三国志の四世三公の名門袁紹の軍師が沮授です。
沮授は袁紹の前に、韓馥に仕えていました。やはり名軍師沮授な進言を行っています。
沮授は、いにしえの名軍師張良と陳平レベルな偉人ですが、袁紹はあまり沮授の話を聞いていないのです。
凄い話をしてくれる沮授の話に耳を傾けなかった袁紹は、どうなってしまうのでしょうか。
そして、沮授は官渡の戦いでも良い献策を行っています。そろそろ袁紹も沮授の話を聞くのでしょうか。
また、袁紹配下の逢紀と田豊と郭図と許攸も、説明しています。沮授とどのような違いがあり、最期はどうだったのでしょうか。
たくさんの軍師がいるからといって、必ずしも良い結果にはならないのでしょう。
三國志の沮授を詳しく解説していきます!
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臆病な性格の韓馥を止めようとした沮授
三国志の沮授は、袁紹の勢いに恐れおののく韓馥に諫言しました。
韓馥は初めは董卓の横暴を食い止めるために、袁紹と連携していたのですが、袁紹は韓馥の領土も狙っていたのです。
そして、韓馥の武将が袁紹に鞍替えし出したため、韓馥自身も袁紹に領土を割譲して恐怖から逃れようとしました。
韓馥は一時的に平穏を手に入れたのですが、袁紹の一挙手一投足が気になり出し、自分から最後を選んでしまいました。
韓馥のように良い状況からスタートしても、身に備わった実力が無ければ、元よりも悪くなるのでしょうか。
沮授は韓馥を助けるために献策しましたが、韓馥文節(かんふくぶんせつ)が臆病過ぎて、いつの間にか最期が来ていたのです。
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借刀殺人で漁夫の利を得た逢紀(ほうき)
三国志の逢紀は、公孫瓚に韓馥を攻めさせることで恐れさせたため、袁紹は冀州を戦わずに獲得しました。
袁紹を河北の一大勢力に押し上げたのが逢紀ですが、この後は自分の地位を守ることにこだわったのです。
袁紹の軍師の沮授と田豊が、曹操と今は戦うべきではないと述べたのですが、逢紀は袁紹の大勢力なら押し切れると主張しました。
田豊と逢紀が不和だったため、田豊と対立する意見を指示したと、言われているのです。
逢紀は、袁紹の後継者をあまり明確な根拠も無く袁尚としたので、一気に最期が訪れました。
逢紀元図(ほうきげんと)は、袁紹の河北掌握の立役者でしたが、自己保身を重視し、家臣団の分裂を発生させ、自らの最後も来てしまったのです。
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沮授の正当な主張を聞かなかった袁紹
三国志の沮授は、袁紹に後漢皇帝を迎え入れることを進言しましたが、やんわり拒否されました。
袁紹は大勢力ですが、他の武将が後漢皇帝を確保した場合、正当性が高まり、長い目で見ると袁紹が倒されるリスクがあるのです。
結局曹操が後漢皇帝を保護し、袁紹と競うまでになってしまいました。
袁紹は優柔不断な性格とも評価されているので、曹操の動きの速さに、対処出来なかったのかもしれません。
袁紹が戦う相手が、曹操レベルの実力者でなければ、袁紹の家柄と能力と軍師たちで、押し切れたのではないでしょうか。
沮授は、主君袁紹が中国の正当な支配者になるために、後漢皇帝の必要性を述べましたが、袁紹は聞けませんでした。
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沮授と共に張良陳平な知力と評価された田豊(でんぽう)
三国志の田豊は、袁紹の軍師沮授に匹敵する知略の高さを持っていたのです。
袁紹が白馬将軍公孫瓚を打ち負かしたのは、田豊が軍師としていたからと言われています。
そして、田豊も沮授と同じように、後漢皇帝が袁紹の元にいるべきという考えでした。
曹操が後漢皇帝を確保した後も、田豊は何とか後漢皇帝を獲得しようとしたのです。
田豊の予想通り、曹操は後漢皇帝を活用して、味方を増やしていきました。
