悪、だったことも重要とされています。名将たちは険悪な関係で、呉の孫権の大軍にどのように対処するのでしょうか。
また、合肥の戦いで活躍した孫権の部下甘寧と凌統が、不仲だったことも説明していきます。乱世では至る所に怨恨が潜んでいるのでしょう。
三國志の合肥の戦いを詳しく解説していきます!
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目次
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赤壁の戦いで孫権は曹操に攻め込まれたので今度は合肥の戦いで逆に攻撃したのです
三国志の合肥の戦いは、呉の孫権が大軍で曹操軍を攻めた、赤壁の戦いの雪辱を行う軍事行動でした。
赤壁の戦いの際孫権は、曹操から大軍で攻められたのです。
結局孫権の軍師周瑜の活躍で、曹操軍を退けましたが、孫権軍も少なからずダメージを受けました。
そして、曹操の合肥城には、あまり軍勢がいなかったので、呉の孫権はチャンスを逃さずに攻めたのです。
また、荊州と益州方面は、孫権の同盟者と言える劉備と諸葛亮が勢力圏としていました。
ですので孫権は、曹操との合肥の戦いに、集中可能だったのです。
孫権は赤壁の戦い以降国力を充実させ、曹操孟徳(そうそうもうとく)軍のほころびを見つけたので、合肥の戦いを行いました。
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合肥城の張遼と李典と楽進は不仲で知られており軍勢も少数だったのです
三国志の合肥の戦いは、孫権が大軍を動員したのと反対に、曹操軍は数千人ほどで、しかも楽進と張遼と李典は仲が良くないことで知られていました。
しかし張遼と楽進と李典は、合肥の戦いが国家の一大事であると心得ていたため、不仲を乗り越え一致団結したのです。
そして曹操は、孫権が軍事行動をした際のことも考えており、手紙で指示を残していました。
手紙では、李典と張遼の出撃が明示されていたのです。
曹操は張遼の能力を高く評価していたため、孫権の大軍にも張遼軍なら対抗出来、合肥城の包囲を妨害出来ると考えていたのでしょう。
不仲な張遼と楽進文謙(がくしんぶんけん)と李典曼成(りてんまんせい)は、合肥城に迫る孫権の大軍と曹操の手紙の指示の前に、団結せざるを得ませんでした。
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甘寧は遺恨ある凌統と共に合肥の戦いで張遼から孫権を守ったのです
三国志の合肥の戦いは、気迫で優る張遼軍が優勢となり、孫権の腹心の甘寧と凌統も苦戦しました。
凌統は、父凌操を甘寧に討たれていたので、甘寧を恨んでいたのです。
しかし張遼が攻めて来る中、恨みを考えているわけにもいかず、孫権を必死に守護しました。
そして甘寧は、魏に張遼がいるのなら孫権には甘寧がいる、と言われたほどの勇将なのです。
ちなみに甘寧は、凌統が敵に苦戦している際に、しっかり援護したため、凌統との不仲が解消されたと言われています。
甘寧興覇(かんねいこうは)は張遼クラスの名将だったので、合肥の戦いで凌統公績(りょうとうこうせき)と共に、主君孫権を守り通せました。
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張遼は合肥の戦いで精鋭数百人を選りすぐり孫権軍を不意打ちしたのです
三国志の合肥の戦いで張遼は、孫権が大軍だったため、精鋭数百人で急襲しました。
孫権は初めは驚きましたが、大軍で包囲すれば良いと考え、張遼軍を取り囲んだのです。
そして張遼は、優れた武勇で孫権の包囲を突破しましたが、味方が取り残されました。
張遼は自分だけが助かろうとせずに、孫権の包囲に斬り込み、味方を無事に救出したのです。
また張遼は、人中の呂布馬中の赤兎な飛将呂布の部下だったこともあるため、孫権軍の将兵ではなかなか太刀打ち出来なかったのでしょう。
