三国志の裏切りな呂布が、無敵な強さを誇っていたのは、赤兎馬がいたからでしょう。
呂布は赤兎馬と共に大戦果を上げたので、馬中の赤兎人中の呂布という名言が誕生しました。呂布は無残な最期を迎えますが、強さは折り紙付きだったのでしょう。
そして、呂布の赤兎馬に近い存在が、今も実在していることも説明していきます。呂布は三国志でも特別な異才を放っているので、アハルテケのような黄金の馬が似合うのでしょう。
また、赤兎馬の持ち主が、どんどん変化していることも記載していきます。呂布と関羽は、どういう経緯で赤兎馬を獲得したのでしょうか。
ちなみに、赤兎馬の読み方は、せきとばです。
三國志の呂布と赤兎馬を詳しく解説していきます!
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目次
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呂布と赤兎馬は黒山賊の張燕を撃破し人中の呂布馬中の赤兎と謳われました
三国志の呂布と赤兎馬は、張燕の黒山賊の大軍に、他の勇将と共に間断なく苛烈な突撃を行い、伝説を作り出したのです。
そもそも黒山賊は、四世三公の名門袁紹でも手を焼くほどの集団でした。
呂布は赤兎馬共に、袁紹のために黒山賊を滅亡させたのですが、いいように利用されたので、袁紹と敵対するようになったのです。
そして最終的には、乱世の奸雄曹操から追い詰められ、呂布は赤兎馬を部下の侯成に奪われました。
しかし呂布は曹操に、私を獲得したのだから、天下を得たのも同然だろうと語ったのです。
呂布は赤兎馬で張燕(ちょうえん)の黒山賊に、連続で突撃を繰り返すことで、最強伝説を生み出しましたが、最後は心根を疑われ曹操に処刑されました。
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呂布を尊敬していた水滸伝の呂方も赤兎馬の持ち主です
三国志の呂布の赤兎馬は、水滸伝の呂方も獲得しており、呂方は呂布を称賛していました。
呂布は赤兎馬以外にも、トレードマークとして、方天画戟もあるのです。
そして水滸伝の呂方は、赤兎馬だけでなく方天画戟も持っていた、と伝わっています。
また呂方は、全身を赤兎馬のレッドカラーで統一した武将、でもありました。
ちなみに、呂布は董卓鎮圧の功績で、王允から温侯の地位を与えられていたため、水滸伝の呂方も小温侯と言われていたのです。
小温侯なので、ミニ呂布のような意味でしょう。
水滸伝の呂方(りょほう)は、呂布を高評価していたため、呂布のように赤兎馬に乗り、方天画戟も所有していたのです。
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呂布の赤兎馬は現代でも実在しているアハルテケで昔の汗血馬
三国志の呂布の赤兎馬は、黄金の馬な実在のアハルテケと呼ばれているだけでなく、汗血馬とも言われているのです。
アハルテケはトルクメニスタンが産地であり、外見がゴールドなので、見かけからして貴重に思われています。
そして、赤兎馬の異名である汗血馬とは、名前の通り、駆ける際に血のような汗を出すという意味です。
また漢は、北方の遊牧民の軍事力に悩まされており、その力の源泉が、名馬にあることを知りました。
ですので漢の皇帝は、西方から、名馬の汗血馬を獲得し、北方の遊牧民に対抗したのです。
呂布の赤兎馬は、漢の皇帝が欲しがった汗血馬であるだけでなく、黄金の馬で実在のアハルテケとも述べられています。
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赤兎馬は当初董卓が持ち主でしたが呂布に贈られました
三国志の呂布の赤兎馬は、軍師李儒の献策で董卓が味方を増やすために、呂布にあげた名馬です。
元々呂布は、勇猛な丁原と義理の親子関係を築いていました。
呂布が貪欲でも、よほどのことがなければ、丁原から董卓に鞍替えしないと、軍師李儒は考えたのです。
董卓は、名馬赤兎よりも後漢朝廷と天下を獲得する事を選び、呂布に赤兎馬を与えました。
