三国志の魏には猛将が多いですが、その代表格と言えるのが張遼でしょう。
勇将呂布ですら恐れる死に際で、潔く斬られようとしたのが張遼なのです。どれほどの人物が、死を前にして豪胆さを出せるでしょうか。
張遼といえば合肥の戦いと言えるほどの人物です。張遼を敗軍の将から取り立てた曹操の力量も、褒めるべきでしょう。
そして、張遼と関羽の友諠も見逃せないのです。張遼がいたから関羽で、関羽がいたから張遼とも言えます。
また、呉の孫権の部下甘寧と張遼が、同じくらいの強さとされることもあるのです。
大将軍の張遼と張り合えるのは、並の人物ではないと述べられるでしょう。
かっこいい将軍張遼を詳しく解説していきます!
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目次
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三国志の張遼!字は文遠
張遼は勇将呂布の部下だったのですが、曹操に敗れ、曹操の軍門に下り大活躍しました。
曹操だからこそ、張遼の力を引き出せたのかもしれません。
曹操の前の主君は呂布だったのですが、張遼が献策してもあまり取り入れませんでした。
その後の張遼の働きを考えると、呂布に聞き分ける力が無かったのか、度量が狭かったのか・・・
また、呂布は自由気ままに動いても、戦果を上げられる将軍でもありました。あまりにも自由過ぎて、最後は全てを失ってしまったのでしょうか。
そして、魏の将軍には、張遼の他にも、于禁・楽進・徐晃・張郃がおり、この4人よりも張遼は、高く評価されることが多いです。
張遼は、曹操に降伏してから本領を発揮し、三国志の世界を雄飛しました。
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見苦しい呂布とかっこいい張遼の名言
三国志の張遼は、曹操に負け捕らわれた際に、呂布のように命乞いせずに、斬られることを望みました。
人は誰もが皆、自分の命が大事だと思いますが、張遼は敗北して主張しなかったのです。
なかなか出来ることではないでしょう。
反対に張遼の主君だった呂布は、曹操に何とか助けて欲しいと述べ続けたのです。
あまりにも情けないため、張遼は呂布を強く批判してたしなめました。
命乞いするような武将に付いていた自分が、恥ずかしくなったのかもしれません。
そして、誰かの配下になる場合、事の結果が主君にかなり左右されてしまうので、安易に主君を決めないことも重要でしょう。
張遼は呂布のように助けを求めず、潔く斬られることを希望しましたが、逆に気骨を評価され曹操に登用されたのです。
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合肥の戦いで魅せた張遼の最強な気迫
張遼はわずか数百の軍勢で、10万ほどの呉軍を圧倒し、あわや孫権を打ち取るまでいったチート能力な人物なのです。
そもそも、呉の孫権が数万以上の大軍で合肥に攻め寄せた際に、魏軍の張遼たちの元には、数千ほどの軍勢といがみ合う将兵しかいませんでした。
ただ、そのことが功を奏し、普段のいさかいを忘れ呉軍の前に一致団結し、孫権らを追い払ったのです。
そして、曹操は人材収集家と優れた人物眼で知られています。
曹操は合肥の守備兵たちに手紙で指示を書いていたのですが、わざと仲の良くない武将を配置することで、外敵の前に協力して普段以上のパワーが出るようにしたのではないでしょうか。
ちなみに、合肥の戦いで張遼は、大車輪な働きを見せ呉軍を撃退したため、遼来遼来(張遼が来る)と言われ畏怖された逸話もあります。
三国志の張遼はチートレベルの能力があったので、呉の主君孫権をかなり追い詰めました。
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孫権に私には甘寧がいると言われた野蛮な名将
曹操孟徳には、張遼文遠がいるが、私には甘寧がいると、呉の主君孫権は述べたとされています。
孫権にとって甘寧は、張遼ほどの名将だったのです。
ただ、問題のある言動も多く何度も処分されそうになりました。