孫権は大軍であることで油断していたため、張遼文遠(ちょうりょうぶんえん)に合肥の戦いで圧倒され、味方も助け出されてしまいました。
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小覇王孫策クラスの武勇を誇っていた太史慈は合肥の戦いで張遼と一騎打ちしたのです
三国志の合肥の戦いでは、武勇に優れた張遼と太史慈の一騎打ちも、見所と言えます。
太史慈は、かつて主君孫権の兄孫策に仕えていました。
孫策は、覇王項羽な気力を示していたので、江東の小覇王と評価されていたのです。
そして太史慈は、張遼と激しい一騎打ちを行っただけでなく、策も弄しましたが、名将張遼に看破されました。
ちなみに太史慈は、乱世の奸雄曹操からも高評価されていた逸材だったのです。
もしも曹操が採用出来ていれば、張遼と太史慈の名将タッグが、合肥の戦いで見られたかもしれません。
張遼は合肥の戦いで、江東の小覇王孫策伯符(そんさくはくふ)レベルの武力な太史慈子義(たいしじしぎ)と一騎打ちし、逆に返り討ちにしたのです。
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孫権は合肥の戦いで追い詰められましたが崩された橋を上手く飛び越え張遼の追撃を逃れました
三国志の合肥の戦いでは、孫権の大軍を翻弄した張遼がチートな強さを示しましたが、呉の君主孫権は馬を巧みに操り、逃げることが出来たのです。
そもそも張遼軍は、孫権軍を退却させないために、橋をある程度壊していました。
しかし孫権は、ここから逃れるしかないと考えており、馬をけしかけ崩れた橋を乗り越えたのです。
また張遼は、孫権がどのような人物か把握しておらず、孫権が逃げるチャンスを与えてしまっていました。
ここでもしも張遼が孫権を斬っていれば、曹操軍は、赤壁の戦いの成功に近い成果を得ていたかもしれません。
張遼は小軍勢をチートな気迫で統率し、呉の孫権を追い詰めましたが、孫権もチートな大飛躍で退却したのです。
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孫権は合肥の戦いでの張遼のチートな強さを後々まで畏怖していました
三国志の合肥の戦いは、大軍を擁していたはずの孫権が張遼の気迫に敗北したため、孫権は張遼を極度に警戒するようになったのです。
孫権は魏と戦う際、張遼がいると聞くと、張遼が病にも関わらず非常に危惧しました。
そして、張遼以上の武勇があるとされていたのが、武神関羽です。
官渡の戦いで、袁紹の部下の猛将文醜と顔良に、張遼は手こずったのですが、関羽は難なく打ち取ったと伝わっています。
関羽が合肥の戦いに参戦していたら、張遼以上の伝説を残したかもしれません。
合肥の戦いで勇猛さを示した張遼は、呉の君主孫権仲謀(そんけんちゅうぼう)から恐れられていましたが、関羽雲長(かんううんちょう)は張遼以上の武人とされているのです。
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まとめ:三国志合肥の戦いの張遼のかっこいいチートな強さに退却させられた孫権
三國志の合肥の戦いで、張遼の迫力の前に、孫権の大軍がなすすべなく崩れたことを解説してきました。
たとえ大軍に囲まれても、武力に優れた武将がいると、勝敗はまだまだ分からないということでしょう。
そして合肥の戦いでは、太史慈と張遼の一騎打ちが繰り広げられたことも、説明してきました。
張遼が呉の君主孫権を圧倒したとしても、他の呉の名将がいる限り、完全な勝利にはならないのでしょう。
また、孫権が合肥の戦いでの張遼の凄さを、後々まで覚えていたことも述べてきました。
孫権が長生きしたのは、危機意識が他の武将よりも、高かったからかもしれません。
張遼がいたからこそ合肥の戦いは、孫権の敗北に終わったと言えるので、張遼はやはりチートな強さでしょう。