ちなみに、李儒は後漢皇帝の献帝劉協の兄を毒殺した、と言われてもいます。李儒の悪知恵があったからこそ、董卓は好き勝手に出来たのでしょう。
赤兎馬は元は董卓仲穎(とうたくちゅうえい)が持ち主でしたが、呂布を丁原建陽(ていげんけんよう)から鞍替えさせるために、董卓から呂布へプレゼントされたのです。
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赤兎馬の持ち主呂布が最期を迎えた後曹操は関羽に与えました
三国志の呂布の赤兎馬は、後に曹操が獲得し、関羽を手懐けるために贈られたのです。
曹操は、劉備が行方不明になった際に、関羽を降伏させることに成功しました。
しかし劉備の居場所が分かった場合、関羽が曹操から去る危険性があったので、曹操は赤兎馬をあげたのです。
関羽は、赤兎馬を得たことを非常に喜んだのですが、理由が、義兄弟の劉備を見つけたら、すぐに会えるからというものでした。
仁義で忠誠心にあふれる関羽の心は、赤兎馬をもらったくらいでは、揺るがなかったのでしょう。
曹操孟徳(そうそうもうとく)は、赤兎馬で関羽の心を繋ぎ留めるつもりが、逆に、劉備玄徳(りゅうびげんとく)のところへ、すぐに去らせるための翼を与えてしまったのです。
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樊城の戦いの大戦果に驕った関羽が最後を迎えたので赤兎馬の持ち主は馬忠となりました
三国志の呂布の赤兎馬は、関羽が呂蒙たちに打ち取られたので、馬忠が最終的な持ち主だったのです。
関羽は、樊城の戦いで歴戦の勇将曹仁を追い詰め、于禁を降伏させ、猛将龐徳を討ちました。
しかし、同盟関係にあるはずの呉の呂蒙が、荊州を不意打ちにしたので、関羽は窮地に陥ったのです。
そして関羽を捕える際に活躍した馬忠は、赤兎馬という偉大な名馬を褒美としてもらいました。
ですが、赤兎馬は馬忠を認めておらず、食料を食べずに、死んでしまったのです。
馬忠のせいで、昔の持ち主の関羽が最後を迎えたので、赤兎馬の腹いせだったのかもしれません。
赤兎馬は、呂布と関羽雲長(かんううんちょう)を持ち主と認めていましたが、馬忠(ばちゅう)のことは、評価していませんでした。
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水滸伝の関勝は関羽の子孫とされており赤兎馬の持ち主でもあったのです
三国志の呂布の赤兎馬は、関羽の末裔に受け継がれており、水滸伝の関勝が所有していました。
関勝は赤兎馬だけでなく、関羽の愛用の武器青龍偃月刀も、持っていたのです。
そして、青龍偃月刀はかつて、関羽に最後が来ると呉に奪われていたのですが、関羽の子供の関興が夷陵の戦いで取り戻しました。
また、関羽の子孫の関勝は、関羽と同じように、凛々しい髯を生やしてもいたのです。
関羽は軍師諸葛亮から、髯殿と言われていたので、綺麗な髯があってこそ、関羽の子孫を名乗れるのかもしれません。
呂布が持ち主だった赤兎馬は、関羽が獲得した後に、水滸伝の子孫関勝(かんしょう)のものになっていました。
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まとめ:三国志の呂布奉先(りょふほうせん)と赤兎馬(せきとば)の持ち主と実在アハルテケ
三國志の呂布と赤兎馬の凄さと、赤兎馬の持ち主の変遷を解説してきました。赤兎馬は、三国志の偉馬と呼ぶべき存在、ではないでしょうか。
そして、赤兎馬の持ち主が、董卓だった時期もあることを説明してきました。董卓が赤兎馬に乗っていたら、反董卓連合軍を一網打尽に出来たのでしょうか。
また、赤兎馬の持ち主が馬忠になると、途端に、赤兎馬の覇気が無くなったことも書きました。赤兎馬クラスになると、持ち主を選ぶのでしょう。
他にも、水滸伝の関勝と呂方が、赤兎馬の持ち主だったことも述べてきました。四大奇書水滸伝に出て来るほど、赤兎馬は凄いということでしょう。
呂布のような武勇伝を残したい人は、まずは赤兎馬をゲットすべきかもしれません。