また、甘寧が仲間と共に鈴をファッションとしていたため、鈴で甘寧たちが来たことが分かるレベルだったのです。
曹操の大軍と孫権が激突した赤壁の戦いの際も、甘寧は敵の偽計を逆に活用して曹操軍に大ダメージを与えました。
甘寧らしい野性な反撃でしょう。
そして、甘寧のような野蛮な人物はもしかしたら、仁義や高潔が売りの劉備軍では採用されないかもしれません。
甘寧は、孫権のような主君に出会えて初めて、力を発揮出来たのでしょう。
三国志の張遼は、呉の甘寧と比較されるほどの強さを持っていました。
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捕えられた張遼を助けた関羽と関羽を救出した張遼
かつて曹操と戦い負けた張遼が助かるように関羽が掛け合い、関羽が曹操に降伏した際は、張遼が助命を求めたのです。
張遼と関羽も深い絆のある武将同士と言えます。
三国志の乱世では、敵味方がどんどん入れ替わる複雑な人間関係があるのです。
劉備がどこかで戦死していれば、関羽も曹操の元で張遼のように、大将軍として活躍する世界もあったのでしょうか。
また、関羽と親しかった魏将として徐晃がいます。徐晃も名将と言われることが多いので、関羽は魏の名将2人と仲が良い凄い人と述べられるでしょう。
関羽は自尊心が高く自分の価値観を優先する事が多かったのですが、徐晃は関羽との関係よりも国家の方針を尊重していました。
関羽が呉の人々を侮って最後は失敗したため、自分をいかに律していくかも、身をまっとうする上で重要と言えます。
三国志の張遼は、関羽に命を救われ、張遼もまた関羽を助けたのです。
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三国志張遼文遠(ちょうりょうぶんえん)の他の話
三國志の張遼で知っておくべき別の話もしていきます。
そもそも、張遼の先祖はかつて、匈奴を騙して利用しようとしましたが、失敗してしまい、追及を免れるために張の名前に変更したのです。
中国はいろいろな異民族に囲まれているので、名将張遼も異民族とは無関係ではいられなかったのでしょう。
中国の歴史においても何とか生き残るために、名前を変更するやり方は結構行われています。
あなたの知るあの武将も実は先祖は・・・というケースもあるでしょう。
そして、張遼は、関羽が曹操から去り劉備の元に戻る際に、他の武将をなだめる役割も担いました。
張遼がいなかったら、関羽が無事に曹操軍から出ることは、不可能だったのかもしれません。
他の張遼の知識もお知らせしていきます。
⇒曹操別れ見逃す関羽!称号、贈り物、赤兎馬、孫権、張遼、劉備も解説
張遼は病が死因です
曹操の魏が誇る歴史的な名将張遼も、病には勝てずに亡くなりました。
張遼は病で死去する少し前、孫権と再び戦ったのです。
孫権は合肥の戦いでよほど懲りたのか、張遼が病にも関わらず、張遼を警戒するように他の者たちに指示しました。
張遼は、合肥の戦い以来、魏国の守り神と化していたのでしょう。
そして、諸葛亮孔明は亡くなった後に木像でまるで生きているかのような演出を行い司馬懿仲達を驚かせました。
張遼の木像を作っておけば、呉の孫権を威嚇出来たかもしれません。
また、張遼は謀略で敵をやり込めるのではなく、真っ向勝負で打ち負かす非常にクールな武将とも言えるでしょう。
三国志の名将張遼にも最後が訪れ、病により死去しました。
⇒諸葛亮孔明死因、どんな人?逸話、赤壁の戦い、司馬懿仲達、妻も解説
まとめ:魏の代表的な大将軍張遼!
曹操の部下を代表する偉人の張遼を解説してきました。他の魏将よりも張遼をまずは知るべきでしょう。
呂布奉先と張遼文遠のコントラストも述べました。人は死に際に本性を現すのでしょうか。
そして、呉の主君孫権と張遼の因縁も語りました。他国の主君からも一目置かれる張遼は、ずば抜けた能力と言えるでしょう。
また、武神関羽雲長と張遼の友情にも触れました。立派な友情とは、死中で助け合うものなのでしょうか。
他にも、張遼に近しい武将として、呉の甘寧も記載しました。性格的にはかなり違いますが、武将としての実力は拮抗していると言えるでしょう。
かっこいい潔い将軍が知りたい人は、ぜひ張遼を学んでみてください!