袁紹は公孫瓚に勝利することで、河北でかなり大きな勢力となり慢心が生じて、賢臣田豊や沮授の意見が、聞こえなくなったのかもしれません。
田豊元皓(でんぽうげんこう)袁紹の勢力拡大に貢献しましたが、後漢皇帝を確保させられなかったのです。
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官渡の戦いで猛将顔良の最後を予言した沮授
三国志の沮授は、顔良が偏った考え方を持っているので、ひとりで出陣させるべきでない、と述べたのです。
- 目先の利益に囚われて最後が来た郭図(かくと)
- 官渡の戦いで曹操に勝利をもたらした許攸(きょゆう)
曹操軍に武神関羽雲長がいたこともあり、顔良はすぐに斬られました。
また沮授は、曹操軍の兵糧が足りていないことを利用した長期戦が良いと言いましたが、これも取り上げられなかったのです。
沮授は袁紹に的確な話をするものの、袁紹には聞き入れる器量がありませんでした。
そして、袁紹には沮授以外にも、田豊や許攸や郭図や逢紀などの軍師がおり、それぞれが違う意見を述べるので、袁紹では聞き分けられなかったのです。
袁紹が名門として生まれ、謙遜して有能な人材を招いたことで、状況が複雑化し、状況が混乱したのでしょう。
沮授は、官渡の戦いでも素晴らしい忠言を行いましたが、ことごとく袁紹の耳に入りませんでした。
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目先の利益に囚われて最後が来た郭図(かくと)
三国志の郭図は、目の前の利益を優先する事で、滅亡していきました。
沮授が後漢皇帝を獲得しようとした際に、郭図は袁紹が、後漢皇帝に煩わされることを理由に、批判したのです。
曹操が後漢皇帝を得て強大な勢力になったため、郭図は目先のメリットしか見えていなかったと言えます。
そして、袁紹の息子の袁譚が曹操と戦う際に、郭図は表面的に同盟を行い、袁紹の他の子供たちの勢力を合わせることを主張したのです。
袁譚は急激に勢力を拡大したため、曹操に本心を見抜かれ、結局郭図と共に最後が訪れました。
曹操に、二心なくしっかり仕えておけば、袁譚だけはセーフだったかもしれません。
郭図公則(かくとこうそく)は、沮授と異なり、長期的な視点が欠けていたのです。
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官渡の戦いで曹操に勝利をもたらした許攸(きょゆう)
三国志の許攸は、袁紹に進言が受け入れられなかったため、敵の曹操に味方し、烏巣を攻撃させることで、官渡の戦いを終結させました。
許攸は良い献策を行うものの、強欲な性格だったのです。
そして袁紹の部下に、許攸の親族の罪を告発する者が現れたため、許攸は追い込まれ、曹操に袁紹軍の重大な欠点を教えて鞍替えしました。
戦後、烏巣の件で許攸は驕り高ぶり、曹操に官渡の戦いでの貢献を繰り返し語ったのです。
曹操たちはいい加減目障りになってきたため、許攸に最後を与えました。
許攸子遠(きょゆうしえん)は、袁紹を見限り曹操に付きましたが、功績を威張り過ぎて最期が訪れたのです。
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まとめ:三国志の沮授(そじゅ)
三國志の悲劇な軍師沮授を解説してきました。どのような凄い発言をしようとも、聞いてくれる君主でなければ、すべて無駄なのでしょうか。
袁紹の配下の逢紀がいたため、沮授の進言が取り上げられなかったことも述べました。軍師同士で勢力争いをしていた結果、曹操に負けたのでしょうか。
そして、沮授と同じくらいの知略な田豊も語りました。沮授と田豊が初めから曹操や劉備に味方していたら、もっと活躍出来たでしょう。
また、袁紹の部下には、自分本位な郭図がいたことも説明しました。沮授や田豊のような良い軍師がいても、勝手な武将がいると残念な最後となるのでしょう。
沮授は、自分自身は素晴らしい能力を持っていたにも関わらず、君主に恵まれなかった軍師と言えるでしょう。